映画感想・レビュー 72/2520ページ

続・荒野の七人:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-03

この映画「続・荒野の七人」を観て、ロバート・フラーをとても懐かしく感じました。
ロバート・フラーと言えば、かつてTVで人気を博した「ララミー牧場」でのジェス役の俳優さんですね。
吹き替えを久松保夫さんが行っていて、いまだにその印象が強く残っています。
とにかく、ロバート・フラーの憂いを秘めた眼差しと鮮やかなガンさばきが、我々西部劇ファンを魅了したものでした。
この「ララミー牧場」は、かの映画の伝道師・淀川長治さんが解説をされていましたね。
ロバート・フラーはこの映画では、やはり主役のユル・ブリンナーの映画ですので、あまり印象には残りませんでしたね。

L.A.大捜査線 狼たちの街:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-03

※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]

売人の追撃、情報屋の利用、囮捜査----、現代アメリカにおいて悪を制するためのテクニックの全てが、フリードキン監督お得意のスピーディーな演出タッチでぐいぐいと、矢継ぎ早やに押しまくり、その展開をロサンゼルスの風俗のど真ん中をつっ走りながら見せて行きます。

「フレンチ・コネクション」のニューヨークの街が、生きて鼓動を続けていた以上に、ロサンゼルスの街のギラギラする生命感が伝わって来るだけに、捜査官の熱い生きざまが、生の緊張感を伴って見えて来るのです。

偽札造りを逮捕する見せ金を作るために、ダイヤモンドのバイヤーから強盗まがいに金を奪おうとしたり、主人公が死んだ後に、相棒が女の情報屋のヒモにおさまるあたりの描写が、フリードキン監督らしく、ひねりが効いていて、とても面白いと感じました。

そして、フリードキン監督は、"悪を制する絶対的な正義”を描こうとしているのではなく、この映画の原題にもなっている「To Live and Die in L.A.」、つまり、「ロスで生き、ロスで死ぬ」ためには、対する"悪への相対的な正義"しかないという論理で押して来ます。

このロスの街で生き生きと、走る男たちが熱く熱くとらえられているからこそ、フリードキン監督の論理には、有無をも言わせぬ説得力があるのです。 この映画は、鬼才ウィリアム・フリードキン監督による、我々、フリードキン・ファンの魂を熱くし、血沸き肉躍る、映画的興奮と映画の醍醐味を味合わせてくれる、貴重な愛すべき作品なのです。

L.A.大捜査線 狼たちの街:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-03

"鬼才ウィリアム・フリードキン監督による、全く新しい分野の犯罪ドラマの傑作 「L.A.大捜査線 狼たちの街」"

この映画「L.A.大捜査線 狼たちの街」は、1970年代前半に「フレンチ・コネクション」で、刑事映画に一大旋風を巻き起こした、鬼才ウィリアム・フリードキン監督が、またまた、全く新しい犯罪ドラマの分野を切り拓いた、画期的な作品です。

今回の主人公は、アメリカ財務局の捜査官で、財務局の捜査官といえば、元々は偽札捜査からスタートした組織ですが、大統領警護のシークレット・サービスも彼等の重要な職務です。

映画の冒頭、いきなり爆弾犯人を追い詰めるアクション・シーンから始まりますが、ここで、フリードキン監督は相棒との友情を見事に表現しておいて、本題の偽札犯追求に入っていくという演出のうまさを見せます。
ここで、いきなりフリードキン監督の映像魔術の世界に引きずりこまれてしまいます。

スターゲイト:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-03

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時は流れて1994年、言語学者ダニエルは、”ピラミッドは定説よりも遥か昔に建てられた”という学説を発表する。
そして、彼はある老婦人から石板の古代文字の解読を依頼される。

