碁盤斬り:P.N.「ひびこれ」さんからの投稿
- 評価
- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-05-22
※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]
5つ星にしたいですが、二つ気になる所がありました。
① 格之進は食べる金もなくそんなに何日も柴田を探し歩けたのか。
②大晦日、その柴田にに斬られた腕の傷を負い、首を落とした後で門の前まであんなに走れたのか。
ですが憎たらしさも含めて、囲碁の魅力と人間らしさをこれでもかと味わいました。
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5つ星にしたいですが、二つ気になる所がありました。
① 格之進は食べる金もなくそんなに何日も柴田を探し歩けたのか。
②大晦日、その柴田にに斬られた腕の傷を負い、首を落とした後で門の前まであんなに走れたのか。
ですが憎たらしさも含めて、囲碁の魅力と人間らしさをこれでもかと味わいました。
皆、善人ばかりで、おもしろいというより感動した
斎藤工くんはもっと悪人であったらばよかった
敵役には、相応の理由がある、みたいな設定は無い方が個人的に◎
今日のNHKラジオ第一ふんわりは山口百恵特集中3トリオへ至るデビュー曲から宇崎竜童&阿木燿子のコンビに依るヒット曲迄
🦖今朝のジェイウェイブのラジオ番組ジャストリトルラビングは水ジャーナリストの話や海外の博物館の話題,其処で思い浮かぶのが映画ナイトミュージアムのシリーズや博物館を廻る貴重な記録映画の数々🦕
今朝のNHKラジオ深夜便の公開録音ゲストは戸田菜穂,向田邦子作品・監督久世光彦演出ドラマのこぼれ話も披露。映画・夏の庭などではテイクを繰り返したと。演出の厳しさは勝ち気な彼女を鼓舞。脚本通りに演じるのでは無く幾つのものパターンを用意して本番に望んだプロ意識を感じさせた
ボブ・マーリーとイギリスの関係は、ジャマイカとあまりにも近いのだと、改めて知りました。
その生い立ち、割り切れない存在だからこそ、すべては1つの意味を誰よりも深く理解し、メッセージを歌として表現できる。
あの時代、あの場所で、彼の存在が、複雑な関係を修復出来たのは、彼の複雑な生い立ちが、正に、メッセージだった。
奇しくも、リンカーンの言葉、「意志在るところ道は拓ける」。
その意味を地で言った彼の人生を垣間見る事の出来る作品です。
よく、音楽の力を謳うアーティストはいますが、そこに、ソウルはあるのでしょうか?
あなたの聴く音楽は、大人も子供も1つに出来るアーティストですか?
その時代、その場所で、皆の意識の流れで生きていた、ソウルを持ち合わせたアーティストをあなたは目撃できるでしょう?
作品では言及の無い2度の来日も彼のワールドワイドな活躍を物語る。本物は、必ず日本へ辿り着くと昔から言います。
👧ラジオ深夜便でguestの戸田菜穂は本篇撮影に際し,とても厳しかった相米慎二監督の思い出話をして貴重な体験を振り返る
はっきり言って退屈。
1時間で飽きた。
本なら読めるけど、映画で行ったり来たり、時系列が混乱する。
TENETを見てる時も同じ感想だった。
支離滅裂な人のストーリーテリングみたいです。
複雑な構成の原作を映像化するのは難しそうだったが、見事に整理され却って理解しやすくなった。
大森監督お見事。
理不尽に満ちた美しい世界。
このシリーズで観た中で、最低の映画。駄作。こんなもの金取ってみる映画ではない、と私は思います。なぜなら、15歳の娘にあれぼど親が気を遣うのも変だけど、そのおかげでとんでもないことになる。最後まで観るのがつらいほどのひどさ。ちょっと立ち止まって考えてほしい、私はそう思いました。スミマセン。
杉浦日向子の原作は筑摩書房刊のハードカバーの豪華本,章立ての枕絵も艶やかに魅せる江戸の風俗画スタイルも興味津津何だ
