映画感想・レビュー 105/2550ページ

西鶴一代女:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-02

優雅に、悲劇的に、ユーモラスに、そして全体に一本、男性本位の封建社会に対する痛烈な抗議の筋を通して、溝口健二監督は悠々とこの物語を描いている。 お春を演じた主演の田中絹代も”凛とした気迫”をたたえた好演で、芸達者の俳優たちが、入れ替わり立ち替わり現われて、厚味のある場面を作り出していると思う。 そして、隅々にまでよく神経の行き届いた美しいセット、流麗な白黒映像の粋とも言うべきカメラなど、あらゆる面での技術的な水準の高さが渾然一体となり、稀に見る”映画の美”を生み出していると思う。 この「西鶴一代女」は、日本映画史上において、ひとつの頂点を極めた作品だと思う。 そして、溝口健二監督の得意とした長回しが、最高に効果を発揮して、数々のヨーロッパ映画にも影響を与えたのだと思う。 尚、この作品は1952年度のヴェネチア国際映画祭で、国際賞を受賞しています。

西鶴一代女:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-02

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この映画「西鶴一代女」は、17世紀、江戸時代中期の井原西鶴の名作「好色一代女」を、名シナリオライターの依田義賢が脚色した、巨匠・溝口健二監督の代表作の一本だ。

もう老残に近い年齢で街娼をしているお春(田中絹代)という女が、荒れ寺の百羅漢を眺めているうちに、その仏像のひとつひとつが、かつて自分と関係のあった男の顔に見えてくる。

こうしてお春は、男性遍歴の一生を回想することに—-。

侍の娘で、京の御所に勤めていたお春は、公卿の若党(三船敏郎)と愛し合っているところを、役人に摘発され、不義者として両親ともども洛外追放の身となる。

若党は「お春さま、真実に生きなされ!」という遺言を残して打ち首になった。
その後、お春は、奥方に子供が生まれなくて困っている大名の側室に召しかかえられた。

殿様がお春に夢中になると、お春も存分に尽くした。あげく、殿様は房事過多で病気になり、彼女は生んだ子を残してお払い箱になってしまう。

次に、お春は島原の廓に身売りし、大金持ちの田舎者(柳永二郎)に身請けされようとしたが、この男はニセ金づくりで、その場で役人に逮捕されてしまう。

そして、お春は次には堅気の大商人(新藤英太郎)の家の女中となる。
ところが、この主人が好色でお春に目をつけ、奥方(沢村貞子)に嫉妬され、いじめられ、この家を飛び出してしまう—-。

やがて、お春は乞食にまでおちぶれ、街娼たちに誘われて街の辻に立つようになる。
そんな、ある日、母親が彼女を訪ねてくる。お春の生んだ子が大名になって、お呼び出しがあったのだという。

喜んで行ってみると、大名の生母が街娼にまで身を落とすとはけしからん、と永の蟄居を命ぜられたのだった。
お春は一目だけでも我が子に会わせてくれと言い、息子の姿を眺めながら身をくらましてしまったのだ。
そして、尼となって巡礼しているお春の姿でこの映画は幕を閉じる。

醉いどれ天使:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-02

この映画「酔いどれ天使」は、黒澤明監督と三船敏郎のコンビによる、輝かしき第1作目の作品だ。

戦後の混乱が続く映画界で、ようやく占領下のお仕着せを脱却し、混乱期の日本を真正面から捉えた作品になっていると思う。

戦後の混乱の中に生きる人間像が、生き生きと描かれ、黒澤明監督は、独自の個性的なテーマや技法を確立し、新しい一面を鮮やかに示している。

戦後の焼け跡の闇市みたいな所を舞台に、志村喬の酔いどれの医者と、ヤクザの三船敏郎との間に、奇妙な友情が生まれてくる物語で、黒澤明監督の基本的な原点が見られる作品だ。