謎を次々と解明するダニエルに、やがて秘密が明かされることになる。
その石板こそ、異世界へと通じる”スターゲイト”を起動させる鍵であったのだ——-。

私が大好きな俳優、ジェームズ・スペイダーが、ダニエル・ジャクソンという言語学者の役を演じていて、眼鏡が知的な感じを醸し出していて、とてもよく似合っています。

このダニエルと対照的なのが、カート・ラッセル演じる探検隊の隊長のジャック・オニール大佐です。
拳銃の暴発事故で息子を亡くしてしまったという辛い過去があり、自暴自棄になっているネガティブなキャラですが、勇気があって指導力もあるところが好感が持てます。

ストーリー自体は、よくある展開なのですが、スターゲイトの向こうの世界の描き方は、きちんとしている印象があり、とても好きですね。 セットも衣装もカメラワークも、なかなか良かったと思いますね。

スターゲイト:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-03

この映画「スターゲイト」は、「インデペンデンス・デイ」で大ヒットを飛ばしたローランド・エメリッヒ監督によるSF大作。

ジェームズ・スペイダーファンで、尚且つエジプトが大好きな人だったら、絶対にはずせない作品ですね。

冒頭の砂漠の中から、金属製の巨大な”輪”の形をした遺跡が発見されるシーンは、文字通り、導入部として、とても魅力的です。

そして、この遺跡には解読できないような謎の象形記号が刻まれていたが、その存在は軍によって闇から闇に葬られる。

この映画のキーアイテムである金のペンダントが、さりげなく、それでいてインパクトたっぷりに登場するところが、実にいいんですね。
とにかく、小道具の使い方がほんとに巧いですね。

クランスマン:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-03

この映画「クランスマン」は、1960年代中期におけるアメリカ南部の黒人差別をテーマにした映画で、「007シリーズ」や「レッド・サン」「バラキ」などの映画で名を上げたテレンス・ヤング監督にしては珍しい社会派ドラマだ。

この物語の舞台はアラバマ州の田舎町。
ここに黒人の公民権運動が流れ込み、折悪しく、黒人が白人の人妻をレイプした事件が起こって、黒人排斥運動の暴力組織として悪名高い"K・K・K(クー・クラックス・クラン)"が動き始める。

この騒然たる状況の中で、冷静なシェリフ(リー・マーヴィン)とリベラルな白人(リチャード・バートン)が、K・K・Kと闘い、死んでいく。

ストーリーだけを追うと、いかにも常識的な感じだが、この映画は典型的なK・K・Kの白人(タイトルのクランスマンとは、この団員という意味)を一方の極に、友人を虐殺した白人を一人一人殺していく一匹狼の黒人(O・J・シンプソン)を他方の極において、その中間にいろいろな態度の市民たちを配し、その心理の揺れ動きを、手際良く描いていく構成が、実に巧みなので、この種の作品にありがちな紋切り型から免れていると思う。


例えば、シェリフにしても、単純な正義感ではなく、町の白人たちの感情を考慮しながら、自分の信念の最後の一線だけは侵すまいとしている現実主義者なのだ。 また、K・K・Kのスポンサーで、町長でもある工場主は、シェリフに向かって「俺は悪玉ではない。悪玉は制度だ」というセリフを吐けるだけの冷静さを備えている。 リベラルな白人にしても、自分の土地の中で貧しい黒人を保護しているが、それ以上はなるべく騒ぎに巻き込まれず、静かに本でも読んでいたいという優柔不断さが、かえって人間味を感じさせるんですね。 また、彼の保護下にある美しい黒人娘が、大都会の空気を吸って帰郷してから、この町の黒人デモの指導者と微妙な対立を示す。 これらの人物たちの性格はきちんと描き分けられ、それが互いに絡み合って、緊密にドラマが進行していく点で、テレンス・ヤング監督の演出は手堅さを示していると思う。 いずれにしろ、広大な国土の中に孤立しているアメリカの田舎町の閉鎖性は、それ自身、ドラマの実験室となるのかもしれない。

