映画感想・レビュー 172/2627ページ

帰って来たドラゴン:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-13

この映画「帰って来たドラゴン」は、1970年代の前半においてブルース・リー主演の「燃えよドラゴン」で火が付いた世界的なカンフー・アクション映画全盛の中で、おびただしい数の香港カンフー映画が日本で公開されたが、この映画はそうした中でもかなり面白い作品だ。

その名前のせいで、公開当時、ブルース・リーの弟子だとか、第二のブルース・リーなどと呼ばれていた、この映画の主演のブルース・リャンは、実は、1970年代の初めから香港映画界でスタントマンや武術指導をしていたのだが、そのあまりのカンフー技の凄さが認められて、その後、数多くのカンフー映画に主演したという経歴の持ち主なのだ。

特に、彼の2メートルも跳ぶ驚異的なバネを生かしたハイキックや、走りながら連続して行なう足蹴りなど、とにかく彼のキレのあるスピーディーなカンフー・アクションは、当時の香港、台湾の数あるカンフー俳優の中でも、ずば抜けた身体能力で、ひと際光っていたと思う。

この「帰って来たドラゴン」は、香港製のクンフー・アクション映画だが、コメディ・スタイルになっている。

将軍たちの夜:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-13

彼は上官である将軍たちを少しも恐れず、是が非でも殺人罪で検挙したいとの一念に凝り固まっていて、戦況が自国であるドイツに不利になってきても、意に介さないどころか、国防軍によるヒトラー暗殺未遂事件が起こっても、全く関心を示そうとはしないのだ。

そこには、正義を追求するという以上の何かしら尋常ならざるもの、犯人の異常さとも通底する、ある種の不気味さが感じられるのだ。

このように、この映画は観る角度を変えることで色々な見方の出来る、そんなスリリングな作品でもあるのだ。

将軍たちの夜:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-13

戦争は、そんな彼の異常性を解き放つ舞台になるのだ。
将軍という地位を利用して、街という街を破壊し、敵を無残にも殺戮し、なおそれでも足りずに、深夜ひそかに女性を求め、惨殺していく。

このサディスト的なタンツ将軍が、パリのルーヴル美術館でゴッホの自画像と対峙するシーンは、まさに背筋も凍るほどの凄さだ。
狂気にかられて、自分の耳を削ぎ落とした直後のゴッホ像は、まるで彼の内面と共鳴しているかのようで、底知れぬ怖さが私の心を射抜いていく。

ピーター・オトゥールの鬼気迫る演技は、私の心を掴んで離さない。
そして、この映画の複合的で奇妙な面白さの要因になっているのは、この事件を追うドイツ軍少佐の異様なほどの執拗さだと思う。

将軍たちの夜:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-13

1942年の冬、ナチス占領下のワルシャワで一人の女が惨殺される。
捜査にあたったドイツ軍の少佐は、証人への尋問などから容疑者を三人のナチス将軍に絞り込むが、犯人を特定する前に、パリへと飛ばされてしまう。

それから二年後、ドイツ軍が占領したパリで、またもや娼婦が惨殺された。
二年前に捜査を担当したオマー・シャリフ扮するドイツ軍少佐は、いっそう闘志を燃やし、連続殺人犯を追っていくが。

この物語の舞台は、ポーランド、フランス、ドイツと拡がり、時間的な流れも含めてスケールも大きく、それに伴って登場人物も実に多彩で、この忌まわしき時代の混沌が、迫真性を持って描かれ、緊迫感に満ちている。

この映画で描かれるのは、容疑者の将軍の一人であるピーター・オトゥール扮するタンツ将軍の異常ぶりを示す”恐怖の人間像”だ。
戦場にありながら、部下の手袋の染みさえ許さない、この男の世界観においては、隣国の人々もユダヤ人も娼婦もゴミでしかないのだ。
そして、ゴミは一掃されるべきだと妄信している、サイコ的な恐ろしさ。

アンツィオ大作戦:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-13

映画は、この七人の悪戦苦闘ぶりをメインに描いており、背景のスケールは大きいが、ドラマとしては、かつてのTVの人気シリーズ「コンバット」と似たり寄ったりという感じなんですね。