1962年(昭和37年)5月12日に、兵庫県西宮市から出港したマーメイド号は、米国のサンフランシスコ港に入港した。
堀江謙一青年の、このひとりぼっちの旅を再現したのは、名匠・市川崑監督で、堀江に扮したのは、石原裕次郎だった。
この映画が出来たのは、ヨットによる太平洋横断旅行のほとぼりも、まださめない1963年のことで、まるでドキュメンタリー映画を観ているような気分になってくる。
太平洋という大海に出た、ひとりの若者の生活がユーモラスに、しかし、厳しく捉えられている。
回想シーンという形で、家族などが描かれ、なぜこの旅をするのかと問いかけた。
ぶつぶつ、独り言を言ったり、一人はしゃぎまわったりする姿は、まさに暴風に見舞われ、木の葉のように大海に弄ばれるヨットに似ていた。
画面のほとんどは、この若者ひとりしか出てこない。
孤独感が、この映画全般にわたって、ひしひしと観ている私を包みこみましたね。
正から負へのボルテージの反転という彼のこの手法は、「キャリー」のハイライト・シーンで延々たるスローモーションの後に、主人公を幸福の絶頂から奈落の底へと突き落とした瞬間に開花していたと思う。
「殺しのドレス」では、アンジー・ディッキンソンが情事の後の心地よい疲労感に酔いながら、健康診断書の一文を盗み見る一瞬に集約されている。
その一瞬を境に、物語は加速度的に不吉な雰囲気を増し、エレベーター内でのカタストロフへとなだれ落ちていく。
この作品を支配する二面性—現実と悪夢、都会的に洗練されたタッチとプリミティブな血のイメージ、エロティックな官能美と剃刀の刃が代表する金属質のクールさ、鏡に象徴される性倒錯者の実像と虚像—は、このように相対する”陰”と”陽”の接点を、鮮やかに描き分けるブライアン・デ・パルマ監督の独自の手法によって、銀幕上で融合するのだ。
映像の魔術師、ブライアン・デ・パルマ監督の華麗な映像テクニックは、銀幕の上に”悪夢”を現出させてしまう。
この場合の悪夢とは、「キャリー」のショッキングなラスト・シーンのように、文字通りの悪夢という意味合いでもいいし、彼の作品中で起きるサスペンスフルで異常な事件そのものが、悪夢なのだと考えてもいい。
それによって彼は、我々観る者を”現実世界”から一気に、映画という非日常的な”虚構世界”の内へと引きずり込む。
この「殺しのドレス」においても、オープニングとエンディングを飾る悪夢は、作品そのものを一つの異次元空間として、現実から切り離すキーの役目を見事に果たしていると思う。
この”現実”から”悪夢”へとワープする一瞬の落差が、ブライアン・デ・パルマ監督作品独特の恍惚感とも言える、スリリングな感興を引き起こす。
それは、エレベーターで急降下する際のちょっと気の遠くなるような眩暈の感覚にも似ている。
まるで、アリステア・マクリーンの原作かと間違えそうなお膳立てで、西部劇の世界ではジョン・フォード監督の後継者だと言われたアンドリュー・V・マクラグレンが監督だが、舞台が船ではいささか勝手が違い、職人監督らしい手慣れたまとめぶりを見せているが、とりたてて新鮮な魅力も強烈なパンチもなく、普通の娯楽映画の域にとどまっていると思う。
ロジャー・ムーアが、髭面の精悍な感じで、ジェームズ・ボンドとは、またひと味違った良さを出していたし、特に悪役に扮したトニ・パキことアンソニー・パーキンスが、インテリ的な小悪党を楽しそうに演じていて、なかなか味があって、良かったと思いますね。
この映画「北海ハイジャック」は、イギリスが国家事業として力を入れていた、北海の海底油田を題材にした冒険アクション映画だ。
三代目ジェームズ・ボンドのロジャー・ムーアが、女性よりも猫と刺繍が大好きという、変わり種の私設フロッグメン・チームのリーダーに扮し、北海油田の爆破をネタに身代金を要求するハイジャッカーと対決するというストーリーが展開していく。
