- 評価
- ★★★★☆
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- 2024-05-17
1980年代の”殺人鬼”の代名詞ともなった、ホラー・キャスター、ジェイソンが大暴れする、スプラッタ・ホラーの代表的なシリーズ「13日の金曜日」の記念すべき第一作。
とはいえ、実はジェイソンは、シリーズの全作に出ているわけではなく、この第一作の殺人鬼はジェイソンではない。
このシリーズの基本設定は、1958年の6月13日の金曜日に、クリスタル・レイク・キャンプ場で殺人事件が起こり、13日の金曜日に不吉なことが起こるとされる、このキャンプ地で、毎回、殺人が繰り広げられていくというものだ。
最初は人間だったはずのジェイソンも、続編の度に雷や少女の願いなどによって、何度も蘇る不死身のモンスターと化していくんですね。
1958年6月13日。ニュージャージー州ブレアーズタウンに近いキャンプ場、クリスタル・レイク・キャンプ場で若者が次々と無残に殺される事件が発生する。
昔、若い男女が惨殺されて以来、呪われた場所として、忌み嫌われているこの土地で、10数年ぶりに夏のキャンプが再開される。 だが、準備のために集まって来た若者たちは、その日、13日の金曜日に、次々と姿なき何者かに惨殺されていく。 一夜のうちに一人、また一人、殺されていき、気が付くと主人公だけになっていた—-という設定なんですね。 無感動に、人間が殺戮されていく有り様は、殺される者に対する憐みや哀しみといったものが一切なく、一種のショー的な要素すら感じられるんですね。 また、後にこの作品が、シリーズとして続いていくと想定されてはいなかった作りになっている。 何せホラーではなく、ジェイソンも出ていなくて、生きている人間が次々と殺されていくだけですので、残酷描写はありますが、この作品はサスペンス映画になっています。 今でこそ、ホッケーマスクを被った、無敵の殺人鬼ジェイソンが大暴れしますが、この作品では、ラストまでその姿を見せません。 そして、この作品の殺人鬼は、もちろんジェイソンではありません。 13日の金曜日に起こった殺人劇ということで、なるほどそれでタイトルが「13日の金曜日」かとオープニングで変に感心しました。 もちろん13という数字は、アメリカでは不吉な数字で、日本で言う4と言う数字と同じ意味合いですね。 なぜ金曜日が不吉な日なのかというと、恐らく、”最後の晩餐”が金曜日というところからきているのでしょう。 前半は、ただ人が残酷な殺され方で死んでいくだけで、ストーリーも何もなかったんですが、後半になって、犯人の素性が割れてからは、面白かったですね。 それにしても、素性を見せた途端、犯人が非力になってしまいましたけど。 そして、映画ファンなら忘れてはならないのが、この作品にデビューしたての、今では悪役も主役もこなす、性格俳優のケヴィン・ベーコンが出演してるんですね。 ただ、前半で退場しちゃいましたけど。 人気シリーズの一作目なのに、この作品はラジー賞のワースト作品賞、ワースト主演女優賞にノミネートされていました。 受賞はしませんでしたが、知らなかっただけに意外に思いましたね。
- 評価
- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-05-17
ジョン・ウェイン扮する「勇気ある追跡」の主人公ルースター・コクバーンが再登場する西部劇「オレゴン魂」。
大酒飲みで左眼に眼帯、犯罪者は容赦なく射殺する保安官ルースター・コクバーンが再登場。
白髪が増えたが、相変わらず同居人の中国人に世話を焼かれ、将軍という名の猫も健在だ。
相変わらずの逮捕ぶりで、何人殺したか覚えていないと詰問され、パーカー判事(ジョン・マッキンタイア)からバッジを取り上げられるが、騎兵隊を皆殺しにしてニトログリセリンを奪った、ホーク(リチャード・ジョーダン)一味を生け捕りすれば、賞金2000ドルと終身保安官にするという条件で追跡の旅に出るのだった。
古き善き西部劇というものがあるとすれば、1950年代が全盛期で、ジョン・ウェインがオスカーを獲った「勇気ある追跡」は、その終焉を飾る名作だった。
その続編を作ったのは、ハリウッドの名優に最後の華を咲かせたいという周辺の配慮があったからこそ。
そのためには、相手役が大切で、ハリウッドの盟友でありながら、共演したことがない名女優のキャサリン・ヘプバーンに白羽の矢が立った。