大々的なスペクタクルを期待して観ると、少々アテが外れてしまいますね。
ただ、七人の生き残りの連中に関する限り、さすが「ケイン号の叛乱」や「若き獅子たち」のエドワード・ドミトリク監督だけあって、面白みこそないが、手堅くがっちりと描いていると思いますね。

前面には敵の火炎放射器、後方には地雷原、この絶体絶命のピンチをどう切り抜けるか、といったサスペンスも用意されていて、ハラハラ、ドキドキさせられますね。

アンツィオ大作戦:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-13

この映画「アンツィオ大作戦」は、第二次世界大戦中の一コマで、イタリア半島のアンツィオに上陸した米英連合軍を描いた作品だ。

アメリカ人の特別通信員のロバート・ミッチャムと、万事に抜け目のない伍長のピーター・フォークが中心となって映画は展開していく。

ドイツ軍の抵抗を受けずに上陸したものの、司令官のアーサー・ケネディの将軍は、ロバート・ミッチャムたちがローマまでジープを乗り入れて、敵の兵力が皆無に等しいことを調べてきたにもかかわらず、すぐに攻撃せずに、ゆっくりと陣地固めをしていて、その間にドイツ側は兵力を集結させて、米英連合軍側への包囲網を整えてしまうのだった。

そして、米英連合軍は全滅状態となり、ロバート・ミッチャム、ピーター・フォークたち七人だけが生き残り、農民の家族の協力を得て、ドイツ軍の堅牢な要塞へ戦いを挑むのだが-------。

アイアン・イーグル:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-13

「ブルーサンダー」のスタッフが、F16の翼にカメラを仕込んで撮影した空中戦の迫力は物凄い。
観ていて、空中戦を実体験しているかに思えるスピード感と迫真力。
ところが、その迫力にもかかわらず、どうしてもカタルシスがわかないのだ。

いかにひどい軍事裁判で死刑を宣告されたとしても、むこうはそれなりの主権国。
その言い分がある筈だ。それをいきなり乗り込んで、空中戦を演じたり、地上の施設を壊したりとなると、これはもう戦争ではないか。

父子愛、師弟愛というドラマチックな設定があるとしても、どうしても、このクライマックスにはのめりこめない。
ミグ戦闘機を操る国をはっきり敵と言い切るあたり、アメリカ人の考えもさりながら、そういう世界の現実に、あらためて背筋が寒くなる。

アイアン・イーグル:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★☆☆☆
投稿日
2024-06-13

この映画の主人公は18歳の高校生。
父は、アメリカ空軍のジェット・パイロット。
少年は、父の跡を継いで大空に飛翔したいという夢を持っていた。

すでに、セスナの免許は持っている。
シュミレーション訓練で、ジェットの操縦も大丈夫。
ところが、空軍士官学校の試験に学科で落ちたのだ。

そんなある日。中東の上空でテスト飛行中だった父が、敵(!?)のミグと遭遇し、捕虜になる。
しかも、無法な裁判で死刑の宣告を受ける。

死刑執行まで残された時間は僅か。
アメリカ空軍としては、動きようがない。
逆に少年は、ジェット戦闘機を飛ばして、父の救出に向かうのだった--------。

キャノンボール:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-13

この暴走族のリーダーが何と「イージー・ライダー」「ワイルド・エンジェル」のピーター・フォンダ。
そして、アストンマーチンに乗って現われるのが、ご存知3代目ジェームズ・ボンドことロジャー・ムーア。
あの007のパロディを、ボンド・スター本人が平然とやって見せる度胸の良さ-------。

それから、懐かしいディーン・マーティンとサミー・デイヴィスJr.は、偽牧師。
サミーが出演すると、見事に画面が楽しくなって、本物のエンターテイナーとはこれなんだと妙に納得してしまいます。
おかげで他のスターは完全に食われてしまってお気の毒様という感じになります。

この映画の監督は、「トランザム7000」のスタントマン出身のハル・ニーダムですが、彼の演出は目先のアクションは描けても、ドラマ全体をつかむ力がないために、スター個人の魅力のみに頼らざるを得なくなり、全体として破綻してしまっているような気がします。

エンドタイトルに、香港映画お得意のNGカットのシーンが流されますが、スターたちの楽しい素顔が出ていて、これらがこの映画の中で一番面白いという皮肉な結果になっていたと思います。

