映画感想・レビュー 81/2520ページ

噂の二人:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

カレンの婚約者ジョー(ジェームズ・ガーナー)にすら忍び寄る疑心、裁判を拒否した叔母の薄情さ、レズ志向を自認し命を絶つマーサら、各人それぞれを、ワイラー監督は実に的確に描き分けていくのです。
そして、親友を失ったカレンが、絶望感を抱きながら葬式の参列者の間を胸を張って歩いていく姿に、無理解な社会への怒りを凝縮させているのだと思います。
オードリー・ヘプバーンの澄んだ瞳が、躊躇なく真っ直ぐ正面を見据える、このラストのショットが、この作品の価値を2倍にも3倍にもしているのだと思います。
一個人が風評によって、社会から追放されるこの物語には、ウィリアム・ワイラー監督自身のマッカーシズムによる、ハリウッドの”赤狩り体験”が、色濃く反映されているのだと思います。
当時、それに抗議する委員会を結成し、その中心人物として活動したワイラー監督は、悪夢のようなこの事件に対する怒りを、ヘプバーンに代弁させているのだと思います。

噂の二人:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

そこには、根拠のないゴシップに対する社会の妄信性や、それによって、いとも簡単に崩れてしまう日常生活の脆さ、本来、純粋な筈の子供に存在する邪悪さが提示されていて、観ている者を震撼させます。

この映画の原作者であるリリアン・ヘルマンの巧まざる現実認識、人間描写の鋭さを思わずにはいられません。

だが、一つ気になるのは、メアリーを演じるカレン・バルキンという子役のオーバー・アクトだ。
見るからにふてぶてしい顔もさることながら、眉をしかめたり、驚く時に目を見開いたりする、この子役の芝居の過剰さが、失笑を買うほどに強烈だ。

ウィリアム・ワイラー監督ともあろう名匠が、なぜこんなにも臭い芝居をする子供を起用したのか、理解に苦しみます。
それとも、ワイラー監督はそんなことは百も承知で、この”愚かしい扇動者”の姿を揶揄してのものだろうか?

噂の二人:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

この映画「噂の二人」は、1936年にリリアン・ヘルマンの戯曲「子供の時間」を「この3人」という題で映画化したウィリアム・ワイラー監督が、オードリー・ヘプバーンとシャーリー・マクレーンという2大女優を主演に迎えて再映画化した作品だ。

寄宿制の女子私立学校を経営するカレンとマーサの二人の女性が、突然”同性愛”という汚名を着せられ、やがて悲劇的な結末を迎えるまでを、ウィリアム・ワイラー監督が確かな演出力で描き切った名作だ。

この映画は、子供の身勝手な噂が、ひとりの女性を死に至らしめる、恐ろしい社会派ドラマだ。
大人びて意地の悪い少女メアリーが、自分を叱る教師二人が経営する学校から出たいために、二人が”同性愛者”であるとデマを流すのだ。

全ての父兄が自分の子女を学校から引き上げ、二人は原因をメアリーのデマだとその祖母に詰め寄るが、その家に引き取られていた別の生徒の証言で事実は決してしまう——という歯ぎしりしたくなるようなストーリーが展開していく。

エクソシスト2:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-05-21

※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]

原題が「エクソシストⅡ ヘラティック」で、”異教徒、異端者”のことで、つまり、人の心の中の”正統と異端の闘い”が、この映画のテーマなのです。
だから、悪霊すなわち異端なる者が潜んでいるのは、リーガンの心の中だけではないのです。
母親の女優が海外ロケーション中に、リーガンの面倒を見ているキティ・ウィン扮するシャロンにも、ルイーズ・フレッチャー扮する精神科医のタスキン博士にも、そして、ラモント神父の中にも、異端が潜んでいるのです。
むろん、この映画の中心は、ラモント神父で、全ては彼が異端を乗り越えて、正統に達するまでの”心象風景”を描いていると言ってもいいのです。
特に、ラモント神父が、悪霊に導かれて、成人したコクモを探し歩く場面は圧巻で、いなごの仮面を被った超能力者を演じるジェームズ・アール・ジョーンズも実にいいムードを醸し出しているのです。
そして、それが虚像で、実像に一転する脚本のうまさ——–。
「エクソシスト」の原作者、ウィリアム・ピーター・ブラッティの名が、クレジットに現われないことでもわかるように、これは全く異質な映画で、「エクソシスト2」は、まさに傑作なのです。