この黒澤明監督の特色だが、戦後のある時期を、単に淡々と描くのではなく、ある種どぎついものを印象的に描いて、映画の持つダイナミズムを強調している。

志村喬と三船敏郎の師弟的な関係も、黒澤映画の基本的なパターンで、これは彼の「姿三四郎」から「赤ひげ」まで続いていく構造だと思う。

大いなる別れ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-02

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表面上は、すごく平凡な恋愛劇が進行し、その背後で男と女の熾烈な駆け引きが、火花を散らしている。

美女と探偵とが、互いに一芝居を打ち合って、愛の遊戯に興ずるふりをするという、いわば二枚舌の恋愛ゲームなのだ。

このパターンは、「007」シリーズなどでも、甚だしく俗化された形で繰り返されている。

リザベス・スコットは最後に、ボギーに向かって、「あなたのポケットに入れて欲しかった」なんて、健気なことを言いながら、死んでゆく。

男と女が最後に、めでたく結ばれるハッピーエンドが、昼のミステリの特徴であるのに対して、夜のミステリは、必ず悲劇で終わるのだ。

大いなる別れ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-02

この1947年のジョン・クロムウェル監督の「大いなる別れ」は、ハードボイルド・ミステリ映画の傑作だ。

主演は、ハンフリー・ボガートで、共演する悪女が、リザベス・ミコットという、あまり有名ではない女優だ。

この映画は、全篇、夜の雰囲気が立ちこめる。混じりっ気なしのフィルム・ノワールで、夜のミステリにおける悪女の基本形が、くっきりと現れている。

酒場あたりで、主人公の探偵に接近してくる、その謎めいた美女は、むろん女の色香を武器にして、男を罠にかけようとする毒婦であって、探偵はそれをうすうす感じ取りながらも、女の奸計にのせられたふりをして、ひそかに悪女を追い詰めるのだ。

疑惑の影:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-02

退屈な日々を過ごす娘チャーリー(テレサ・ライト)の所へ、突然、彼女の叔父(ジョゼフ・コットン)が現われ、しばらく一家とともに暮らすことになる。

自分と同じ名前を持つこの叔父を、娘は幼い頃から敬愛しており、彼女は大歓迎だったが、その叔父にはどうも不審な点が多かった。

やがて、二人の探偵がやって来て、叔父に殺人容疑がかかっていることを知らされる。
娘は不安になり、調べ出した新聞には未亡人殺しの記事が載っていた。

しかも、叔父が土産にくれた指輪に彫ってあったイニシャルは、被害者のそれと同じだったのだ。

果たして、叔父は本当に殺人犯なのか? 娘の不安は恐怖へと変わっていく——-。

不気味な演奏の「メリー・ウィドー」の序曲のワルツとともに始まるこの映画は、殺人事件そのものや犯人探しがテーマではなく、大好きな叔父さんが、その犯人ではないかと疑う、姪と叔父の物語だ。

この映画は、登場人物の恐怖心理を、スリラーの神様ヒッチコック監督が巧みに映像化していて、二人のチャーリー、二人の探偵、列車の走るシーンが二つなど、二組のペアが次々と登場する。 姪も叔父も同じチャーリーであるのは、ヒッチコック映画の秘密を解く鍵の一つである、左右対称のモチーフ、同じ人間の表と裏、天使と悪魔、他人の犯した罪のために苦しむ人間と犯罪者の葛藤のイメージなんですね。 もちろん死体が出てくるわけではなく、のどかな田舎町の平和な家庭を舞台にした、ヒッチコック監督ならではのサスペンス映画になっていると思う。 そして、ジョゼフ・ヴァレンタインの撮影による緻密な映像が、不安感を見事に盛り上げている。

この映画は、「わが町」で知られるアメリカの劇作家ソーントン・ワイルダーが、ヒッチコックに乞われてシナリオを書いたもので、異色のサスペンス映画というよりも、ずばり、映画の本質とはサスペンスそのものであることを教えてくれる映画だ。 そして、ヒッチコック映画のお楽しみでもある、彼の登場シーンは、冒頭の列車の中の客席の中の一人としてチラッと出てきますので、お見逃しのないように。