キャノンボール:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-13

この「キャノンボール」という映画は、アメリカの東海岸から西海岸までの5,000キロを普通乗用車で突っ走って、誰が早く完走するか、その大レースを面白おかしく大賑わいの娯楽映画に仕立てたアメリカ・香港の合作です。

まず面白さのポイントは何といっても、その豪華なキャスティング。
救急車でぶっ飛ばそうとするのが、公開当時、マネーメーキング・スターの常連だったバート・レイノルズ。
救急車なら警察の検問も切り抜けられて、思い切りスピードも出せるというわけです。
このあたりは、四六時中、救急車のサイレンが鳴っていると言われるアメリカならではの、ズバリ笑いにつながるギャグなのかも知れません。

そして、彼に巻き込まれるのがTV版「チャーリーズ・エンジェル」で大人気だったファラ・フォーセット。
アメリカと香港の合作という事で、当然の事ながら、当時、香港の大スターだったジャッキー・チェンとマイケル・ホイも出演していて、彼らは日本人を徹底的に風刺する存在として登場。
でも行く手を暴走族に阻まれれば、お決まりのカンフー・アクションが炸裂-------。

陽のあたる場所:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-13

エリザベス・テイラーとモンゴメリー・クリフトの呼吸がピッタリで、いかにもハリウッド映画らしい華やかさと社会性が楽しめる作品だ。
脚本、撮影、作曲、編集、衣裳部門のアカデミー賞を受賞しながら、主演の二人に与えられなかったのが信じられない。
特に、クリフトのナイーヴな演技は胸を打つ。
資本主義社会における貧しい者のつらさを知って育った青年が、やっとつかんだ出世の糸口を離すまいとする切ない心情を、クリフトは実にうまく演じていると思う。
そして、テイラーの役が単なる令嬢ではなく、上流階級の欺瞞を告発する立場で描かれているのもいい。
結局、この青年は、社会の組織に嵌められたようなものだが、そこをメロドラマにすり替えたところが、ジョージ・スティーヴンス監督らしい職人芸だと思う。

カールじいさんの空飛ぶ家:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-13

アニメならではのカラフルな色使いで、夢溢れるシーンを美しく描き出している。

ここまでは感動のファンタジー。
だが、ここからは冒険アクションへと変貌する。

カールは機転を利かして、次々と訪れるピンチを乗り越え、体を張って勇敢に悪人どもと戦っていく。
その姿は、まるでインディ・ジョーンズのようだ。

老夫婦の愛に胸を打たれるのもよし、登場する可愛い犬たちに歓声をあげるもよし、バトルアクションに手に汗握るもよし。
まさに老若男女、3世代で楽しめるエンタメ作品だ。

カールじいさんの空飛ぶ家:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-13

ピクサーが、初めて平凡な人間を主人公に据え、絶望から再生していく姿を描いたCGアニメが「カールじいさんの空飛ぶ家」だ。

78歳の独居老人カールが、亡くなった妻を回想する場面から、この物語は始まる。

幼い頃の出会いから永遠の別れまで、節目節目を絶妙に配した映像によって、二人の人生を紡ぎ出す。
わずかな時間にすぎないのだが、夫婦の深い愛と絆、カールの悲しみがじんわりと伝わってきて、切ない思いに駆られてしまう。

ラストシーンが強く印象に残る事はよくあるけれど、冒頭の場面でこれほどに魅了される作品は、極めて稀だと思う。
このシーンだけで、短編映画が1本出来るのでは、と思えるほどの巧みな演出だ。

そしてすぐに、第二の見せ場がやってくる。
都市開発で立ち退きを迫られたカールが、妻の思い出が詰まった我が家に、無数の風船をつけ、空へと飛び立つシーンだ。

殺しの接吻:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-13

この映画の原作は、名脚本家のウィリアム・ゴールドマンの同名小説。

ニューヨークの地下鉄で頻発する、女性の連続殺人事件。
刑事のジョージ・シーガルは、被害者の額に、キスマークが残されているのを逆手に取り、犯人に罠を仕掛けるが-------。

ボストン絞殺魔をモデルに、刑事と犯人の奇妙な友情を絡めた、サスペンス映画の佳作だ。

プリンス ビューティフル・ストレンジ:P.N.「おばさん」さんからの投稿

評価
☆☆☆☆
投稿日
2024-06-13

※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]