この映画を観て、最初に思い浮かべたのは、アーサー・ペン監督、マーロン・ブランド、ロバート・レッドフォードが出演した「逃亡地帯」で、こちらは黒人問題ではなく、脱獄囚に対するリンチが素材だったが、その町のシェリフであるマーロン・ブランドの役割は、この「クランスマン」のリー・マーヴィンにそっくりだ。 それから、エイブラハム・ポロンスキー監督、ロバート・レッドフォード主演の「夕陽に向って走れ」もよく似た環境のドラマであり、治安が強大な警察機構ではなく、個人の決断にかかっている密室状況で、大衆の狂気に一人立ち向かう保安官をヒーローにしたドラマだった。 こういうドラマは、日本の社会では作り得ないという点で、いかにもアメリカ的であり、そこにはいつも学ぶべきものがあると思う。 テレンス・ヤング監督のこの映画に、黒人問題についてのアクチュアリティがあるかどうかは疑わしいが、"アメリカの田舎町のドラマ"の典型として、興味深く観られる傑作であることだけは確かだ。

風とライオン:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-03

誘拐を企んだ野蛮さを許せず、盗人を斬首する残酷さに吐き気をもよおすのですが、しかし、自分たち母子三人には紳士の礼をつくし、部下を叱咤する威風は辺りを払い、敬虔な祈りの姿を厳しさが包み、優しい微笑にぬくもりが広がるのです。

この砂漠に生きる男、そうしたライズリとは、なんであろうか? -------。
父を持たぬ子供たちは、いつか彼に、父親への畏敬にも似た憧れを抱き、未亡人もまた心を開いていくのです。

ロマンの英雄ライズリが、その雄々しさで観ている私の魂を奪うのは、脱走した未亡人と子供たちが、手引きした男の手で不気味な山賊たちに引き渡され、あわや危難が迫る時、轟く銃声とともに馬上疾駆のライズリが、長剣を振るって敵をなぎ倒す場面だ。

ジョン・ミリアス監督は、心酔する黒澤明監督の「七人の侍」に魅入られて、このような戦闘シーンを撮りたかったのだと言う。

そして、ラストの30分にもわたる、今度は独仏の軍隊に捕らわれたライズリを、アメリカ海兵隊とリフ族が救出する一大戦闘シーンもまた見ものだ。


大砲とライフルと剣が入り乱れる。馬蹄の高鳴り。 ジェリー・ゴールドスミスの音楽が、ドラマティックな陶酔を呼ぶのです。 そして、その最後の一瞬に、私がこの映画の中で最も感動した、素晴らしい場面がきらめくのです。 未亡人の息子の少年と、馬上のライズリとのすれ違いざまの別れのシーンです。 少年は、リフ族のターバンを被り、ライズリ愛用の銃を捧げ持ち、再び、黒装束のヒーローとの瞬間の接触に、哀切の余韻が私の心の琴線を震わします。 この映画の題名の"風"とは、ルーズヴェルトを讃え、"ライオン"とは、自らをなぞらえた、ライズリの大統領宛ての書簡から取っているのです。 この映画は、現代人の心を少年の素直さに引き戻す、郷愁とロマンティシズムにあふれた見事な男のドラマだと思います。

風とライオン:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-03

誘拐という行為は野蛮だけれども、それは列国の圧力からモロッコを救う、民族の栄光を賭けた狼煙だったのです。
この狼煙に乗じてアメリカ側は、一気に国力の拡大を図ろうとするのです。

第26代アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズヴェルト(ブライアン・キース)は、次期大統領選への思惑も絡んで、大西洋艦隊をモロッコへ派遣し、人質を生きたまま返すか、ライズリの首を渡すかと、派手なパフォーマンス的な宣言で、合衆国民の喝采を浴びるのです。

こうして、ライズリ対ルーズヴェルトの虚々実々の戦いが繰り広げられていくことになるのです。

囚われの身となった未亡人のペデカリスは、息子と娘をしっかり両脇に"蛮族"どもと砂漠の旅を続けるのですが、気丈にたじろがぬ彼女の威厳と激しさに、キャンディス・バーゲンの魅惑が輝いて、実に素晴らしい。