監督のスチュアート・ミラーはプロデューサーとして有能で、二人の初共演と「勇気ある追跡」のいいとこどりをして完成したこの作品は、アメリカでは、公開前から評判を呼び大ヒットを記録。 ただし、クオリティに関しては、前作の二番煎じの域を超えられる筈もなく、かなりどこかで観たことがあるシーンや破綻のある展開が目立っている。 それでも、勝ち気で愛らしい修道女に扮したキャサリン・ヘプバーンが登場し、ジョン・ウェインと共に旅をするうちに、打ち解けていく様は、まるで熟年夫婦を観るようで微笑ましいものがある。 大男のウェインが、ヘプバーンに言い負かされ、大人しく従う姿は、ほのぼのとしたムードが漂い、魅了されてしまう。 ジョン・ウェインは、翌年の「ラスト・シューテスト」が遺作となったが,キャサリン・ヘプバーンは、その後も大活躍したのは周知のとおりだ。 ストローザー・マーティン、リチャード・ジョーダン、アンソニー・ザーブなどに囲まれて、はまり役を全うしたジョン・ウェインにとって、本当の意味での最後の作品と言えるだろう。
- 評価
- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-05-17
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この映画「ガントレット」でのクリント・イーストウッドの役は、フェニックス市警察のベン・ショックレーという、勤務中もジャック・ダニエルズの小瓶を、ポケットに入れているような、うだつのあがらない刑事だ。
このベンが、新任の市警長官の命令で、ラスベガス警察に留置されている売春婦を、あるギャングの裁判の証人にするために、引き取りに行くことになる。
ところが、女はひどく脅えているし、ラスベガスの競馬ののみ屋は、この売春婦マリーを馬に見立てて、フェニックスに無事に行かれるか、行かれないかの賭けをしている。
しかも、行かれないという方が圧倒的で、事実、警察から空港へ行くまでに、もうベンとマリーは襲われてしまう。
そこで飛行機を断念して、マリーの家に避難して、フェニックスの長官に応援を頼むと、駆けつけたラスベガス警察の警官隊は、なぜかベンを凶悪犯扱いし、家に向かって一斉射撃を始めるのだ。
しかし、話の底は、まもなく割れる。
マリーに証言されると、ギャングと手を握っていることがわかってしまう長官が、いてもいなくても同じベンを犠牲にして、マリーを消そうとしているのだった。 パトロール・カーを乗っ取ったり、ヒッピーのオートバイを奪ったりして、ベンはなんとかマリーを連れて行こうとする。 この映画の中間部は、敵味方の攻防に論理性が欠けているので、いささかダレてしまう。 そして、長官が黒幕だと気づいたベンは、道順を報告した上で、長距離バスを乗っ取って、裁判所に直行しようとする。 順路を知らせておけば、市内を通行止めにして、襲撃してくるに違いないから、一般人を巻き込まずにすむという配慮なのだ。 案の定、裁判所への道の両側は、警官隊で埋まっていて、もう凄まじい乱射乱撃雨あられ、ということになってしまう。 「エクソシスト2」のチャック・ギャスパーが特殊効果を担当したこの大乱射場面は、一見の価値があると思う。
この映画の題名の「ガントレット」というのは、鞭を持った執行人が大勢、左右に並ぶ間を、罪人が歩いて行って、最後まで倒れなければ赦される、という中世の刑罰のことで、つまり、この映画のクライマックスのことなのだ。 いくら長官の命令でも、凶悪犯にされたベンはともかく、証人まで殺してしまう大銃撃を、警官たちが実行するかなとか、人道主義の新聞記者や野党の市会議員はいないのだろうか、といった疑問も頭をかすめるけれども、バスが蜂の巣のように穴だらけになるところは、とにかく凄い。 もちろん、それでもイーストウッドだから、ベンは生き延びて、長官の偽善の仮面を剥いで、ハイ、お終いと成るわけだ。 卑猥な言葉で毒づきながら、マリーがだんだんとベンに魅かれていくのは、定石通りだけれど、ソンドラ・ロックが、なかなかいい味を出していたと思う。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-05-17
このハーバート・ロス監督の「グッバイガール」は、観終わった後、実に爽やかな気分にさせてくれる、”ニール・サイモン喜劇”の真骨頂を見せてくれる、そんな素敵な、素敵な映画なのです。
チョッピリ哀しくて、チョッピリ甘くて、チョッピリおかしい—-。そう、メチャクチャにおかしいのではなく、チョッピリおかしいところがいいんですねえ。
ドタバタではなく、人情の機微をついたおかしさだから、大笑いではなく、クスッとくるおかしさなのです。
だが、そのクスッは心の奥底に分け入ったものなので、”爽やかな余韻”といったものが残るのです。
“人生はお芝居だ”と、なぜか役者ばっかり愛してしまう女。そして男は役者として成功すると同時に出ていってしまう。愛する事と傷つく事がいつもワンセット—-。
そんな気は強いが愛らしい女性ポーラを、マーシャ・メイスンが素敵に好演。
それにリチャード・ドレイファスが演じるおかしな男を通して、時代の空気を生き生きと再現していて、実に見応えのあるウェルメイドな素晴らしいドラマになっていると思います。