他の方も書いていますが、プリンスのインタビューやパフォーマンスなど一切出てきません。子供のころの影響とか、ストイックな姿勢とかを彼の周りの人たちが証言するという退屈すぎる映画。

サウンド・オブ・ミュージック:P.N.「pinewood」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-13

♬今朝のNHKラジオ深夜便アンカー石澤典夫は本篇依り映画音楽特集,ジュリー・アンドリュースのうたごえが響き渡った。映画マイ・フェア・レディはオードリー・ヘップバーンにヒロインの座を譲って仕舞ったと云うエピソードも。もし本篇がヘップバーンだったら何て想像して見るのも愉し

ガルシアの首:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-12

※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]

サム・ペキンパー監督は、西部開拓者の名門の出身だそうだ。ということは、多分、独立自尊とか、勇気とか、自らの力で秩序をそっくり作り上げて、実力でそれを人々にも守らせるといった、伝統的なアメリカ精神の誇りというものを人一倍強烈に、その血の中にたぎらせている人間だということであろう。幸か不幸か、現代は、そういう精神が深い懐疑に包まれている時代だ。開拓者精神が無邪気に賛美された時代は、ジョン・フォード監督やハワード・ホークス監督の全盛期で終わったのだ。

サム・ペキンパー監督は、そういう誇りを誰よりも純粋に身に付けていながら、しかも、その誇りが時代遅れのものとして見捨てられかけている時代に生きている。
このことの苦悩が、サム・ペキンパー監督の作品を一貫するモチーフになっていると私は思っています。

時として、これは、より反動的な暴力賛美として噴き出すことがあるのです。

ダスティン・ホフマン主演の「わらの犬」のように、あるいは、スティーヴ・マックィーン主演の「ゲッタウェイ」のように。 しかし、反動的な暴力賛美といっても、タカ派的なそれのように厚かましく颯爽としたものではなく、ヒーローたちは深い悲しみに沈んでいる。 いずれも、開拓時代ならば男の中の男であり得た男たちが、そうでない時と場所で生きたために、あるいはズッコケ、あるいはニッコリとは笑えぬ破目に陥る物語であった。 「ガルシアの首」では、ウォーレン・オーツが演じている、メキシコのしがないバーのピアノ弾きも、もし開拓時代の西部で生きていたならば、いっぱしの男の中の男であり得たかもしれない男である。 しかし、今、彼は、汚辱にまみれた境遇にあり、その境遇から抜け出すために、自分の惚れている娼婦の愛人だった男の死体を墓から掘って、その首を盗んでくるという、まことにもって浅ましい、みっともない仕事を引き受けるのであった。

その仕事を引き受けたことで、すでに十分、彼の自尊心が傷付いていることは、ウォーレン・オーツのデリケートな表情でよく分かるし、そこに私は、西部男の純朴さをかなぐり捨て、ハリウッドの商業主義の汚濁の中を生きているペキンパー自身の分身が見えるように思う。 ウォーレン・オーツの演じる主人公ベニーは、愛している娼婦エリータを案内人にして墓探しの旅に出る。 ウォーレン・オーツもいいが、このエリータを演じるメキシコの女優イセラ・ベガが、社会の辛酸をなめつくしている女の分別豊かな色気を見せて、実に素晴らしい。 ベニーは彼女に結婚を申し込むのだが、彼の彼女に対する態度には、例えば、ジョン・フォード監督の「駅馬車」でジョン・キャラダインの紳士賭博師が、馬に乗り合わせた東部のレディに対して示した丁重さに一脈通じるような、西部男の理想化されたフェミニズムの匂いが漂っていると思う。 うだつのあがらない男の娼婦に対する手荒い態度が、基本になっているにもかかわらず、だ。

つまり、彼は、もし開拓時代の西部に生きていたら、レディを守って獅子奮迅の活躍をしたであろうようなタイプの、誇り高き荒くれ者なのである。 ところが今、彼は、この尊重する女の前に、金欲しさに死体探しをしている男というみっともない姿をさらしている。 その恥ずかしさをこらえながらの愛の告白と、彼の恥ずかしさを十分に理解している女の慎ましい思いやりのこもった受け容れ方と。 二人の感情のデリケートに交錯する墓地までの道行きの情感の細やかさこそは、この映画の圧巻だと思う。 二人が自動車で、かつてエリータの愛人だったガルシアという男の墓のある田舎へ行く途中、一夜、野宿をして、草むらでしんみりと夜食をとっていると、突然、二人組のオートバイ乗りのヒッピーがやって来て、ニヤニヤ近づいてきて、拳銃を出してエリータとやらせろと脅すのだった。 ベニーとしては男の度胸の見せどころだが、エリータはどうせ自分は娼婦なんだから私に任せておいてちょうだい、仕方ないわという調子で応ずるのだった。