その彼女にとって、異教の徒のライズリは、その全てが謎だったのです。

風とライオン:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-03

この映画は、1904年のモロッコが舞台。
その資源と利権を狙って、世界の列強が介入してきて、しのぎを削る中、一つの誘拐事件が起きます。
タンジールに住むアメリカ人一家の邸宅を、騎馬の一隊が襲ってきて、未亡人のペデカリス(キャンディス・バーゲン)と、幼い息子と娘を誘拐していくのです。

この騎馬の一隊を率いるのは、黒装束に身をまとったリフ族の首長ライズリ(ショーン・コネリー)だ。
半白のヒゲとシワと、黒々と射る瞳の鋭さ。
初老の精悍さに、王者の風格と威厳が漂っているようだ。

そう、彼こそが、この映画の主人公であり、ヒーローなのです。
演じるショーン・コネリーが、かつての007シリーズでのジェームズ・ボンドのイメージを完全に払拭し、"見直す"というくらいじゃ追いつかないほど、男の私から見ても、本当に震えがくるほどに惚れ惚れしてしまうのです。

風とライオン:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-03

この映画「風とライオン」は、現代人の心を少年の素直さに引き戻す、郷愁とロマンティシズムにあふれた見事な男のドラマだ。

映画という虚構の中で描かれる男については、人間的な弱さや脆さを持ったダメ男が好きだ。
この現代において、ダメでない男のどこに魅力があるだろう。
だから、私は、そういうダメ男を主人公にした映画に魅かれてしまう。

だが、このジョン・ミリアス監督、ショーン・コネリー主演の「風とライオン」は違う。
この映画に登場するのは、ダメさのかけらもない、まぎれもなきヒーローなのです。

男の強さと、男の美しさと、男の優しさと、その全てを併せ持った"立派な男"の、なんと惚れ惚れする魅力なのだろう。
忘れていた"真の男"への夢が、いま鮮やかによみがえるのです。

限りない憧れをかきたてられ、慕情をうずかせて、この大スケールの映画のダイナミックな迫力に匂い立つ、途方もないロマンティシズムに、私はのめりこんでしまうのです。

夜の大捜査線:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-03

それにしても、結局これは、例えノーマン・ジュイソン監督が、ロック・カルチャーを通して黒人の文化や時代感覚に鋭敏だったとしても、白人による黒人映画なんだと気付いたのは、黒人監督のスパイク・リーの出現以後だ。

その後のスパイク・リー監督の「ドゥ・ザ・ライト・シング」で描かれた黒人社会の実情は、1967年当時とあまり変わっていない。
綿畑が都市の路地裏に移行しただけだと思う。

そして、スパイク・リー監督は、黒人と白人の和解などというものが、幻想に過ぎなかったということを暴露してしまった。

もちろん、「夜の大捜査線」は、今の時点で観ても感動する。
ただ、その感動は、少しだけ居心地の悪い感動なのだ。

夜の大捜査線:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-03

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レイ・チャールズの心の底から絞り出すような、哀切で魂を揺さぶるようなブルースが流れ、黒人と白人は和解できるかもしれないという予感が漂う、駅でのティッヴス刑事と白人署長の別れのラスト・シーンは、何度観ても目頭が熱くなってしまいます。

この映画の実質的な真の意味での主人公は、シドニー・ポワチエではないと思う。
彼を受け入れる白人署長を熟練のメソッド演技で、人間の内面の生々しい感情の揺れを迫真の演技で示したロッド・スタイガーだと思う。(因みに、アカデミー賞では、ロッド・スタイガーが最優秀主演男優賞を受賞)

地元のミシシッピーの田舎町で生まれ育った多くの者と同様に、人種差別主義者であるこの白人署長のギレスピーは、当初、黒人のティッヴス刑事を受け入れることなどできなかった。