いつも男にグッバイされてばかりいる子連れの女性が、遂に逃げない恋人を獲得するまでのハッピーエンド・コメディ—-。 脚本のニール・サイモンは、気のいい女性の悲哀と売れない役者の軽妙なやりとりを、マーシャ・メイスンとリチャード・ドレイファスの出演を念頭に置いて書いたと言われるだけあって、彼らの名演を引き出す事に成功した、よく練り込まれた素晴らしい脚本だと唸らされます。 そして、リチャード・ドレイファスが主演するシェークスピア劇の「リチャード三世」がゲイであったという新解釈や、演出家が極度のマザコンであったというような描写がありますが、それはニール・サイモンの当時流行っていた、”アングラ文化”への嫌味なのかも知れません。
- 評価
- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-05-17
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剣豪映画が好きな私にとって、ロビン・フッドの名は限りなくロマンティックなノスタルジーを誘うヒーローだ。
プランタジネット王朝のイングランドのシャーウッドの森に、一党を引き連れてこもり、悪の大王や悪代官を懲らしめたこのアウトローほど、何度も映画のヒーローになった人物もいないだろう。
サイレント映画時代のダグラス・フェアバンクスから、エロール・フリンを経て、ディズニー映画のリチャード・トッド、マカロニ剣豪映画のレックス・パーカー、新しいところではケヴィン・コスナーに至るまで、数々のスターがロビン・フッドを演じたものだ。
この才人リチャード・レスター監督の「ロビンとマリアン」は、十字軍の遠征から18年ぶりに故国に戻ったロビン・フッドと、今や修道院の院長となっているマリアン姫が再会する”ロビン・フッド物語”の後日譚だ。
この無法の森のヒーロー、ロビン・フッドも年をとり、その晩年のロマンスと活躍が、この久し振りの”ロビン・フッド物語”の新しい映画化作品でもあるのだ。
髪も薄く、あごひげも白くなったロビン・フッド(ショーン・コネリー)が、シャーウッドの森に帰ってくるところなど、実に感動的だ。 そして、久し振りに再会するマリアン姫は、修道院の院長になっている。 このマリアン姫を演じるのは、顔にも首筋にも手の甲にも皺が目立つようになった、当時47歳のオードリー・ヘプバーン、前作「暗くなるまで待って」の出演後、一時引退してから9年ぶりのカムバック作品だ。 ショーン・コネリーが、男の優しさと逞しさを体現していて、本当にこの人はいい感じの年のとりかたをしているなと感じるし、対するオードリー・ヘプバーンも相変わらずキュートで、”永遠の世界の恋人”としての彼女の魅力も健在で、実に素敵だった。 リチャード・レスター監督らしい、調子っぱずれだが、リアルで強烈な悪代官のロバート・ショーとショーン・コネリーの剣と斧による長い壮絶な決闘も大いに楽しませてくれる。 瀕死のロビン・フッドが最後の力を振り絞って、大空に弓を射るシーンは、実に美しく感動的だ。 そして、この永遠に向かって飛んでいく矢のショットで映画は幕を閉じる——–。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-05-17
母と娘。ごく普通のアメリカの女二人。
母は娘を愛し、娘の選んだ結婚の相手を嫌い、時に慰め合い、時に罵り合い、長距離電話をかけ合う二人。
さりげない日常生活のリアリティが、なまじっかメロドラマ仕立てに粉飾をした物語より、遥かに心の奥深く、人生の真実を語りかけてくるのだ。
母がシャーリー・マクレーン。娘がデブラ・ウィンガー。
このシャーリー・マクレーンが、実に良い。
表面上の新鮮さだけを売りものにして、スターと称する女性が多い中、まさにこれが、本物の”女優”と言える、繊細な心理表現と華麗な存在感を見せて、我々観る者の胸をときめかせるのだ。
彼女の隣に住み、恩給で自堕落な生活を送っている、元宇宙飛行士がジャック・ニコルソン。 過去の栄光、その残照にすがる事しか生きる術がなく、それでいて優しい心で彼女を包む彼。 「イージー・ライダー」で彼が演じた、さ迷えるインテリという、その原点に返って、素晴らしい味わいだ。 やがて、娘の死による人生の別離。 ここでも、淡々とした描写は変わらないのだが、それだけに現実感もひとしおで、人の世の哀しみが胸に染みて泣かせる。
- 評価
- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-05-17
この映画「007/オクトパシー」は、シリーズ13作目の作品で、三代目ジェームズ・ボンド役のロジャー・ムーアも、すっかり落ち着いて、堂々たる貫禄だ。
20年間に13本と作品が続いていて、大ヒットしたからといって乱作せず、一本一本に新しいアイディアを傾注とていった、その努力が、この面白さを生んでいるのだろう。
今回の題名のオクチートパシーとは蛸の事。
実はオクトパスと言わずに、オクトパシーと呼ぶところが、いかにも007らしい楽しさが隠されていると思う。