逃走迷路:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-02

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現在では観光客は女神像の冠のところまでしか登れませんが、この映画の製作当時は、右手に掲げているたいまつのところまで登れたそうですが、追うケインと追われる犯人は、そのたいまつの外側に出ます。

犯人が落ちそうになり、危うく女神の指の外側に左手でぶら下がり、ケインが犯人を救おうとして手を差し伸べ、ようやく袖をつかむが、袖は腕の付け根にある縫い目のところから破れ、遂に犯人は海に向かって墜落して行きます。

このシーンの海へ落ちて行く男の姿をカメラを固定させたまま、真上から撮る見事なショット—-。
ヒッチコック監督は高所からの転落の演出にもさまざまなバリエーションをもたせていて、見事の一言に尽きます。

このシーンでの音楽も無く、音さえも無い、この数分間はまさしく胸が痛くなる程のスリルと緊張感に満ち溢れています。

いったいどうやって撮影したのかと思われる、じっくり観てもよくわからない凄いカットです。 ヒッチコック映画でのお約束とも言える、ワンカットだけ自身の姿を見せる場面もご愛敬の、まさにヒッチコック監督こそは本当の映画の魔術師なのです。

逃走迷路:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-02

“ヒッチコック監督の名人芸が堪能出来る、追われ型の逃亡サスペンスの傑作「逃走迷路」”

この映画「逃走迷路」は、サスペンス・スリラーの神様アルフレッド・ヒッチコック監督が第二次世界大戦中の1942年に発表した作品で、無実の男が警察に追われながらも、真犯人を突き止めるという、ヒッチコック監督お得意の”追われ型の逃亡サスペンス”の会心作です。

航空会社で働くバリー・ケイン(ロバート・カミングス)は、ふとした事からナチ破壊工作の殺人事件に巻き込まれ、無実の罪で追われる事に—-という意表をつく大胆なストリー展開が、逃走劇の面白さに拍車をかけていきます。とにかく、手に汗にぎる、まさにスリルとサスペンスのつるべ打ち。

アメリカ西海岸の軍需工場で、謎の火災と殺人事件が発生し、無実の罪で追われるケインは、警察と外国のスパイの手を逃れながら、大西部からニューヨークへと真犯人を探して行きます。

真っ白い壁にもくもくと黒煙が上る、冒頭のショッキングな発端。赤ん坊とプールを使ったトリック・ショット。 そして、キラキラと映画を映しているスクリーンの前、銃をぶっ放している犯罪者の影がダブるという、華麗で斬新な映像テクニック。 やがて、スパイの本拠の大邸宅でのパーティの最中に連れ込まれた、主人公のケインと恋人は、踊りながら脱出しようとしますが—-。 とにかく、映画の一場面、一場面が、凝りに凝ったヒッチコックタッチのオンパレードで、映画の楽しさ、面白さを、ヒッチコック監督の名人芸で十二分に堪能させてくれます。 そして、映画のラストシーンは、映画史上あまりにも有名な、自由の女神像の手にぶら下がってのハラハラ、ドキドキのアクション-------。

北西への道:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-02

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この1940年製作の映画「北西への道」は、1750年頃、まだアメリカが独立以前のイギリス植民地時代の東部の話で、植民地争奪戦争の敵方としてのフランス軍がインディアンをそそのかして、イギリス人植民者の農家を襲わせ、虐殺、略奪、婦女誘拐などをやらせていた。

これに対して、イギリス軍のロジャース少佐(スペンサー・トレイシー)の率いるロジャース挺身隊が、野越え山越え、川と森を越えて、すさまじい困難に打ち勝って、森の奥のインディアン集落を襲撃し、これを皆殺しにする。

しかし、帰路は予定していた食糧が得られないために、さらに難行軍になり、多くは飢え、ごく一部の隊員だけが生還する。
この映画は、そんな物語なんですね。

この映画は、戦争の残酷さと非人道性を真っ向から容赦なく描き出した、最初の映画ではないかと思う。
夜明けの静けさの中で、突如、展開されるインディアン集落への奇襲攻撃は、文字通り情け無用の皆殺し戦なのだ。