しかし、その後、彼の言動に接していくうちに、次第に友情が芽生え、信頼が醸成されていく。
このあたりの微妙な内面の変化を、ロッド・スタイガーは、その表情やしぐさから、見事に表現していて、その巧さに唸らされてしまいます。

夜の大捜査線:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-03

※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]

これくらい、しつこく描かなくては、"無意識下の差別"を抉りだせないという、ノーマン・ジュイソン監督の演出の意図が感じられます。

例えば、前半で登場する白人のチンピラ(スコット・ウィルソン)は、経済的にも精神的にも、社会の最底辺にいる人間であるはずなのに、それでも黒人よりは偉いと思い込んでいる。

あるいは、黒人刑事という理由だけで彼を平手打ちにし、殴り返されると、なぜ射殺しないと、白人署長に詰め寄る資本家の表情。

そして、気のいい奴の鈍感さこそが、差別の温床なのだということを十二分に表現する白人警官(ウォーレン・オーツ)の平々凡々たる顔。

この映画は、黒人映画のようなふりをしながら、実は"白人社会の惨めさ"をこそ描いた映画なのだと思う。

センチメンタルで進歩的な理想主義者にとっては、この映画のテーマは、非常にわかりやすいと思う。
娯楽作品としても非常に良くできていると思う。

夜の大捜査線:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-03

そして、白人が黒人に対して抱いているイメージを執拗になぞるように、名手ハスケル・ウェクスラーのカメラは風景を映していきます。
この南部の風景自体が、この映画の主人公と言ってもいいかもしれないほどです。

そして、この綿畑を舞台にしたシーンで、ティッブス刑事が、彼を茫然と眺める黒人の小作人を横目に、綿畑を自動車でさっそうと駆け抜けていく。
バックに流れるのは、レイ・チャールズの歌。

そして、その時、運転席に座る白人署長の表情は、複雑で釈然としていないように見える。
時代の変遷、つまり、「過去」と「未来」の間に位置する「現在」の浮遊感といったものを、実に見事に表現した映像だと思う。

仕立てのいいスーツをビシッと着こなし、眼光鋭いシドニー・ポワチエ扮するティッヴス刑事が登場する最初のシーンは、カッコ良すぎるくらいカッコいい。

そのカッコいい刑事が、殺人犯に間違えられるところからこの物語は始まるわけですが、どんなエリートにせよ、なにしろ黒人なんだから犯人に決まっているという偏見の描き方が、異様なくらいにしつこい。

夜の大捜査線:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-03

"南部の強烈な人種偏見と闘いながら、鋭い人間描写と緊迫感に満ちた演出で描く社会派サスペンス映画の傑作 「夜の大捜査線」"

1958年のスタンリー・クレイマー監督の「手錠のままの脱獄」でジドニー・ポワチエは、トニー・カーティスと手錠で繋がれた脱獄犯を演じていました。

それが、この1967年のノーマン・ジュイソン監督の「夜の大捜査線」では、頭のかたい保守反動的な、人種差別主義者の田舎町の白人署長ギレスピー(ロッド・スタイガー)をリードする敏腕エリート刑事に扮しています。

この映画の原作は、MWA新人賞を受賞したジョン・ボールの「夜の熱気の中で」。
主人公の黒人刑事バージル・ティッヴス(シドニー・ポワチエ)が、フィラデルフィアから南部の田舎町にやって来て、乗り換えのため駅で待っていたところ、黒人という理由だけで殺人の容疑者となった彼は、人種的な偏見と差別意識の強い、地元の白人たちと闘いながら、てきぱきとこの殺人事件を解決に導いていきます。