原音では、オクトプシーと発音しているのだが、プシイとは可愛子ちゃん、更に女性のポイントという意味がある。
蛸の吸盤とかけてあるところなんか、思わずニンマリとするところですね。
このオクトパシーと呼ばれる謎の美女が、ソ連の野心家の将軍と手を結んで、陰謀を企んでいるのだが、お馴染みジェームズ・ボンドが、乗り込んで、その陰謀を探るのだ。
まあ、よくぞ考えたと思われる程、危機また危機の痛快アクション。
まさに、連続活劇の復活を思わせるのだ。
この映画の公開当時は、SF映画がブームになっていた時代で、SF風のストーリーを考えるのが普通だ。 ところが、何とこの映画は、SF的な素材をいっさい排して、ジェームズ・ボンドが肉体を駆使して闘う、連続活劇そのものに徹して見せるのだ。 走る列車の中や、屋根での大アクション。 空飛ぶ飛行機の上での格闘。まさに映画の原点に帰った面白さ。 この映画のプロデューサーのアルバート・ブロッコリが、根っからの商売人で、観客を楽しませる事だけに考えを集中して、何のテライもない事が、この成果に繋がったのだろう。 インド・ロケの魅力もたっぷりだが、ジョン・グレン監督の、対象を常に大きく掴んで見せる演出の勝利だと思う。 後半で、オクトパシー美女軍団が、アマゾネスばりに活躍するあたりは、いささか邪劇めいた雰囲気もあるが、少しも画面から目を離せない、スリルの盛り上げはさすがだ。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-05-17
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父性の芽生えた座頭市が、別れの前に、赤ん坊の手を握って「坊や、これがおじさんの耳だ、これが口だ、これが鼻だ、目は—–ねえんだ」というシーンは、さすがに目頭が熱くなるほどグッとくる。
ところが、やっと出会えた父親(金子信雄)の仁義なき野郎ぶりがまた最高なんですね。
そして、怒涛のクライマックスへとなだれ込み、座頭市が火責めの中で奮闘するシーンも、実に圧巻だ。
この映画は、目明きの世界の哀しさというものが、実によく描かれていて、シリーズ中でも屈指の作品だと思う。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-05-17
この映画「座頭市血笑旅」は、座頭市がしばしパパになるという内容の”座頭市シリーズ”8作目の作品で、監督はシリーズ1作目以来の三隈研次だ。
この映画は、東京オリンピックが開催されている最中に封切られたが、他の映画館が閑古鳥が鳴く中、超満員の盛況だったという伝説を残している作品でもあるんですね。
何の因果か、母を殺されこの世にひとり残された乳飲み子を、父親のもとへと届ける役目を引き受けた、我らが座頭市。
成り行きではあるのだが、授乳やらおしめの取り替えに苦労しながらも、即席パパになろうとする。
それで、賭場でも殺陣のシーンでも、”小道具”としての赤ん坊がちゃんと利いている。
執拗に命を狙い続ける一味とのあれこれ、道中で知り合った女スリ(高千穂ひづる)との微笑ましいエピソードなどを挟みつつ、やがて旅も大詰めになっていく。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-05-17
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このキム・ジウン監督の韓国映画「悪魔を見た」は、理不尽な復讐劇「眼には眼を」を思い出させる、ダークサイドのカタルシスすらない、プロ同士のメンツを賭けた復讐劇だ。
恋人を快楽殺人者に殺された男の復讐を描いた作品で、言ってしまえば、この作品はそれだけの内容だ。
ただ、被害者の恋人が国家情報院の捜査官というプロのスキルを持ったエリートだったことと、殺人鬼がプライドもモラルもない本物の鬼畜だったことで、人間の道徳的な尊厳に集中攻撃をかけるような、異様なテンションの復讐劇に仕上がっているのだ。
しかし、ここには、パク・チャヌク監督の”復讐三部作”のようなダークサイドのカタルシスすらない。
異常殺人者としてのチェ・ミンシクの演技は、もう絶品としかいいようがない。
この男に拉致されたら、絶対に生きて帰れないと覚悟するしかない。
しかも、困ったことにこの男、鬼畜なのに妙な愛嬌があるところだ。
一方、復讐者であるイ・ビョンホンは、エリート捜査官特有のクールさで、一見ヒーローのようだが、せっかく捕まえたチェ・ミンシクを、半殺しの目に遭わせながら、追跡装置を飲ませて放逐してしまうのだ。
