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- ★★★★★
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- 2024-06-02
"不世出の夭折の大スター市川雷蔵の初めての現代劇出演作 「炎上」"
37歳という若さで亡くなった、不世出の夭折の大スター、市川雷蔵。
雷蔵はどんな役柄でもこなせて、現代劇でも時代劇にも喜劇にも悲劇にも、娯楽映画にも芸術映画にも、あらゆるジャンルの映画でそのカリスマ的な魅力を表現出来た、稀有の役者だったと思います。
特に、歌舞伎界の出身という事からくる彼の"口跡の素晴らしさ、立ち姿、立ち居振る舞い、所作の美しさ、華麗さ"は、他の追随を許さない程の見事さだったと思います。
もう彼のような華のあるカリスマ性のあるスターは、二度と現われないだろうと思える程です。
しかも、彼は23歳で映画界入りして以来、「眠狂四郎シリーズ」「忍びの者シリーズ」「陸軍中野学校シリーズ」「若親分シリーズ」などのシリーズものの当たり役を数多く生み出して、我々、日本映画ファンを楽しませてくれました。
その背景には、昭和30年~40年代の映画界の黄金時代の活況というものがあったとしても、こんなに多角的で質、量ともに優れたスターは珍しいと、今更ながら思います。
やっぱりスターというものは、"顔"なんですね。 いかにも歌舞伎出身らしい面長中高の顔だちで、瞼が薄い切れ長の目、長めの鉤鼻。 とりたててハッとする程の美男ではない。 端正だが、平凡で標準的な日本人顔なんです。 しかし、この"平凡で標準的"というのが貴重なのだと思うのです。 雷蔵は自分の"平凡で標準的"な日本人顔を、無個性のサッパリ顔を、まるで能面のように様々なニュアンスをもたせて、自由自在に操るのです。 この市川崑監督の映画「炎上」は、市川雷蔵が27歳の時の出演作で、もちろん三島由紀夫の小説「金閣寺」を映画化したもので、以前から三島由紀夫のファンだった雷蔵は、周囲の反対を押し切って、主人公・溝口吾市の役に挑戦したと言われています。 溝口吾市は、驟閣寺がこの世で最も美しいものだと考えていますが、老師(中村鴈治郎)の女色を初めとするこの寺の俗化に復讐を企てようとするのですが--------。 市川雷蔵初めての現代劇出演作で、流麗で美しいモノクロ映像が絶品の味わいがあります。
小説「金閣寺」は、ある吃音症の青年が「美への反感」から、国宝の金閣寺に放火したという実際の事件にヒントを得て書かれたもので、三島由紀夫独特の、「美」や「絶対的なるもの」に対して、美の使徒である青年が美に殉じる姿を計算され尽くし、確固とした構築された文体で華麗に描いていましたが、映画の方は、金閣寺は驟閣寺と名前を変えられ、原作の小説ほどには、溝口吾市の屈折した心理はあまり伝わっては来ません。 しかし、監督・市川崑、撮影・宮川一夫という黄金コンビによる画面作りには素晴らしいものがあり、雷蔵の顔のアップが正面に捉えられていて、彼の頭に昔のいまわしい記憶が甦る時、彼の顔はそのままで、背景がスーッと変わっていきます。 こういう映像技法に、あらためて映画という物の凄さを感じてワクワクしてしまいます。 原作の小説でもそうでしたが、私が一番強い印象を受けたのは、溝口の大学のクラスメートである戸苅という男の登場シーンです。 溝口はドモリですが、この戸苅という男は足が不自由で、ほとんど前衛舞踊みたいな歩き方をするのです。
この辺りの表現は、実に三島由紀夫的な高等心理作戦なのだと思うのです。 この映画では、戸苅の役をまだ若々しい仲代達矢が演じていて、ポーンと広い、人影のない校庭を仲代が黒いシルエットになって、思いきり体を歪ませて歩くのです。 この場面は妙にシュールで、痛ましい美しさがあって、この映画の中でも強く印象に残っています。
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- 2024-06-02
アルフレッド・ヒッチコック監督が、「実話に基づいた映画」を撮ったのは、この「間違えられた男」が、最初で最後だった。
そして彼が、自らカメオ出演しなかった作品も、この映画一本だけだ。
もっとも、映画の冒頭、彼は逆光の中にたたずみ、「これは、私の映画の中では異色の作品です」と観る者に語りかける。
ところが、この「間違えられた男」は、ドキュメンタリーよりも寓話の匂いを強く漂わせている。