エクソシスト2:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-05-21

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そこで、今は精神分析の治療を受けているリーガン(リンダ・ブレア)に、ラモント神父は接触し、シンクロナイザーという催眠面接装置の力を借りて、悪霊に憑かれた時の記憶を探り出そうとするのです。

それによって、メリン神父が若い頃、アフリカでコクモという少年の悪魔祓いに成功したことがわかります。
この少年は、襲来するいなごの大群と、ひとりで闘える超能力の持ち主なので、悪霊に狙われたのです。

その辺から、素晴らしい映像美が展開して、まるでダリの絵をジグソー・パズルにしたものを、きっちりと組み上げていくような感じで、映画はクライマックスに最高の盛り上がりをみせるのです。

画面が互いに共鳴し合って、異様な興奮を醸し出す構成は、複雑だけれども、決して難解ではありません。

エクソシスト2:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-05-21

このジョン・ブアマン監督の映画「エクソシスト2」は、全世界で”オカルト映画”ブームを巻き起こした、ウィリアム・フリードキン監督の「エクソシスト」の続編にあたる作品です。

だが、この映画は、あまりにも観念的で難解だったために、興行的にコケてしまい、一部の本当の映画好きの間で、もはや”カルト的な傑作”として認知されている作品なのです。

主役のリチャード・バートン扮するラモント神父が、悪魔祓いに失敗する冒頭から、凝った画面に引き込まれて、途中、何度も思わず”うまい”と口走り、映画を観終えた時には、心の中で拍手を送っていました。

さすがにジョン・ブアマン監督だけあって、「未来惑星ザルドス」で華麗なイメージの遊びを見せてくれた鬼才の名に相応しい出来になっていると思います。

とにかく、”知的で哲学的な大人のための怪奇映画”を作り上げていると思うのです。

エクソシズムに熱心なラモント神父は、私淑する先輩のメリン神父(マックス・フォン・シドー)の死の真相を調べる仕事を、枢機卿から命じられます。

上海から来た女(1947):P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-05-21

謎の女エルザ(リタ・ヘイワース)に恋してしまったマイク(オーソン・ウェルズ)。
全ての愛憎を絡めて、映画のクライマックスは遊園地のビックリハウスへと収束していきます。

四周が鏡の部屋。ウェルズとヘイワースと、そして彼女の夫。
三人の姿が、幾重にも重なり合って写ります。人間の愛憎の果てしなさを象徴するかのように——。

やがて誰かが誰かを撃ちます。
崩れる鏡と共に、三人の重なりあった像も崩れ落ちます。崩れ去った愛の象徴——。

ミラーフォーカスという映画史に残る素晴らしい映像技法。
この技法をマネしたのが、あのブルース・リー主演の「燃えよドラゴン」でのラストの鏡張りの部屋のシーン。

鏡とは、人を写すだけではなく、”人生そのもの”を写し続ける存在なのかも知れません。

上海から来た女(1947):P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-05-21

“ミラーフォーカスという映像技法を駆使して、鬼才オーソン・ウェルズが人間の愛憎劇を描いたフィルム・ノワールの佳作「上海から来た女」”