偏見のかたまりだった白人署長との間にも、友情が芽生え始めるが-------。

1958年から1967年に至る9年の間に、アメリカ社会ではどのような動きがあったのか。 公民権法が成立したのが1960年。 1963年のジョン・F・ケネディ大統領の暗殺をはさみ、キング牧師らをリーダーとする人種差別反対の集会やデモ、あるいは暴動が相次いで起こる。 そして、1964年にヴェトナム戦争が開始され、1965年には急進的な運動家であったマルコムXが射殺されている。 この映画の原題通り、まさしくアメリカ全体が"in the heat of the night"の真っ只中にあったのだ。 この映画で描かれている、黒人が白人を小気味よくやっつけるというモチーフは、そうした時代背景をリアルに反映していると思う。 もっとも、現実には、小気味よくやっつけきれないために、こういう映画を観てリベラルな観客、特に黒人は溜飲を下げていたのかも知れません。 この映画の撮影は、イリノイ州やテネシー州を中心に、全てロケーションで行われたそうで、泥沼状の河と広大な綿畑しかない南部の田舎町が広がっている世界だ。

恋人たち(1958):P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-03

パリ郊外の田園に住むブルジョワ婦人ジャンヌは、息抜きに出かけたパリからの帰り、若き考古学者ベルナールと知り合う。

そのまま彼を邸宅に招いたジャンヌは、夫と娘のある身にもかかわらず、ベルナールに身をまかせ、翌朝、すべてを捨てて、ベルナールの車に乗り込むと、いずこかへと旅立っていくのだった。

このルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」に続く2作目の映画「恋人たち」は、比類なき美しさに満ちあふれた映画だ。

これだけ耽美に満ちた映画を、20代の青年監督が作ったとは、どうしても信じられないほどだ。
当時のフランスのヌーヴェル・ヴァーグの監督たちは、どうも子供っぽい人が多かったが、ルイ・マル監督は異例とも言うべき大人の感覚を持っていた人だと思う。

この映画は、ストーリーらしいものは、ほとんどないのだが、「太陽がいっぱい」「サムライ」などの名手アンリ・ドカエのカメラと、ブラームスの音楽と、そして、主人公のジャンヌを演じたジャンヌ・モローの存在感が一体となって、これぞまさしく高級ブランデーの味わいだ。

とにかく、ジャンヌ・モローという女優は、"風景の中の女"だと思う。
それも、陽の射さない風景がよく似合う。
夜の中、霧の中、朝もやの中、雨の中、曇天の中が特にいい。

この映画「恋人たち」でジャンヌ・モロー演じる貴婦人と駆け落ちする若い男は、女に向かって"いつも夜だったらいいのに"とつぶやく。
ジャンヌ・モローは何よりも夜の女なのだ。

行きずりの若者と貴婦人が、ブラームスの曲をバックに、月の光の下で繰り広げるラブシーンの、息をのむ美しさ。
映画が成し得た、最高に甘美で頽廃的な夜。

しかし、ジャンヌ・モローという女優がいなかったら、果たしてこの映画はここまで美しく、官能に満ちていたかどうか。

刹那の人間の感情の美しさと残酷を浮き彫りにした、心憎い名作だと思う。

チャトズ・ランド:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-03

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チャールズ・ブロンソンにしてみたら、マイケル・ウィナー監督のシャープな映像感覚が気にいって、自身のアクション映画に起用していくのですが、イギリス時代に「明日に賭ける」「脱走山脈」「栄光への賭け」といった、現代的なテーマに果敢に挑み、シャープな映像感覚と鋭い問題意識でキラリと光る秀作を撮り続けて来たマイケル・ウィナー監督が、ブロンソンとの運命的な出会いによって、いわばブロンソンの御用監督的な、通俗的な職人監督に堕していったのが、惜しまれます。

この映画は、南北戦争が終わった直後、アパッチのチャト(チャールズ・ブロンソン)は、インディアン立ち入り禁止の白人の酒場で酒を飲んでいました。
だが、それを見た保安官は、いきなり銃を抜いてチャトを殺そうとしますが、逆に殺されてしまいます。