どんな種類の映画にも、人道的な配慮を怠ることのなかった当時のアメリカ映画としては、異例の残酷描写で、衝撃的だったんですね。

1960年代以後、アメリカにおいて少数民族問題が反省的に見直されるようになって以後、西部劇でも実はインディアンとの戦いは多くの場合、侵略的な皆殺し戦だったのだということが描かれるようになったのだが、それまではこんな描写はなかったのだ。 しかし、ではこの映画はインディアン皆殺しを反省する最初の映画だったかと言えば、そうではないと思う。 ここに描かれているインディアンたちは、白人を襲って頭の皮をはぐ獰猛な連中であり、彼らを皆殺しにしない限り、白人の植民者は安心して暮らすことはできないというふうに描かれているんですね。 そのためには、挺身隊の猛者たちも、ほとんど全滅に近い苦難を経験するのであって、殺すか殺されるかなんですね。 この作品が映画として優れているのは、まさにこの、敵に対して寛大である余裕など感じられなくなるところまで、殺すか殺されるかの切羽詰まった感覚を、肉体的な疲労感まで含めて表現し得ているところにあると思う。

だから、この映画は、勇者たちのヒロイズムを賛美する結末になっていたにもかかわらず、ヒロイズムには酔えない映画であるし、人道主義など吹っ飛んでしまうところまで、戦争の悲惨さを突き詰めていながら、なおかつ戦うべしと言い切っている好戦的な映画なのだと思う。 だから、その印象は、苦くて複雑で重かった。 この映画が製作された1940年は、時まさに第二次世界大戦の初期であり、アメリカが自由主義陣営リーダーとして、日本の挑戦を受けて立って戦争に突入することになる前年のことなんですね。 だから、この映画は、戦意高揚が狙いではないまでも、明らかにアメリカ人の不屈の闘志を称えることを目的としたものだが、しかし、戦争は常に"人間性の破壊"をもたらすということを、キング・ヴィダー監督は見失うことはなかったように思われます。

怒りの葡萄:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-02

この映画「怒りの葡萄」は、文豪ジョン・スタインベックのピューリッツァー賞受賞の小説を、ジョン・フォードが監督した作品だ。

凶作と資本主義の歪みの中で、たくましく生きるアメリカ農民の姿を描き、アメリカ映画の新境地を開いた、社会派リアリズム・ドラマの名作だと思う。

名カメラマン、グレッグ・トーランドによる際立ったモノクロ映像と、ジョン・フォード監督ならではの力強いタッチで、1930年代のアメリカの小作農の惨状を、見事に浮き彫りにしている。

仮出所で刑務所を出て、4年ぶりに故郷のオクラホマの農場に帰ってきた、ヘンリー・フォンダ扮するトム・ジョード。
そこで彼が見たのは、荒れ果てた大地と飢えに苦しむ農民たちの姿だった。

久し振りに再会したトムの家族も同じ有様だったが、母親のマアのたくましさのおかげで、貧しいながらも元気でいた。

だが、土地はすでに人手にわたっていた。そこで、ジョード一家は、オンボロ車でカリフォルニアへと向かう。
だが、希望の土地カリフォルニアで彼らを待っていたのは——-。

トムに洗礼を授けた、元説教師のジョン・キャラダイン扮するケイシーは「自分達はただ一生懸命素直に生きたいと思っているだけなんだ」と、みんなに説く。 そして彼が、暴徒に殺された後は、トムがその気持ちを引き継いでいくことになる。 最初に殺されたケイシーは、いわばキリストであり、そうして、その教えを守っていくキリストの使徒を演じたのがトムではないかという気がします。 この映画は、未曽有の不況の時代において、キリストに対するひとつの気持ちのすがりまでも描いた作品だと思う。

ワルキューレ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★☆☆
投稿日
2024-06-01

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ナチス体制のドイツ、しかも体制内に反ヒトラーの運動と抵抗があった。
これまでにもエピソード的には描かれている、ヒトラー暗殺計画の屈折した詳細を描いたのが、このブライアン・シンガー監督の「ワルキューレ」だ。