黒白の簡潔な構図や、時間の直線的な処理は、ドキュメンタリー的なのだが、観終えるとなぜか、脂の乗った物語を聞かされたような後味が残る。
主人公は、ニューヨークのナイトクラブで働いている堅物のベース奏者マニー(ヘンリー・フォンダ)だ。
彼は、派手なクラブで黙々と演奏し、仕事が終わると毎朝、定刻に帰宅する。 そんなマーニーがある日、強盗犯に間違われて逮捕される。 顔や様子がそっくりという証言が相次いだからだ。 善良な羊を演じるヘンリー・フォンダの人相が、どこか邪悪で陰険な気配を放つのも、話の隈取りを濃くしていると思う。 さらに、随所で用いられるフェイドアウトの技法は、「——」で終わる文章のような効果をもたらす。 冒頭の宣言にもかかわらず、ヒッチコック監督は、快楽的な映画作家の本能をつい覗かせてしまったようだ。
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- 2024-06-02
この中平康監督の日活映画「狂った果実」は、「太陽の季節」で芥川賞を受賞した石原慎太郎の、太陽族モノの第2弾。
公開当時、台頭しつつあった戦後世代の倦怠感を見事に切り取り、太陽族映画、即不良映画という烙印を押されながらも興行的には大ヒットした作品で、わずか23日で撮り上げた強行撮影にもかかわらず、カメラ・アングル、編集の巧みさで、印象的な映像を作り上げていると思う。
とにかく、この作品は、日本のある時代の青春の残酷さを鮮烈に描いた、青春映画の傑作であり、主演の石原裕次郎の存在は常に際立っていたし、1950年代後半から1960年代にかけての日本の青春のシンボルは、石原裕次郎であったということを、再認識させる作品でもある。
原作・脚本は、裕次郎の実兄の石原慎太郎で、ブルジョワ学生の残酷さみたいなものが、非常によく出ていたと思う。
感動的な映画であることは疑う余地はないが、この青春像に対しては、ある種の違和感、反発を感じる人もかなりいると思う。
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- 2024-06-02
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この題材なら、きっと人が集まるだろうという魂胆が見え見えなのも面白いですね。
この映画の主人公は、キリストではなく、キリストを処刑したローマの護民官マーセラス(リチャード・バートン)なのです。このヒネリは凄くいいと思いますね。ストレートではないところが、実にうまいなと思います。
そして、この映画は私が好きな「ミイラ取りがミイラになった」系列のストーリーなのです。
つまり、悪人が善人に感化されて善人に変わるとか、性格の悪い人が恋愛などのきっかけで良い人になるとか、といった類の物語ですね。
この映画の主人公のマーセラスは、キリストの処刑直後、キリストが最後に纏っていた赤いローブをサイコロ賭博で手に入れたものの、自分ではおってみた途端に気分が悪くなり、呪われてしまったと思い込んで恐怖にかられてしまう小心者です。
きっかけは恐怖だったというわけで、人間が変わる理由としては至極もっともなことです。
昔も今も、国も民族も問わず、”呪い”とか”たたり”に恐怖を抱くのは、人間の本能に近いことではないかと思います。
マーセラスは、ローマ皇帝のカリギュラと一人の奴隷を争って勝利し、ディミトリアス(ヴィクター・マチュア)を買い取ります。奴隷のディミトリアスは、キリストを深く信心していたため、マーセラスも次第にキリストの教えに魅かれていきます。 そして、神の愛に目覚めたマーセラスは、やがて恋人のダイアナ姫(ジーン・シモンズ)と共に処刑されるのですが、スペクタクルなシーンを交えながら大迫力で描いていきます。 立体音響を効果的に演出した雷の響き、馬車の音も実に素晴らしかったと思います。
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- ★★★★★
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- 2024-06-02
この映画「聖衣」は、公開当時、ハリウッド映画界が新興のテレビに対抗するために、長年にわたり研究開発されてきた”シネマスコープ”方式の記念すべき第一回作品で、聖書に基づいたロイド・C・ダグラスのベストセラー小説の映画化です。