そして、物陰に連れて行かれると、そこは商売柄なのか、エリータの態度に若干の媚びが出る。 すると、ベニーはもう一人をぶん殴って拳銃を奪い、エリータと寝ようとしている奴を射殺するが、エリータのヒッピーに対する媚態めいたところを見たのは、ベニーにとってやはり悲しいのだろう。 エリータの方もそれをみられたのは、やはり辛いのだろう。 その夜、ホテルの薄汚い部屋をとると、エリータはシャワー・ルームに入ったまま、しばらく出てこない。 ベニーがドアを開けてみると、エリータはシャワー・ルームの床にあぐらをかくようにして座ったまま、辛そうな表情に沈み込んでいる。 その脇に、彼女を励ますような表情で立ったベニーも、実に辛い。中年の二人の、人生の辛酸を知った思いやりと自責の念。 実に見事だ。 サム・ペキンパー監督は、暴力映画の名監督として知られ、この映画でも後半、私が最も好きな深作欣二監督に匹敵する、その暴力演出の凄みは十分に出ているが、その暴力描写を生かしているのは、前半の情味であると思う。

ベニーは、傷付いている自尊心を抑えに抑えて、死体盗みというみっともないことをやる。 ところが、自分はだまされていたのだった。 ガルシアの首を盗んでこいと彼に依頼した黒幕は、帰り道に殺し屋たちを待ち伏せさせておくのだった。 ベニーは、自分の恥部を全てさらけ出して愛を求めた女を殺されたうえに、死体の首は横取りされてしまったのだ。 ベニーは怒る。その怒りは、単なる金銭の恨みに発するものではない。 耐えに耐え、抑えに抑えた自尊心を踏みにじられたことに発する憤怒なのだ。 この取り戻した首と一緒に旅をするウォーレン・オーツの、次第に錯乱気味になってゆく懊悩の表情は、あたかも人形浄瑠璃のサワリの部分に見るような、力を振り絞ったのろい動作なのだ。 片手にガルシアの首の包みをさげ、片手にドライアイスの包みをさげて、悄然とメキシコ・シティの自分のアパートに帰ってきたベニーが、首の包みにドライアイスを詰めたうえで、どうにも憤怒に耐え兼ね、身悶えしながらベッドにのけぞる-------。 暴力描写以上に、この抑えに抑えた場面こそが、この映画のクライマックスであろう。

とはいえ、暴力描写の凄みがペキンパー映画のセールス・ポイントであることは否定できない。 ベニーは、二人のヒッピーを射殺したのを手始めに、エリータを殺して首を盗んだ二人組の殺し屋を殺し、さらに首を受け取りに来たアメリカ人のもう二人の殺し屋を殺す。 この殺し屋たちは、その直前に、首を取り戻しに来た村人たちを虐殺しているのだ。 ベニーはさらに、殺し屋どもの本拠に乗り込んで、親分はじめ皆殺しにし、首の注文主と分かった田舎の豪族の屋敷に乗り込んで、エミリオ・フェルナンデス扮する大地主を殺し、その部下たちから撃たれて、車ごと蜂の巣のようになって果てるのだった-------。 殺しの量や激しさだけなら、最近はこれに類する映画は少なくない。 この映画の見どころは、その殺しのシーンにみなぎる苦悶の情感なのだ。 その苦悶に、私は、過大な自尊心を強引に振り捨てざるを得ない立場に置かれたアメリカ人の苦悶が、重なって見えてくるのだ。

男らしさというものの価値の急速な下落に、耐えに耐えてきた男が、もはや西部劇のヒーローのような行動の仕方には、なんの意味もありはしないということを百も承知のうえで、その無意味さに敢えて殉ずる、といった悲壮さがそこで浮き彫りにされているのだと思う。

最終更新日:2026-02-06 16:00:02

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