物資を輸送する貨物船を、新聞記者に化けたアンソニー・パーキンスの一味の6名がこの船を乗っ取り、二つの油田基地に海中から爆発物を取り付け、24時間以内に2,500万ポンドをよこさなければ、爆発させるとイギリス政府に通告する。
このサスペンスが持続する間に、提督のジェームズ・メイスンと私設フロッグメン・チームのリーダーのロジャー・ムーアが、基地の一つにヘリで急行、対策を推し進めるのだった。
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途中で心臓が悪いベン・ジョンソンが死んだりするが、危機感よりゲームとしての興味が主体で、キャンディス・バーゲンが囚人を脱走させるために参加していたというトリック的な趣向も盛り込まれている。
血気にはやり威張りちらしていた若者ジャン・マイケル・ヴィンセントが、砂漠で馬に無理させ、死なせてしまい、ジーン・ハックマンにどやされてから、急にイエス・サーというような態度になるのも微笑ましい。
この砂漠やゴールにさしかかる場面の、真っ白に塩を噴き出した馬の描写には、感心させられた。
そして、ジーン・ハックマンが、馬をいたわるのを見たジェームズ・コバーンが、追い越せるのにわざと一緒にゴールに入るラストは、定石とわかっていても、実に後味がいい。
リチャード・ブルックス監督の「弾丸を噛め」は、ジーン・ハックマン、ジェームズ・コバーン、キャンディス・バーゲンと、なかなか賑やかな顔ぶれのウエスタン・アドベンチャーだ。
カリフォルニア方面からコロラド方面に向かってのレースの話で、時は1908年、主催がデンバーの新聞社だから、当時の時点での西部への懐古趣味を盛った企画だったと想像される。
イギリスからイアン・バネンが参加するなど、国際的な顔ぶれの8人が、それぞれ自慢の馬に乗って、約1週間のレースを続ける。
そして、その間の数々の冒険と出場者たちの人間関係が描かれていく。
コースに沿って鉄道が走っているらしく、主催者は列車におさまって競争の進行状況をチェックし、落伍者は収容する。
だから、人里離れた救出不可能な荒野での冒険という切迫感がわかない。
古い地下鉄の車輛が動き出すところなど、ジャック・フィニィの傑作小説「レベル3」を連想してしまうほどだ。
かつて、アメリカでクローン人間化計画がとりざたされていた事を思うと、「ミミック」の怖さには戦慄を覚えてしまいます。
遺伝子操作に批判的な学者(F・マーリー・エイブラハム)の「街は研究室より広いんだ」という言葉。
つまり、現実は学者の机上の計算通りには運ばないものなんだという言葉が胸に突き刺さります。
迷路のような暗闇の地下世界と、巨大なゴキブリを思わせるクリーチャーの造形も不気味で、陰影に富んだ映像を駆使して恐怖の演出を見せた、ギレルモ・デル・トロ監督。
彼はやはり、当時からタダ者ではなかったことがわかります。
この映画「ミミック」は、鬼才ギレルモ・デル・トロ監督が、ニューヨークの地下に蠢く、進化した昆虫の猛威を描いた”バイオ・スリラー”の傑作だ。
遺伝子操作によって作り出された生物が、昆虫学者の予測を裏切って独自の進化を遂げてしまい、遂に人間を襲撃するようになるという話だ。
キワモノ映画かと最初は思って観ていたが、意外と予想以上に面白く、そして怖い。
昆虫学者のスーザン(ミラ・ソルヴィーノ)は、流行する疫病の防止のために、新種の昆虫”ユダの血統”を開発する。
そして、3年後、街の地下で絶滅したはずの”ユダ”に似た昆虫の死骸が見つかった。
真相を探り始めたスーザンたちは地下へ潜入。
そんな彼らに、変態を遂げて巨大化したユダが襲いかかり——-。
「誘惑のアフロディーテ」で私を虜にした、ミラ・ソルヴィーノ扮する昆虫学者が、空飛ぶ”怪物”に連れ去られる場面には、懐かしいB級映画の味があるし、ニューヨークの地下鉄の更に下の世界の描写には、都市伝説的な”陰性のロマンティシズム”が漂っている。