ユダヤ人としてのブライアン・シンガー監督の半端でないこだわり。
軍人役も大好きなトム・クルーズほか、テレンス・スタンプ、ビル・ナイ、トム・ウィルキンソンらが渋い演技を見せている。

「ヒトラー~最期の12日間~」あたりから、ヒトラーのナチス体制が一枚岩ではなく、内部に抵抗運動があったという事が、肯定的に描かれるようになった。
ヒトラーを単なる”狂気の悪役”としてではなく、もっと歴史と権力のコンテキストの中で、ナチズムを見る方向が出てきたように思う。
しかし、この種の映画は、どのみちヒトラーに代わる新しい権力、たとえヒトラーよりは民主的なものであれ、それを打ち立てようとする限り、所詮は”権力への意志”に支配された動きであって、権力そのものを乗り越えようとすることとは無縁なのだ。

ルキノ・ヴィスコンティ監督の名作「地獄に堕ちた勇者ども」は、ナチズムが単なる一過的な狂気の産物ではなく、技術と巨大な権力を志向する時には、必ず生まれる症候群として捉え、同時に、その絶望的なまでの頽廃がもたらす、終末の美から、我々が逃れる事ができるかどうかという、試練の中に連れ込んだのだった。 恐らく、ナチズムを乗り越えるには、そういう試練なしには不可能だろう。 単なる、悪の権力に対抗して、それを倒すというだけでは、結局、新たな、今度はそれまでの支配をよりソフトにしただけの支配を生むだけなのだ。 その意味で、この「ワルキューレ」は、トム・クルーズがそのプロデュースにも関わり、セット・デコレーションや衣装に膨大な金を注ぎ込み、実際に美術的には見応えのある、贅沢なセットを作りあげたが、ナチズムそのものの理解と批判においては、非常に底が浅いような気がする。

この作品は、サスペンス映画としては一級品だが、贅沢なポリティカル・サスペンスの域を脱していない。 トム・クルーズ演じるシュタウフェンベルク大佐らのヒトラー暗殺計画は、失敗するわけだから、この映画は結果として、単なる教科書的な歴史の学習か、ヒトラーの悪運の強さの確認、歴史のアイロニーといった事しか得られないのだ。

ヒトラーの贋札:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★☆☆
投稿日
2024-06-01

この映画「ヒトラーの贋札」は、ナチスが強制収容所のユダヤ人に大量の贋札を作らせて、英米の経済を撹乱しようとした「ベルンハルト作戦」に基づく物語だが、描き方は、フィルム・ノワール風のサスペンスになっている。

冒頭は、第二次世界大戦後、解放された、その収容所から生き残ったユダヤ人、サリーが、モンテカルロのカジノで、かつて自分が作ったらしい贋金の一部を蕩尽するシーンだ。

サリーが渋くイキな老遊び人風なので、最初から、この映画がフィクションであるかのような印象を与える。
サリーのような国際的な贋札職人や、印刷技師や、皆、贋札作りに役立つ人間をかき集めてきて、特別の待遇を与えて、組織的に贋札を作らせるナチだが、そのナチ親衛隊員の描き方は、これまでよく見せられて来た一面的なものになっていると思う。

命令し、言うことを聞かなければ、頭にピストルを向けて殺す。やたらと暴力をふるい、捕らわれた者たちは、怪我がたえない。食事は、一般のユダヤ人と比べれば、恵まれているとしても、相当ひどい。

食事に関しては、その通りだったとしても、ナチ親衛隊員というのは、皆このように判で押したような人間ばかりだったのだろうか? もうそろそろ、このようなステレオタイプのパターンには正直、飽きてきた。 贋札工場のユダヤ人の中には、ユダヤ系スロバキア人の共産党員のアドルフ・ブルガーのような人間もいる。 彼は、ナチへの反抗のためか、与えられた作業服を着ず、縞模様のナチの囚人服を着続ける。 また、ユダヤ系ロシア人で、カンディンスキーやバウハウスに共感しているらしいインテリ美術生のコーリャのような者もいる。しかし、映画の視点は、終始サリーに当てられていて、そうした異なる個性が、ドラマに活かされてはいない。 どのみち映画は映画なのだから、こうした贋札工場のユダヤ人たちが、ナチ親衛隊員にいっぱい食わせたというような作りでもよかったような気がする。 実際に、1950年代になって、オーストリアの湖から、この作戦の時に作られた贋札や道具が詰まった箱9個を見つけたという。 ならば、もっと解放的な話にした方がよかったのではないかという気がする。