テレビという面白くて、日本では電気紙芝居とも言われたほどの、便利な媒体が生まれたものだから、ハリウッド映画界としては、相当焦ったことが想像されます。
もう何とかして映画館に来て貰わなくてはと必死になるのは当然です。
自宅のテレビで、ちまちまとした小さな画面を見るよりも、映画館の大スクリーンで迫力の映像を見る方がずっといいんだぞーと、思わせるための”シネマスコープ”だったということなのだろうと思う。
そして、この”シネマスコープ”の記念すべき第1作目が、聖書の物語だった、というのも非常に興味深いと思う。
日本人にはあまり馴染みのない聖書ですが、欧米人にとっては、とても身近なものだったのです。
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- 2024-06-02
優雅に、悲劇的に、ユーモラスに、そして全体に一本、男性本位の封建社会に対する痛烈な抗議の筋を通して、溝口健二監督は悠々とこの物語を描いている。 お春を演じた主演の田中絹代も”凛とした気迫”をたたえた好演で、芸達者の俳優たちが、入れ替わり立ち替わり現われて、厚味のある場面を作り出していると思う。 そして、隅々にまでよく神経の行き届いた美しいセット、流麗な白黒映像の粋とも言うべきカメラなど、あらゆる面での技術的な水準の高さが渾然一体となり、稀に見る”映画の美”を生み出していると思う。 この「西鶴一代女」は、日本映画史上において、ひとつの頂点を極めた作品だと思う。 そして、溝口健二監督の得意とした長回しが、最高に効果を発揮して、数々のヨーロッパ映画にも影響を与えたのだと思う。 尚、この作品は1952年度のヴェネチア国際映画祭で、国際賞を受賞しています。
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- ★★★★★
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- 2024-06-02
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この映画「西鶴一代女」は、17世紀、江戸時代中期の井原西鶴の名作「好色一代女」を、名シナリオライターの依田義賢が脚色した、巨匠・溝口健二監督の代表作の一本だ。
もう老残に近い年齢で街娼をしているお春(田中絹代)という女が、荒れ寺の百羅漢を眺めているうちに、その仏像のひとつひとつが、かつて自分と関係のあった男の顔に見えてくる。
こうしてお春は、男性遍歴の一生を回想することに—-。
侍の娘で、京の御所に勤めていたお春は、公卿の若党(三船敏郎)と愛し合っているところを、役人に摘発され、不義者として両親ともども洛外追放の身となる。
若党は「お春さま、真実に生きなされ!」という遺言を残して打ち首になった。
その後、お春は、奥方に子供が生まれなくて困っている大名の側室に召しかかえられた。
殿様がお春に夢中になると、お春も存分に尽くした。あげく、殿様は房事過多で病気になり、彼女は生んだ子を残してお払い箱になってしまう。
次に、お春は島原の廓に身売りし、大金持ちの田舎者(柳永二郎)に身請けされようとしたが、この男はニセ金づくりで、その場で役人に逮捕されてしまう。
そして、お春は次には堅気の大商人(新藤英太郎)の家の女中となる。
ところが、この主人が好色でお春に目をつけ、奥方(沢村貞子)に嫉妬され、いじめられ、この家を飛び出してしまう—-。
やがて、お春は乞食にまでおちぶれ、街娼たちに誘われて街の辻に立つようになる。
そんな、ある日、母親が彼女を訪ねてくる。お春の生んだ子が大名になって、お呼び出しがあったのだという。
喜んで行ってみると、大名の生母が街娼にまで身を落とすとはけしからん、と永の蟄居を命ぜられたのだった。
お春は一目だけでも我が子に会わせてくれと言い、息子の姿を眺めながら身をくらましてしまったのだ。
そして、尼となって巡礼しているお春の姿でこの映画は幕を閉じる。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-02
この映画「酔いどれ天使」は、黒澤明監督と三船敏郎のコンビによる、輝かしき第1作目の作品だ。
戦後の混乱が続く映画界で、ようやく占領下のお仕着せを脱却し、混乱期の日本を真正面から捉えた作品になっていると思う。