これは、エドガー・アラン・ポオの小説にもあった「希望という名の拷問」を試みたのか知らないが、生き永らえさせることによって、悔恨の涙を流させるまでいたぶるのが目的なのだろう。 また、面白かったのは、チェ・ミンシクが同じ殺人鬼の仲間に助けを求めるところだ。 こちらはペンションの一家を面白半分に切り刻む殺人鬼の夫婦だ。 その男が言うには、「あいつは俺と違って、苦しめる前に楽しませる奴だからな。そいつも俺たちと同じ、狩りをする時の快感を楽しんでるんだ」と。 このように、快楽殺人者は、ある面で哲学者でもあるんですね。 復讐者が目的のために手段を選ばなくなった時点で、殺人者と同列になるというのは、復讐を題材にした映画ならば避けては通れないジレンマだが、この作品でキム・ジウン監督が目指したのは、また別の次元で、殺しのスキルを身につけたプロが、プライドを賭けて復讐を実行したら、殺人鬼以上に残酷な手口を考え出すということだ。 恋人や家族の死は、ただの巻き添えでしかなく、プロ同士のメンツを賭けた対決こそが、この作品のテーマなのだと思う。
- 評価
- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-05-17
この映画「スフィア」は、マイケル・クライトン原作の映画化作品で、彼には珍しい海洋SFホラーになっている。
深海で発見された謎の宇宙船を調査するため、科学者たちが招聘されるという設定は「アンドロメダ病原体」とそっくりだ。
太平洋の沖合で、300年近く海底に沈んでいた巨大な宇宙船が発見された。
政府の要請を受けた心理学者ノーマン(ダスティン・ホフマン)、彼の古い知り合いの生化学者ベス(シャロン・ストーン)、ニヒルな数学者ハリー(サミュエル・L・ジャクソン)ら数人の学識者は、謎の指揮官バーンズ(ピーター・コヨーテ)と共に、その調査にあたることになる。
深海探査基地を拠点にリサーチを進める彼らは、宇宙船内で巨大な球体”スフィア”を発見、その機能を解明しようとしていた矢先、海上との連絡が途絶えてしまう。
そして、彼らの”潜在意識”に眠っている恐怖が、次々と現実となって彼らを襲うのだった——–。
舞台となるのが、海底300メートルの探査基地の密室と宇宙船内という限定されたものでありながら、途中ハリケーンが来たり、巨大な生物が襲ってきたり、船内で火災事故が起こったりと、展開は非常に派手だ。 “ファースト・コンタクト・テーマ”のハードSFでありながら、しかも人間の意識化の葛藤を描く心理ドラマでもあるという複雑な物語を、バリー・レヴィンソン監督がスリリングに映像化していると思う。 ダスティン・ホフマンやピーター・コヨーテといった芸達者な俳優たちの熱演も大きく貢献しており、原作よりも緊迫感のあるドラマに仕上がっていると思う。
- 評価
- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-05-17
007シリーズの中で評判も悪く、興行収入もパッとしなかったこの「消されたライセンス」。
評判が悪かった理由は、ボンドが親友の復讐のため007を辞するので、任務ではなくなり、必殺仕事人と化すため、ボンド本来のクールで洗練された味わいがなくなってしまったから。
興行収入が悪かったのは、当時007にライバル映画が多く出てきたためだったと思う。
1980年代後半に公開されていたアクション物といえば「インディ・ジョーンズ」「ダイ・ハード」「リーサル・ウェポン」シリーズなど、ボンド・ムービーの影響を受けているが、明らかに面白さやスケール感が上回っているアクション物が多く、007はちょっと古臭い印象を与えていたのだと思う。
前作「リビング・デイライツ」で颯爽と登場したニュー・ボンド 、ティモシー・ダルトン。
それまでのユルく年寄り臭くなった感じのロジャー・ムーアから一転、クールでタフな感じで評判もよく、この「消されたライセンス」にも出演したが、たった2作で降板してしまった。
冷戦構造が終焉を迎え、それまでのスパイもののプロットが成り立ちにくくなり、苦慮しているときにボンドになってしまったのが、ダルトンの悲劇であろう。 この作品は、それまでのボンドシリーズではあまりなかった残酷な描写もある。 親友フェリックス・ライター(デヴィッド・ヘディソン)は、鮫に足を食いちぎられる、減圧室でのクレスト(若き日のベ二チオ・デル・トロ)は、むごたらしい最後を遂げ、麻薬王サンチェス(ロバート・ダビィ)は、炎につつまれて死ぬ。 そんなリアルでダークな描写もあったため、各国のレイティングでの年齢制限も上がってしまい、この「消されたライセンス」は、アメリカでは、007シリーズのワースト興行成績を上げてしまうことになる。
- 評価
- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-05-17
お馴染みのジェームズ・ボンドシリーズの第14作「007 美しき獲物たち」。
パリからサンフランシスコ、サンノーゼへ飛んで、007一流の痛快なアクションが展開する。
ナチの狂気の優性手術で生まれた男が、KGBと結びつき、巨大な陰謀を企んでいる。
シリコンバレーを湖の底に沈め、マイクロチップの世界市場の独占を狙っているのだ。