このオーソン・ウェルズ監督の「上海から来た女」は鏡というものを、映像として効果的に使った映画の古典とも言えるフィルム・ノワールの掘り出し物的な作品です。

資産家バニスターの美しい妻エルザが暴漢に襲われそうになったところを、偶然、救ったマイクは、ヨット航海で夫婦と同行する事になります。

航海中にエルザと親密な仲になったマイクは、彼女と駆け落ちをする資金を作るために、夫婦の弁護士に持ちかけられた奇妙な殺人事件に巻き込まれる事になりますが——。

この映画は、ニューヨークの闇夜、サンフランシスコのチャイナタウン、そして、映画史上あまりにも有名な鏡張りの部屋での撃ち合いのシーンなど、いかにも鬼才オーソン・ウェルズらしい意匠に富んだサスペンス・スリラーを堪能出来るのです。

私は告白する:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

クリフトは、その大きく澄んだ瞳を最大限に生かし、男というよりは、悲劇に耐える青年といった風情で、観る者の同情を集めるのだ。

クリフトは実生活において、46歳で悲劇的に人生を終えたのだが、30歳ちょっとの頃のこの作品でも、すでに悲劇の匂いが漂っている。

ヒッチコック作品への出演は、これ一本だが、彼の存在が大きい作品だと思う。

私は告白する:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

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信者の告白を漏らす事は、神の教えに背く事になるのだ。

ルス夫人は、神父が犯人ではない事を証言するために、夫の目の前で、神父への思いを赤裸々に告白する。
神への信仰を貫こうとする神父と、家庭を崩壊させても神父への愛を貫こうとするルス夫人。

宗教と不倫という、二つの題目が対立するところが見もので、ヒッチコックの映画の中では、かなり深刻なテーマを持ったものになっている。

結局、神父は最後まで懺悔を口外しないのだが、追い詰められてなお、じっと耐えるだけという神父の苦悩を、クリフトが見事に演じてみせている。

この神父は、心の動揺を見破られないように、終始、表情を変えず、神の子としてのプライドを崩そうとしない。

私は告白する:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

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そして、その時、この「私は告白する」も、今迄とは違った分析や評価がなされるに違いない。

クリフト扮するローガン神父は、教会の懺悔室でオットー・ケラーという男から、殺人を犯しましたという懺悔を聞く。
ケラーは、神父の力添えで、夫婦で神父の館に住まわせてもらっている男で、20ドルの金欲しさに弁護士を殺したというのだ。

神父は、罪を告白するようにと諭すのだが、ケラーは逆に、自分の罪を神父になすりつけようとする。

殺された弁護士と神父はやっかいな関係にあり、それはかつての恋人で、人妻のルス夫人との密会の場を見られ、その事を脅迫されていたのだ。

ケラーは僧衣姿に変装して、弁護士を殺し、その姿のままで現場から出てくるところを女学生に見られている。

当時、神父が怪しまれるが、神父には動機があるうえに、アリバイもないのだ。
濡れ衣を晴らすにはただ一つ、ケラーの告白を明らかにするしかないのだ。

しかし、カトリックの神父は、懺悔室での告白を、どんな事があっても、口外してはならないという掟がある。

私は告白する:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

ヒッチコックの映画の中の男たちは、大体、美女のせいで、とんでもない事件に巻き込まれると相場が決まっているが、この映画では、それは逆で、美女は美男の主人公のために、家庭の秘密まで暴露せねばならないという目に遭うのだ。

主人公である美男のローガン牧師を演じるのは、当時、大変な人気スターであったモンゴメリー・クリフト。
「波止場」のマーロン・ブランド、「エデンの東」のジェームズ・ディーンは、クリフトが役を蹴ったおかげで、世に出て来た俳優なのだ。

そういった代役の顔ぶれを見ればわかるように、クリフトこそは、ハリウッド映画の戦後派スターの第一号と言ってもいい俳優だった。

正義と力とユーモアが総てのアメリカン・ヒーローの世界に、反抗とか、弱さとか、犠牲とか、忍耐とか、憂鬱とかいった、ナイーヴな感受性を持ち込んだ、最初の俳優だったと思う。