町の人々は、追手の隊を元南軍将校のホイットモア(シェーンの悪役で有名なジャック・パランス)を中心に編成して追跡して行きます。

そして、この追跡隊とまともに戦っては勝ち目がないと思ったチャトは、自分が手の平のように知り尽くした山岳地帯に立て籠もって戦おうとします。

追跡隊は、まんまとチャトの術中にはまり、ひとり、また、ひとりと倒されていくのであった----というストーリーです。 この映画の製作意図として、「イギリス人が西部劇を作ったって少しも不思議じゃないだろう。現代のアメリカ人だって開拓時代のアメリカを知っている訳じゃないんだから----」と、マイケル・ウィナー監督は語っていて、チャールズ・ブロンソンが彼の長い下積み時代に、何度も演じて来たインディアン役に再挑戦させたのです。 それも、それまでのインディアンの定番であった、敵役ではなく、白人を相手にした主役としてのインディアンで、最初は白人に従順な感じで、おとなしいインディアンと白人の混血のチャトは、ある事件をきっかけに、突如、逞しい戦士に早変わりし、無法な白人相手に果敢に戦いを挑んで行くのです。 そういう意味では、英国スタッフのスペイン・ロケによるアメリカ製西部劇という違和感が少しも感じられない作品だったとは思います。

チャトズ・ランド:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-03

"チャールズ・ブロンソンとマイケル・ウィナー監督が運命的な出会いを果たした異色西部劇 「チャトズ・ランド」"

この映画「チャトズ・ランド」は、イギリス出身の映画監督マイケル・ウィナーが、バート・ランカスター主演で撮った「追跡者」に次いで、製作・監督に当たった、英国スタッフにて、全編スペイン・ロケによるアメリカ製西部劇とも言える作品で、この英国スタッフで西部劇に挑戦するというところに、当時のマイケル・ウィナー監督の心意気が感じられます。

主演は、フランスに渡り、アラン・ドロンと共演し、ドロンを完全に食ってしまう存在感を示した「さらば友よ」や、名匠ルネ・クレマン監督と組んだサスペンス映画の傑作「雨の訪問者」などで、主演も張れるスターとしてブレークしたチャールズ・ブロンソンが、「バラキ」の後に主演した映画で、この「チャトズ・ランド」でマイケル・ウィナー監督とよほど気が合ったのか、この作品の後、マイケル・ウィナー監督と「メカニック」「シンジケート」「狼よさらば」----と立て続けにコンビを組んでいく事になります。

続 夜の大捜査線:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★☆☆
投稿日
2024-06-03

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探偵小説的にみると、もうそこが割れていて感心できないんですね。
アパートの管理をしている女好きの怪しげな男をはじめ、疑わしき人物が散りばめられ、殺された女の部屋代を払っていた不動産屋が、自動車で逃亡を企てる一幕など、そういった場面にかなりの尺数を取っているが、マーティン・ランドーが犯人であることは、観ている人のほとんどがわかってしまうだろう。

前作のような、アメリカ南部における白人の黒人差別といった社会的な問題に対する視点や、白人と黒人の絡み合いから生まれる人間ドラマとしての面白さなどに較べると、この作品ではもっぱら主人公の家庭生活を扱っているのも、ヘタな日本映画に似て、つまらなくなった一因だろう。

続 夜の大捜査線:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★☆☆
投稿日
2024-06-03

この映画「続・夜の大捜査線」は、シドニー・ポワチエ扮する主人公の黒人刑事バージル・ティッブスが同じなだけで前作とのつながりはなく、原作は「夜の大捜査線」のジョン・ボールではなく、アラン・トラストマンのオリジナル書き下ろし脚本を基にした作品だ。

監督も、前作の名匠ノーマン・ジュイソンから凡庸なゴードン・ダグラスに代わっている。

あるマンションの一室で、いかがわしい商売女が殺される。
ティッブス刑事は、聞き込みから、彼とは親友のローガン神父(マーティン・ランドー)が、そこへよく出入りしていた事を知る。

事情聴取をしながらも、ローガン神父の無罪を信じるティッブスは、友達が真犯人ではないことを心の中で祈りながら、自ら事件を担当することになる。

最終更新日:2024-10-30 11:00:02

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