物語りの設定はさておいて、追いつ追われつの危機一髪の面白さこそ、このシリーズのお楽しみの目玉だ。
その点、この映画では、ジェームズ・ボンド自身が、体を極限まで駆使して、危機を切り抜ける。
SF的な小道具をひけらかす、小賢しきアクション乱立に訣別して、7の本道に戻ったあたり、アルバート・ブロッコリー、さすがに世紀の大製作者だけのことはある。
スキーの追跡、カーアクション、エッフェルや飛行船のぶら下がり、「ベン・ハー」並みの馬術競技、金門橋のクライマックスと、ボリュームいっぱいの大サービスだ。
ところが、この映画、その割にはなぜか印象が薄いのだ。
007=ロジャー・ムーアのお歳のせいか、ジョン・グレン監督の演出のせいか。
いやいや、悪役のクリストファー・ウォーケンに、もっさと狂気の凄みが欲しかった。 そして、問題なのは、入れ替わり、立ち替わり登場する美女たちの、一体誰がヒロインなのか、例え一時的なお相手であっても、美しいだけの人形ばかりじゃ、結局、飽きてしまうのだ。 悪の女ガードマン役のグレース・ジョーンズが個性の強烈さで、孤軍奮闘。 どんなに派手なアクションも、スケールの大きな物語も、人物がきちんと描かれていないと、血を湧きたたせてくれないのだ。 このように、厳しく言うのも、007シリーズへの深き信頼から出た期待からだ。 並みのアクション映画が足元にもよれるものではない。 特にこの映画で、我々を驚かせるのは、スタント・プレイの凄さ。 それまでは想像も出来なかった、危険なスタントを、人力ギリギリの限界まで見せてくれる。 SFXのトリックショットやCGも結構だが、我々と同じ生身の人間、その危機への挑戦は、やっぱり何とも血が燃えるんですね。
- 評価
- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-05-17
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この映画「アンネの日記」は、世界的なベストセラーとなった、アンネ・フランクによる同名の原作の映画化作品で、人間の善意を信じて疑わなかったアンネの短い青春を描いています。
この多感な少女アンネを主人公としたホームドラマ、そして青春ドラマとしてもみられる映画の背後には、あのアウシュヴィッツの無惨な映像が、そっと息をひそめています。
映画は二年余の隠れ家生活の末、遂にゲシュタポによって、アンネたちが捕らえられるところで終わるのですが、アンネ一家、ファン・ダーン一家、デュセルさんたちの姿にオーバーラップして大空が映り、次第に彼らの姿が消えて行き、大空には鳥たちが舞い、そして アンネの日記の一筋のナレーションが重なります。
「私はやっぱり信じています。こんな世の中だけど——人の心は本来は善だと」。 二年間、狭い室内の中に隠れて暮らさねばならなかった八人にとって、それはなんと皮肉な映像であったことでしょう。 このまさに希望と絶望が溶けあったラストは、そのまま「 アンネの日記」の感動の深さを語らずにはおきません。 そう、「 アンネの日記」は、人間への希望、生きることの喜びを謳いあげてやみません。 まるでそれは、絶望と悪意の濁流に浮かんだ小さなイカダです。 だが、その少女の息吹きを通して、生きることへの愛おしさが切々と伝わってくるのであり、それはなぜ、人間は絶望や悪意に打ち負かされてはいけないかを語るのです。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-05-17
才能のある姉と才能のない妹。完璧を求める母と、安らぎを求める父。
認められた妻と、認められない夫。
そこには様々な対立、複雑な人間関係がある。
そして、扱われているテーマは、死であり、美であり、才能であり、愛だ。
映画「アニー・ホール」を観た時、ウディ・アレンのセリフ「僕は、他の人達が苦しんでいるとき、一人だけ楽しむことはできないんだ—–」が、私の胸を刺した。
きっと、この人は、”真実の眼”を持っているに違いない—–その勘は当たっていた。
このウディ・アレン監督の映画「インテリア」において、彼の洞察力の鋭さ、真実を追い求める姿勢が、充分にうかがえる。
「一人のモーツァルトの影に百人のモーツァルトがいる」という言葉があるが、一人の才能のある、秀でた人間の側には、そのために苦しんだり、焦ったり、悩んだりする平凡な人間がたくさんいるのだ。 また、秀でた人間の側にも、真に理解してもらえないという、孤独感、苦しみがあるだろう。 しかし、いずれにしろ、人間というものは、たった一人で死んでいく運命にある。 そのとき、才能があるかないか、美しいか美しくないかなどということは、全く関係ないことだ。 あまりにも、近代的な自我が発達し、才能ある者への希求が強い現代において、もっとも単純で基本的なこのことが、案外、忘れられているのではないだろうか? ウディ・アレンが、例の語り口で、「結局、死ぬときは皆一緒さ—–」と言っているのが、聞こえてきそうな気がします。