今でこそ忘れられた存在になってしまったが、後世のスター史においては、この俳優の存在の大きさを必ずや見直す事になるだろう。

私は告白する:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

スリラーの神様、ヒッチコックの映画というと、美しいブロンドの女優を窮地に追い込み、これでもか、これでもかと怖がらせるというパターンが多い。
この事から、ヒッチコックは、女性嫌いか、女性恐怖症なのではないかと、よく言われる。

「昼顔」というマゾヒスティックな映画を撮った、巨匠ルイス・ブニュエル監督も、ひょっとしたら、女性恐怖症ではと思うのだが、大芸術家には、こういうタイプが実に多い。

彼らはその作品の中で、日頃の思いを晴らすように、性的妄想をたっぷり込めて描き上げる。
こういう男たちは、たいがい日常生活では、女性の前では弱者なのだ。

実際、ヒッチコックは、彼の妻アルマがいなければ、成功したかどうかと、言われる程、彼本人は、気弱で社交ベタで何も出来ない男だったと言われている。

そんなヒッチコックの映画の中で、美女ではなく、美男をとことん窮地に追い込むという珍しい作品が、「私は告白する」なのだ。

大地のうた:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

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インドのある片田舎の貧しい一家の暮らしぶりを淡々と描いた、サタジット・レイ監督の「大地のうた」は、見事に結晶した”いのちの詩”とも言える素晴らしい作品です。

インドという異郷の風俗に目を見張りつつも、全く自分たちと変わらない人間の生き方を発見して、ある種の懐かしささえ感じてしまいます。

夢ばかり追って、生活力のない父、生活苦にイライラしながらも、家族への愛を失わない母、ブツブツ文句ばかり言っているお婆さん。

一方、幼い少年オプと、姉のドガは、大自然の中を飛び回ります。そんなある日、お婆さんが、老木が朽ち果てるように死んでいきます。それはまるで、大自然の中の当然の出来事のように、一つの命の終わりを描き、自然の非情さを表出します。

だがそれは、決して残酷な感じはありません。しかし、姉のドガの急な死は、そのあまりの若さ故に、人生の途中で断ち切られてしまったという感があり、死の無残さと、家族の悲しみが胸に迫ってきます。

人間と自然、そして命のかけがえのなさを描いて、この作品は素晴らしい普遍性を獲得したのだと思います。

間違えられた男:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

幼い頃から警察が大嫌いだったと言われるヒッチコック監督は、逮捕、取り調べ、留置、拘置といった、ありきたりの手順を、平板でいながら妙な執拗さを滲ませたタッチで撮っていく。

善良な羊を演じるヘンリー・フォンダの人相が、どこか邪悪で陰険な気配を放つのも、話の隈取りを濃くしていると思う。

さらに、随所で用いられるフェイドアウトの技法は、「——」で終わる文章のような効果をもたらす。

冒頭の宣言にもかかわらず、ヒッチコック監督は、快楽的な映画作家の本能をつい覗かせてしまったようだ。

間違えられた男:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

アルフレッド・ヒッチコック監督が、「実話に基づいた映画」を撮ったのは、この「間違えられた男」が、最初で最後だった。
そして彼が、自らカメオ出演しなかった作品も、この映画一本だけだ。

もっとも、映画の冒頭、彼は逆光の中にたたずみ、「これは、私の映画の中では異色の作品です」と観る者に語りかける。

ところが、この「間違えられた男」は、ドキュメンタリーよりも寓話の匂いを強く漂わせている。
黒白の簡潔な構図や、時間の直線的な処理は、ドキュメンタリー的なのだが、観終えるとなぜか、脂の乗った物語を聞かされたような後味が残る。

主人公は、ニューヨークのナイトクラブで働いている堅物のベース奏者マニー(ヘンリー・フォンダ)だ。
彼は、派手なクラブで黙々と演奏し、仕事が終わると毎朝、定刻に帰宅する。