戦後の混乱の中に生きる人間像が、生き生きと描かれ、黒澤明監督は、独自の個性的なテーマや技法を確立し、新しい一面を鮮やかに示している。
戦後の焼け跡の闇市みたいな所を舞台に、志村喬の酔いどれの医者と、ヤクザの三船敏郎との間に、奇妙な友情が生まれてくる物語で、黒澤明監督の基本的な原点が見られる作品だ。
この黒澤明監督の特色だが、戦後のある時期を、単に淡々と描くのではなく、ある種どぎついものを印象的に描いて、映画の持つダイナミズムを強調している。
志村喬と三船敏郎の師弟的な関係も、黒澤映画の基本的なパターンで、これは彼の「姿三四郎」から「赤ひげ」まで続いていく構造だと思う。
- 評価
- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-06-02
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表面上は、すごく平凡な恋愛劇が進行し、その背後で男と女の熾烈な駆け引きが、火花を散らしている。
美女と探偵とが、互いに一芝居を打ち合って、愛の遊戯に興ずるふりをするという、いわば二枚舌の恋愛ゲームなのだ。
このパターンは、「007」シリーズなどでも、甚だしく俗化された形で繰り返されている。
リザベス・スコットは最後に、ボギーに向かって、「あなたのポケットに入れて欲しかった」なんて、健気なことを言いながら、死んでゆく。
男と女が最後に、めでたく結ばれるハッピーエンドが、昼のミステリの特徴であるのに対して、夜のミステリは、必ず悲劇で終わるのだ。
- 評価
- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-06-02
この1947年のジョン・クロムウェル監督の「大いなる別れ」は、ハードボイルド・ミステリ映画の傑作だ。
主演は、ハンフリー・ボガートで、共演する悪女が、リザベス・ミコットという、あまり有名ではない女優だ。
この映画は、全篇、夜の雰囲気が立ちこめる。混じりっ気なしのフィルム・ノワールで、夜のミステリにおける悪女の基本形が、くっきりと現れている。
酒場あたりで、主人公の探偵に接近してくる、その謎めいた美女は、むろん女の色香を武器にして、男を罠にかけようとする毒婦であって、探偵はそれをうすうす感じ取りながらも、女の奸計にのせられたふりをして、ひそかに悪女を追い詰めるのだ。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-02
退屈な日々を過ごす娘チャーリー(テレサ・ライト)の所へ、突然、彼女の叔父(ジョゼフ・コットン)が現われ、しばらく一家とともに暮らすことになる。
自分と同じ名前を持つこの叔父を、娘は幼い頃から敬愛しており、彼女は大歓迎だったが、その叔父にはどうも不審な点が多かった。
やがて、二人の探偵がやって来て、叔父に殺人容疑がかかっていることを知らされる。
娘は不安になり、調べ出した新聞には未亡人殺しの記事が載っていた。
しかも、叔父が土産にくれた指輪に彫ってあったイニシャルは、被害者のそれと同じだったのだ。
果たして、叔父は本当に殺人犯なのか? 娘の不安は恐怖へと変わっていく——-。
不気味な演奏の「メリー・ウィドー」の序曲のワルツとともに始まるこの映画は、殺人事件そのものや犯人探しがテーマではなく、大好きな叔父さんが、その犯人ではないかと疑う、姪と叔父の物語だ。
この映画は、登場人物の恐怖心理を、スリラーの神様ヒッチコック監督が巧みに映像化していて、二人のチャーリー、二人の探偵、列車の走るシーンが二つなど、二組のペアが次々と登場する。 姪も叔父も同じチャーリーであるのは、ヒッチコック映画の秘密を解く鍵の一つである、左右対称のモチーフ、同じ人間の表と裏、天使と悪魔、他人の犯した罪のために苦しむ人間と犯罪者の葛藤のイメージなんですね。 もちろん死体が出てくるわけではなく、のどかな田舎町の平和な家庭を舞台にした、ヒッチコック監督ならではのサスペンス映画になっていると思う。 そして、ジョゼフ・ヴァレンタインの撮影による緻密な映像が、不安感を見事に盛り上げている。
この映画は、「わが町」で知られるアメリカの劇作家ソーントン・ワイルダーが、ヒッチコックに乞われてシナリオを書いたもので、異色のサスペンス映画というよりも、ずばり、映画の本質とはサスペンスそのものであることを教えてくれる映画だ。 そして、ヒッチコック映画のお楽しみでもある、彼の登場シーンは、冒頭の列車の中の客席の中の一人としてチラッと出てきますので、お見逃しのないように。