幸せはパリで:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-01

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ジャック・レモンが得意のうだつのあがらないサラリーマン役に扮し、そんな彼があるパーティで目の覚めるような、カトリーヌ・ドヌーヴ扮するフランス美人と知り合い、いい仲になるのだが、なんと彼女は社長夫人だということがわかり、さあ大変--------。

ジャック・レモンは、自分を蛙に見立てて、それまでのふがいない自分から脱皮して、手の届かない王女のような存在のカトリーヌ・ドヌーヴへの愛を全うするために、全てを投げ捨てパリへと行くのだった--------。

こんな現実離れのした、夢のようなお伽噺の世界を描いたロマンティック・コメディーなのですが、ジャック・レモンとカトリーヌ・ドヌーヴの二人が演じることで、このお話は、その時点ですでにお伽噺の世界なんですよと我々に既に宣言しているわけで、観ている我々としては、その架空のお伽噺の世界にたっぷりと浸って酔いしれればいいわけです。

そして、この映画で最も意外だったのは、監督がスチュアート・ローゼンバーグだった事です。 ポール・ニューマンと組んだ「暴力脱獄」、ロバート・レッドフォードと組んだ「ブルベイカー」などの骨太の社会派映画や、ユダヤ人の悲劇を歴史の大きなうねりの中で描いた「さすらいの航海」などの優れた秀作を撮っていた彼が、まさかこのような軽妙なロマンティック・コメディーを撮るなんて、彼の多彩さに驚いてしまいます。

幸せはパリで:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-01

ジャック・レモン。言わずと知れた、ハリウッド映画界を代表する名優で、「アパートの鍵貸します」「あなただけ今晩は」など、名匠ビリー・ワイルダー監督と組んで、市井に生きる小市民の哀歓とおかしさを滲ませる、シニカルでペーソスあふれるコメディーから、「セイヴ・ザ・タイガー」「ミッシング」などの鬼気迫る、迫真の演技を見せるシリアス・ドラマまで、実に幅広く、そして奥深い演技力の持ち主だと思います。

カトリーヌ・ドヌーヴ。フランス映画界を代表する美人の演技派女優で、ジャック・ドゥミー監督の「シェルブールの雨傘」でブレークし、その後もロマン・ポランスキー監督の「反撥」、ルイス・ブニュエル監督の「昼顔」と、名匠監督の作品で演技派女優として開眼し、公開当時、アメリカで”世界一の美女”との称号を受けたほどでした。

この映画は、ジャック・レモンとカトリーヌ・ドヌーヴという全く水と油のような二人の大物俳優の夢の顔合わせが実現した作品です。

質屋:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-01

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シドニー・ルメット監督のフィルモ・グラフィにおいても、秀作「十二人の怒れる男」、「セルピコ」、「評決」などと匹敵する、いや、それ以上に”人間を見つめる視点の厳しさ”から言えば、彼の代表作と言っても過言ではないかと思います。

ニューヨーク派の演出家と言われる彼だけに、その下町ロケのリアルな現実感が素晴らしく、また、この映画のクライマックスとも思える、黒人女性が主人公の前に身を投げ出す場面の強烈な印象が、脳裏に焼き付いて離れません。

主人公のソル・ネイザーマンを演じたロッド・スタイガーは、その人間の内面から滲み出すような、魂のこもった渾身の演技で、外観上は冷酷非情極まりない初老の男ですが、実はその内面に、人間の心を持ち続けていたという、恐怖や憤怒や嘆きや絶望の感情を巧みに表現し、このソルという複雑な人間像をあますところなく演じ切って、我々観る者の心をグイグイと引きずり込んで離しません。