- 評価
- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-05-17
個人の身の周りで起こる出来事は、時に国家の判断や世界情勢と深く関係しているものです。
この1980年代のアメリカン・コミックスを原作にした映画「ウォッチメン」は、一見無関係なマクロな状況とミクロな視点を融合させたエンターテインメント大作だ。
ヴェトナム戦争やジョン・F・ケネディ大統領暗殺、キューバ危機。20世紀のアメリカを揺るがし、震撼させた事件の陰に「ウォッチメン」と呼ばれる”監視者”たちがいた——。
だが、政府の命令で1977年に彼らの活動は禁止され、メンバーの中には一市民として日常を送るものもいた。
ニクソン大統領が政権を握り続けていた1985年のニューヨークでメンバーの一人、ブレイクが暗殺される。謎の男ロールシャッハが、科学実験で超人となったジョンや、事業を成功させて巨大な富を築いたエイドリアンら、かつてのメンバーを訪ね、事件の闇に迫っていく。
善と悪を絶対視せず、とことん暗いトーンでヒーローを描く手法は「ダークナイト」を連想させるが、構成はより複雑で、その世界観も壮大だ。
アフガニスタン情勢をめぐってアメリカとソ連の間の緊張は頂点に近づき、核戦争の恐怖が日増しに高まっていく。このように、予断を許さない政治サスペンスと、殺人事件をめぐるミステリーが並行し、時に交錯しながら進行していく。 超人が瞬時に空間移動するなど、フィクションであるのは明らかだが、安心しながら観ることはできない。”核の恐怖”と”敵国”に対する妄想に悩まされた時代の”空気”が実にリアルで、私の気持ちを不安にさせ、ストーリーに引きずり込むのだ。 宇宙や生命、倫理、アクション、ラブストーリーといった要素を詰め込みながらも、ザック・スナイダー監督は違和感なくまとめていると思う。 この映画は、21世紀の視覚効果が、20世紀の風景や衣装とこれまたうまく融合していて、私の感性を限りなく刺激するのだ。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-05-17
ドンファンは存在し得ぬ理想の恋人を求めて、次々に女を換え、カサノバは女たちの間をさすらいつつ、常に現在抱いている女を至上の恋人として愛する、と言う。
歌舞伎を思わせる凝りに凝った装飾の内に塗り込められたこの絵巻は、殊更に古めかしい「遍歴の物語」もしくは海の女神につながる巨鯨モーナの「胎内巡り譚」の装いで表現された、陽気な、優雅な、あるいは哀愁漂う、愛の諸相の集大成だ。
そして、この華麗な様式美の世界から、俳優の個性や演技をほとんど不要として、背景に溶け込ませてしまうフェデリコ・フェリーニ監督の映画では意外なほどに、鮮やかに浮かび上がって来るのが、カサノバという一人の男の、限りなく善良無垢な、愛に満ちた魂なのだ。
カサノバは山師であり、気障なお洒落屋であるが、一方、男尊女卑が一般であったこの時代に、ひたすら心を傾けて女を愛し、礼讃する、稀に見る本来の女人崇拝者だ。
しかし、それ故にこそ彼は、女たちのひととき憩う夢であり、永久に通り過ぎられる空白の四つ辻でしかない。
詩人として名を残すことを願いつつ、色事師としてのみ名高くなった彼の、その色事の多くは、女から求められたものであり、たまさか彼が求める女は、いつも傍らをすり抜けていった。 老残の果ての夢に、人形と踊る凄絶な彼の姿に、ある種の感慨を抱き、また加虐者としてのひそかな歓びと、同時にこのいじらしくも純粋な魂に対するたまらない愛しさを感じてしまう。 女を求め続けて、自らの虚無にしか到り得ぬ男は、女の側から常に秘められた願望であり、彼自身の哀しみに関わりなく、ここに一つの永遠の理想的な男性像が完成されているのだ。 フェリーニ監督本人にとってこの作品は、思い入れであるより、余りに手慣れた趣味の遊びであるようだが、イタリア古謡の哀切な節に包まれたカサノバの心にしみる優しさは、フェリーニ監督自身の風貌をも偲ばせて、女心を甘やかな懐かしさへと誘うのだ。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-05-17
この映画「カラーパープル」は、黒人女流作家アリス・ウォーカーのピュリッツァー賞を受賞した原作に忠実に、黒人女性セリーの40年にわたる”苛酷な生”を、美しい映像の中に描き出した、スティーヴン・スピルバーグ監督の名作です。
この映画の公開当時のスピルバーグ監督は、「ジョーズ」や「E・T」等の作品でエンターテインメント系作品のヒットメーカーでしたので、意外な感じで受け止められていました。
確かに彼の作品は、映画の楽しさに満ちていますが、現代文明に対する”鋭い風刺”があることを忘れてはいけないと思います。
それは理不尽な暴力や抑圧への嫌悪、戦いであり、この現実とは違った別の世界への夢想であり、人間の救済です。