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- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-02
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現在では観光客は女神像の冠のところまでしか登れませんが、この映画の製作当時は、右手に掲げているたいまつのところまで登れたそうですが、追うケインと追われる犯人は、そのたいまつの外側に出ます。
犯人が落ちそうになり、危うく女神の指の外側に左手でぶら下がり、ケインが犯人を救おうとして手を差し伸べ、ようやく袖をつかむが、袖は腕の付け根にある縫い目のところから破れ、遂に犯人は海に向かって墜落して行きます。
このシーンの海へ落ちて行く男の姿をカメラを固定させたまま、真上から撮る見事なショット—-。
ヒッチコック監督は高所からの転落の演出にもさまざまなバリエーションをもたせていて、見事の一言に尽きます。
このシーンでの音楽も無く、音さえも無い、この数分間はまさしく胸が痛くなる程のスリルと緊張感に満ち溢れています。
いったいどうやって撮影したのかと思われる、じっくり観てもよくわからない凄いカットです。 ヒッチコック映画でのお約束とも言える、ワンカットだけ自身の姿を見せる場面もご愛敬の、まさにヒッチコック監督こそは本当の映画の魔術師なのです。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-02
“ヒッチコック監督の名人芸が堪能出来る、追われ型の逃亡サスペンスの傑作「逃走迷路」”
この映画「逃走迷路」は、サスペンス・スリラーの神様アルフレッド・ヒッチコック監督が第二次世界大戦中の1942年に発表した作品で、無実の男が警察に追われながらも、真犯人を突き止めるという、ヒッチコック監督お得意の”追われ型の逃亡サスペンス”の会心作です。
航空会社で働くバリー・ケイン(ロバート・カミングス)は、ふとした事からナチ破壊工作の殺人事件に巻き込まれ、無実の罪で追われる事に—-という意表をつく大胆なストリー展開が、逃走劇の面白さに拍車をかけていきます。とにかく、手に汗にぎる、まさにスリルとサスペンスのつるべ打ち。
アメリカ西海岸の軍需工場で、謎の火災と殺人事件が発生し、無実の罪で追われるケインは、警察と外国のスパイの手を逃れながら、大西部からニューヨークへと真犯人を探して行きます。
真っ白い壁にもくもくと黒煙が上る、冒頭のショッキングな発端。赤ん坊とプールを使ったトリック・ショット。 そして、キラキラと映画を映しているスクリーンの前、銃をぶっ放している犯罪者の影がダブるという、華麗で斬新な映像テクニック。 やがて、スパイの本拠の大邸宅でのパーティの最中に連れ込まれた、主人公のケインと恋人は、踊りながら脱出しようとしますが—-。 とにかく、映画の一場面、一場面が、凝りに凝ったヒッチコックタッチのオンパレードで、映画の楽しさ、面白さを、ヒッチコック監督の名人芸で十二分に堪能させてくれます。 そして、映画のラストシーンは、映画史上あまりにも有名な、自由の女神像の手にぶら下がってのハラハラ、ドキドキのアクション-------。
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- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-06-02
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この1940年製作の映画「北西への道」は、1750年頃、まだアメリカが独立以前のイギリス植民地時代の東部の話で、植民地争奪戦争の敵方としてのフランス軍がインディアンをそそのかして、イギリス人植民者の農家を襲わせ、虐殺、略奪、婦女誘拐などをやらせていた。
これに対して、イギリス軍のロジャース少佐(スペンサー・トレイシー)の率いるロジャース挺身隊が、野越え山越え、川と森を越えて、すさまじい困難に打ち勝って、森の奥のインディアン集落を襲撃し、これを皆殺しにする。
しかし、帰路は予定していた食糧が得られないために、さらに難行軍になり、多くは飢え、ごく一部の隊員だけが生還する。