「夜の大捜査線」での、南部の田舎町の警察署長を見事に演じて、アカデミー主演男優賞を受賞した彼が、それより3年前に、この映画の演技でベルリン国際映画祭と英国アカデミー賞にて、主演男優賞を受賞していたのも、彼の実力からすれば当然だと納得出来ます。

質屋:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-01

この映画「質屋」は、若くしてこの世を去った、アメリカの無名の作家エドワード・ルイス・ウォーランドの小説の映画化で、監督が社会派の名匠シドニー・ルメット監督による作品で、ナチスによるユダヤ人迫害の後遺症を描いた、アメリカ映画では最高峰とも言える秀作だと思います。

第二次世界大戦中のポーランド。野原での一家団欒の風景から、この映画は始まります。
昆虫採集に熱中する娘や風に髪の毛をなびかせて、幸福そうな妻に囲まれて満足そうな表情の、ユダヤ人の大学教授のソル・ネイザーマン(名優ロッド・スタイガー)。

ナチスの強制収容所に閉じ込められた彼ら、しかも、妻と娘が無残にも虐殺されてからの数年間を、彼は精神的な廃人として生きて来た、苦悩に満ちた悲惨な過去を持っています。

シドニー・ルメット監督は、絶えず去来するポーランド時代の悲惨な悪夢を、回想形式でフラッシュ・バックの手法で描いていて、”人間の孤独な苦悩”を冷徹で静かに、しかし、厳しい視点で見つめています。

クイルズ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-01

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その退廃的で卑猥な内容から、発禁処分を受けながら、権力に屈することなく、挑発的な作品を世に送り出す。

禁じられれば禁じられるほど、書くことへの執念が燃える。
周囲の人間を少しずつ虜にしていくサド侯爵。

だが、遂に彼を監視する目的で、精神病院の責任者が新たに送り込まれ、彼は窮地に立たされる。
サドの書くことへの執念は、果たしてどのような結末を迎えるのか?-------。

これだけ主役、脇役ともに芸達者が揃う映画も珍しい。
特に、主役のサド侯爵を演じるジェフリー・ラッシュは凄い。


この鬼気迫る感じは、まさにジェフリー・ラッシュならでは。
色気も意外とあったりして、とにかく凄い俳優だ。

ペンと紙を奪われ、書くことを禁じられたサドは、まずはワインと鶏肉の骨を使ってシーツに書く。
それも禁じられれば、自らの指を傷つけ、その血で自分の衣服に書く。
衣服を奪われれば、獄中の狂人と小間使いのマドレーヌを使って、口伝えで文章を伝える。

そして、それが原因で恐ろしい事件が起き、拷問の末、遂に地下牢に全裸でつながれれば、自らの排泄物で壁に書く。 まさに凄まじいまでの情念なのだ。 18~19世紀に言論の自由を謳うのは、かくも命懸けのことだったのだ。 サドの言動に戸惑いながらも、彼に惹かれずにはいられない若き神父は、ミイラとりがミイラになってしまうのだけど、この徐々にサドを理解して傾倒していく様子が少し弱かったような気がする。 マルキ・ド・サドを心のどこかで理解しながら、愛するマドレーヌが非業の死を遂げて、悲しみと怒りで凄まじい行動をとり、遂には発狂する。 彼がこうなるプロセスを、もう少しじわじわと描くことが出来れば、ラストがもっと効果的だったはずだ。 サディズムの定義は、他者に苦痛を与えることで性的な快感を得ることだ。 その生涯で27年以上も牢獄暮らしをした、サド侯爵の本名は、ドナシアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド。

代表作は「ジュスティーヌ」「ソドムの百二十日」など。 「ソドムの百二十日」は、イタリアの鬼才ピエル・パオロ・パゾリーニ監督によって映画化されたが、まことに凄まじい作品だった。 美徳を知りたければ、まず悪徳を知ることだとはサドの名言。 言論の自由が、この作品の最大のテーマだが、かなり挑発的で見応えのある映画だ。

最終更新日:2025-03-17 11:00:02

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