この映画は、ある黒人姉妹の強い絆と不滅の愛で彩られた40年の歴史を、一大叙事詩として描きながら、人間が自分自身に目覚める、精神的な成長の道程を深く追求した、いつまでも心の奥に残り続ける作品です。
この映画での主人公セリーをみまうのも、理不尽な暴力です。 “父”の子を二人も産み、暴君としかいいようのない男と結婚させられ、召使のごとき人生を送るセリーに苦難をもたらすのは、白人による差別ではなく、横暴な黒人男性です。 苦しみの中から人間として目覚めていくセリー。 そして、セリーを初めとする黒人女性たちは男たちに反逆し、自立を獲得するのです。 この物語を、”白人で男”のスピルバーグ監督が作ったのです。 そこに浮かび上がるのは、人種とか性の違いを超越しうる人間の苦しみに対する、繊細な感受性であり、怒りであり、人間の善意への信頼なのです。 そして、その精神は、原作と映画の両方に通底しているのです。 もちろん、黒人の苦しみの底にある、白人による差別も告発されています。 特に、猛烈な女性ソフィアの、白人の市長をなぐって10年近い監獄暮らしになるというエピソードは鮮烈で、彼女をメイドにする市長夫人の偽善者ぶりも痛烈に批判されています。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-05-17
男(船越英二)は、テレビ局の腕利き社員だ。妻(山本富士子)は、小綺麗なレストランを経営している。
男には愛人が九人もいる。新劇女優(岸恵子)や印刷会社の社長(宮城まり子)やCMモデル(中村玉緒)や演出助手(岸田今日子)など、色とりどりの女たち。
優柔不断だが、こまめで愛想のよい男は、彼女たちの間を漂流している。
だが、互いの存在を知った女たちは、共謀してある計画を立てる。
こんなに私たちを苦しめる男など、この世から消えてもらってしまおう、というのがその結論だ。
まるでセバスチャン・ジャプリゾやパトリシア・ハイスミスのミステリ小説に出てきそうな設定だが、それもそのはず、市川崑監督と脚本の和田夏十の夫婦は、こういうプロットを練り上げ、多彩な技巧を駆使する 映画作りを得意としていたのだ。
その才気は、この「 黒い十人の女」でも著しい。
市川崑監督が得意とする、表現主義の光と影を思わせるハイコントラストの白黒 映画。 あるシーンと次のシーンが溶け合うような転換。 だが、私が特に魅了されたのは、この華麗な技巧の数々よりも、どこか異様で不敵なユーモア感覚を湛えた山本富士子の存在だ。 当時、”美人女優”のレッテルを貼られ続けてきたせいか、この女優のユーモア感覚は、意外に過小評価されていたと思う。 だが、彼女の芝居は観ていて、実に楽しいのだ。楽しいだけでなく、器量を忘れて役に入り込む捨て身の気配も感じられる。 この 映画を”才気の浮き上がり”から救ったのは、山本富士子の不敵な存在が放つ、黒い笑いだと思う。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-05-17
この映画が初めて劇場で公開された時、晩年の黒澤明監督の作品に違和感を持つ者として、黒澤明の残した脚本を、黒澤組の助監督が映像化する話には、最初、あまり興味と魅力を感じなかったものだ。
どうせ直球一辺倒で、正座して観なければならないような映画だろうと思ったからです。
しかし、観終わった時、それは予想に反し、心地よい方へと見事に裏切られましたね。
この映画は、「赤ひげ」など黒澤明が好んだ山本周五郎の原作だ。
江戸時代、剣の達人・三沢伊兵衛(寺尾聰)は不器用なために浪人暮らしを余儀なくされていた。
妻たよ(宮崎美子)と旅をする途中、大雨で足止めされた土地で領主(三船史郎)と出会い、仕官の話が持ち上がるが——-。
この映画を観て、夫婦は互いに信頼し合おうとか、他人を押しのけて出世するのはよそうとか、そんな薄っぺらなヒューマニズムを読み取ることも可能だとは思う。
しかしながら、この映画を深読みして観ると、これは何と言ってもウェルメイドのコメディーなんですね。
伊兵衛に試合を挑んだ威張り屋の領主が、転んで垣根の向こうに消えた直後、水しぶきの音が聞こえるという処理の仕方。 物静かなたよが、いつもの丁寧な口調で客人に暴言を吐く間合い。 真面目な演技をすればするほど、おかしみが生じる。特に、力みかえった三船史郎の演技には、素人の演技ながら何度も吹き出させられた。 無論、黒澤の名で足を運ぶ観客への目配せも怠りない。 冒頭の突き刺さるように降る豪雨。安宿で繰り広げられる歌と踊りのセッション。 そして、侍の首から噴き出す血など、ほとんど「椿三十郎」のパロディーかと思うほどのサービスぶりなのだ。 しかし、飄々とした演出で笑わせる小泉堯史監督のセンスは、明らかに黒澤明のものとは異なっていると思う。 大巨匠の縮小再生産の映画ではないかと思い込んでいた偏見を、大いに反省しましたね。 その上で、小泉堯史監督という新しい才能の登場を、心から喜びたい心境になりましたね。