この映画は、そんな物語なんですね。
この映画は、戦争の残酷さと非人道性を真っ向から容赦なく描き出した、最初の映画ではないかと思う。
夜明けの静けさの中で、突如、展開されるインディアン集落への奇襲攻撃は、文字通り情け無用の皆殺し戦なのだ。
どんな種類の映画にも、人道的な配慮を怠ることのなかった当時のアメリカ映画としては、異例の残酷描写で、衝撃的だったんですね。
1960年代以後、アメリカにおいて少数民族問題が反省的に見直されるようになって以後、西部劇でも実はインディアンとの戦いは多くの場合、侵略的な皆殺し戦だったのだということが描かれるようになったのだが、それまではこんな描写はなかったのだ。 しかし、ではこの映画はインディアン皆殺しを反省する最初の映画だったかと言えば、そうではないと思う。 ここに描かれているインディアンたちは、白人を襲って頭の皮をはぐ獰猛な連中であり、彼らを皆殺しにしない限り、白人の植民者は安心して暮らすことはできないというふうに描かれているんですね。 そのためには、挺身隊の猛者たちも、ほとんど全滅に近い苦難を経験するのであって、殺すか殺されるかなんですね。 この作品が映画として優れているのは、まさにこの、敵に対して寛大である余裕など感じられなくなるところまで、殺すか殺されるかの切羽詰まった感覚を、肉体的な疲労感まで含めて表現し得ているところにあると思う。
だから、この映画は、勇者たちのヒロイズムを賛美する結末になっていたにもかかわらず、ヒロイズムには酔えない映画であるし、人道主義など吹っ飛んでしまうところまで、戦争の悲惨さを突き詰めていながら、なおかつ戦うべしと言い切っている好戦的な映画なのだと思う。 だから、その印象は、苦くて複雑で重かった。 この映画が製作された1940年は、時まさに第二次世界大戦の初期であり、アメリカが自由主義陣営リーダーとして、日本の挑戦を受けて立って戦争に突入することになる前年のことなんですね。 だから、この映画は、戦意高揚が狙いではないまでも、明らかにアメリカ人の不屈の闘志を称えることを目的としたものだが、しかし、戦争は常に"人間性の破壊"をもたらすということを、キング・ヴィダー監督は見失うことはなかったように思われます。
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- 投稿日
- 2024-06-02
この映画「怒りの葡萄」は、文豪ジョン・スタインベックのピューリッツァー賞受賞の小説を、ジョン・フォードが監督した作品だ。
凶作と資本主義の歪みの中で、たくましく生きるアメリカ農民の姿を描き、アメリカ映画の新境地を開いた、社会派リアリズム・ドラマの名作だと思う。
名カメラマン、グレッグ・トーランドによる際立ったモノクロ映像と、ジョン・フォード監督ならではの力強いタッチで、1930年代のアメリカの小作農の惨状を、見事に浮き彫りにしている。
仮出所で刑務所を出て、4年ぶりに故郷のオクラホマの農場に帰ってきた、ヘンリー・フォンダ扮するトム・ジョード。
そこで彼が見たのは、荒れ果てた大地と飢えに苦しむ農民たちの姿だった。
久し振りに再会したトムの家族も同じ有様だったが、母親のマアのたくましさのおかげで、貧しいながらも元気でいた。
だが、土地はすでに人手にわたっていた。そこで、ジョード一家は、オンボロ車でカリフォルニアへと向かう。
だが、希望の土地カリフォルニアで彼らを待っていたのは——-。
トムに洗礼を授けた、元説教師のジョン・キャラダイン扮するケイシーは「自分達はただ一生懸命素直に生きたいと思っているだけなんだ」と、みんなに説く。 そして彼が、暴徒に殺された後は、トムがその気持ちを引き継いでいくことになる。 最初に殺されたケイシーは、いわばキリストであり、そうして、その教えを守っていくキリストの使徒を演じたのがトムではないかという気がします。 この映画は、未曽有の不況の時代において、キリストに対するひとつの気持ちのすがりまでも描いた作品だと思う。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-02
そして本篇のようなホラーサイコサスペンス劇が劇場未公開の映画アイスロード・キラーだった,ヒッチコックなtouch満載で
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-01
草薙さんの演技が最高だった。ファンになりました!