そんなマーニーがある日、強盗犯に間違われて逮捕される。
顔や様子がそっくりという証言が相次いだからだ。

黒い罠:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-05-21

ーソン・ウェルズは、晩年よりもさらにお腹を膨らませた巨体で登場し、モンスター的な警官を楽しみながら悠々と演じていてさすがだ。
そして、彼の情婦役でマレーネ・ディートリッヒがゲスト出演しているのも、映画ファンとしては嬉しくなってしまいます。

黒い罠:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-05-21

アメリカとメキシコの国境近くの町で、富豪の車が爆破される事件が起き、それが麻薬事件に発展していく。

この事件の調査は、町を支配する警察官クインラン(オーソン・ウェルズ)とメキシコの麻薬捜査官バルガス(チャールトン・ヘストン)の見解の対立からもつれを見せはじめ、バルガスはクインランのでっち上げ捜査を見破るが、精神異常風なクインランはバルガスの妻(ジャネット・リー)を誘拐して殺人事件を偽装する。やがてバルガスはクインランの恐るべき正体を知ることになる。

犯罪映画をフィルム・ノワール(黒い映画)と呼ぶことがあるが、この映画「黒い罠」は、画面の暗さから物語のどす黒さまでがまさにフィルム・ノワールそのものだ。

この映画は、オーソン・ウェルズが監督・脚本・出演の三役をこなし、まさしく天才の本領を発揮した異色のサスペンス映画で、冒頭の長い、長い移動撮影は、後の多くの映画監督に影響を与えたことでも有名で、このラッセル・メティによる撮影がとにかく凝っていて、ワンショット、ワンショットがスタイリッシュで個性的で、その映像の新鮮さに酔わされてしまう。

水の中のナイフ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]

そして、夫と青年の心理的な葛藤が頂点に達し、夫は青年を海に突き落とします。
妻は夫を卑怯者と罵って、青年を助けようとします。
夫もさすがに後悔して警察に知らせに行こうとする。

その間に青年がひとりで無事にヨットに上がって来るのです。
妻は青年が泳げないと嘘を言っていたことをなじってぶつが、ただ、大人に八つ当たりするばかりじゃいつまでも子供だと言って、彼に自分の体を許すのだ。

そして、岸について青年を降ろしてやり、夫に対して、この青年に肌を与えたわと言う。
夫は、自分を助けようと思って嘘を言うのだろうと言って、信じようともしない。
いや、信じたくないのだ——-。

このヨットの上での一日の出来事の中で、映画の冒頭で提示された三人三様の心のもつれが、徐々に救いようもない根深い葛藤の様相を、散らつかせてくる”心理的な緊張感”が、この映画の最大の見せ場になっているのだ。

そして、この心のもつれの中には、恐らく、三つの要素があるように思う。
まず、夫と妻の間の微妙な”不信感”だ。

水の中のナイフ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

この映画の冒頭のシーンは、三人がそれぞれに心の中に持っている鬱屈した感情が、ズバリと表現されている、実に印象的なシーンだと思います。

妻にとっては、夫の嫌味なエゴイストぶりは決して愉しいものではなさそうで、どうせこういう人だから仕方がないというような、なかば諦めの気持ちが、彼女の無愛想な無表情を包んでいるのだ。

夫にしてみれば、妻がそういうふうに自分を密かに軽蔑していることは百も承知で、だからこそ、いっそう虚栄をはってイライラしているという感じなのだ。

これに対して、青年は金持ちの傲慢さに腹が立ってしょうがないので、妙につっかかるような口の利き方をするのだが、妻はこの子、面白い子ね、みたいな顔をするのが、夫にとってはまた微妙にカンにさわるのだが、俺はこんな若僧のことなど何とも思っていないぞ、という気持ちを誇示するために、青年をヨットに同乗させてしまうことになるのだ——-。

映画はその後、ヨットの上での三者三様の思惑を心の底に秘めながら、壮絶な心理戦が展開していくことになるのです。

最終更新日:2024-10-30 16:00:02

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