- 評価
- ★★☆☆☆
- 投稿日
- 2024-06-01
前作エックスのほうがましかな。ラストの長セリフ長回しと、エンドロールの泣き笑いの表情くらいしか印象にないです。
- 評価
- ★★★☆☆
- 投稿日
- 2024-06-01
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ナチス体制のドイツ、しかも体制内に反ヒトラーの運動と抵抗があった。
これまでにもエピソード的には描かれている、ヒトラー暗殺計画の屈折した詳細を描いたのが、このブライアン・シンガー監督の「ワルキューレ」だ。
ユダヤ人としてのブライアン・シンガー監督の半端でないこだわり。
軍人役も大好きなトム・クルーズほか、テレンス・スタンプ、ビル・ナイ、トム・ウィルキンソンらが渋い演技を見せている。
「ヒトラー~最期の12日間~」あたりから、ヒトラーのナチス体制が一枚岩ではなく、内部に抵抗運動があったという事が、肯定的に描かれるようになった。
ヒトラーを単なる”狂気の悪役”としてではなく、もっと歴史と権力のコンテキストの中で、ナチズムを見る方向が出てきたように思う。
しかし、この種の映画は、どのみちヒトラーに代わる新しい権力、たとえヒトラーよりは民主的なものであれ、それを打ち立てようとする限り、所詮は”権力への意志”に支配された動きであって、権力そのものを乗り越えようとすることとは無縁なのだ。
ルキノ・ヴィスコンティ監督の名作「地獄に堕ちた勇者ども」は、ナチズムが単なる一過的な狂気の産物ではなく、技術と巨大な権力を志向する時には、必ず生まれる症候群として捉え、同時に、その絶望的なまでの頽廃がもたらす、終末の美から、我々が逃れる事ができるかどうかという、試練の中に連れ込んだのだった。 恐らく、ナチズムを乗り越えるには、そういう試練なしには不可能だろう。 単なる、悪の権力に対抗して、それを倒すというだけでは、結局、新たな、今度はそれまでの支配をよりソフトにしただけの支配を生むだけなのだ。 その意味で、この「ワルキューレ」は、トム・クルーズがそのプロデュースにも関わり、セット・デコレーションや衣装に膨大な金を注ぎ込み、実際に美術的には見応えのある、贅沢なセットを作りあげたが、ナチズムそのものの理解と批判においては、非常に底が浅いような気がする。
この作品は、サスペンス映画としては一級品だが、贅沢なポリティカル・サスペンスの域を脱していない。 トム・クルーズ演じるシュタウフェンベルク大佐らのヒトラー暗殺計画は、失敗するわけだから、この映画は結果として、単なる教科書的な歴史の学習か、ヒトラーの悪運の強さの確認、歴史のアイロニーといった事しか得られないのだ。
- 評価
- ★★★☆☆
- 投稿日
- 2024-06-01
この映画「ヒトラーの贋札」は、ナチスが強制収容所のユダヤ人に大量の贋札を作らせて、英米の経済を撹乱しようとした「ベルンハルト作戦」に基づく物語だが、描き方は、フィルム・ノワール風のサスペンスになっている。
冒頭は、第二次世界大戦後、解放された、その収容所から生き残ったユダヤ人、サリーが、モンテカルロのカジノで、かつて自分が作ったらしい贋金の一部を蕩尽するシーンだ。
サリーが渋くイキな老遊び人風なので、最初から、この映画がフィクションであるかのような印象を与える。
サリーのような国際的な贋札職人や、印刷技師や、皆、贋札作りに役立つ人間をかき集めてきて、特別の待遇を与えて、組織的に贋札を作らせるナチだが、そのナチ親衛隊員の描き方は、これまでよく見せられて来た一面的なものになっていると思う。
命令し、言うことを聞かなければ、頭にピストルを向けて殺す。やたらと暴力をふるい、捕らわれた者たちは、怪我がたえない。食事は、一般のユダヤ人と比べれば、恵まれているとしても、相当ひどい。
食事に関しては、その通りだったとしても、ナチ親衛隊員というのは、皆このように判で押したような人間ばかりだったのだろうか? もうそろそろ、このようなステレオタイプのパターンには正直、飽きてきた。 贋札工場のユダヤ人の中には、ユダヤ系スロバキア人の共産党員のアドルフ・ブルガーのような人間もいる。 彼は、ナチへの反抗のためか、与えられた作業服を着ず、縞模様のナチの囚人服を着続ける。 また、ユダヤ系ロシア人で、カンディンスキーやバウハウスに共感しているらしいインテリ美術生のコーリャのような者もいる。しかし、映画の視点は、終始サリーに当てられていて、そうした異なる個性が、ドラマに活かされてはいない。 どのみち映画は映画なのだから、こうした贋札工場のユダヤ人たちが、ナチ親衛隊員にいっぱい食わせたというような作りでもよかったような気がする。 実際に、1950年代になって、オーストリアの湖から、この作戦の時に作られた贋札や道具が詰まった箱9個を見つけたという。 ならば、もっと解放的な話にした方がよかったのではないかという気がする。