映画感想・レビュー 112/2550ページ

大地のうた:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]

インドのある片田舎の貧しい一家の暮らしぶりを淡々と描いた、サタジット・レイ監督の「大地のうた」は、見事に結晶した”いのちの詩”とも言える素晴らしい作品です。

インドという異郷の風俗に目を見張りつつも、全く自分たちと変わらない人間の生き方を発見して、ある種の懐かしささえ感じてしまいます。

夢ばかり追って、生活力のない父、生活苦にイライラしながらも、家族への愛を失わない母、ブツブツ文句ばかり言っているお婆さん。

一方、幼い少年オプと、姉のドガは、大自然の中を飛び回ります。そんなある日、お婆さんが、老木が朽ち果てるように死んでいきます。それはまるで、大自然の中の当然の出来事のように、一つの命の終わりを描き、自然の非情さを表出します。

だがそれは、決して残酷な感じはありません。しかし、姉のドガの急な死は、そのあまりの若さ故に、人生の途中で断ち切られてしまったという感があり、死の無残さと、家族の悲しみが胸に迫ってきます。

人間と自然、そして命のかけがえのなさを描いて、この作品は素晴らしい普遍性を獲得したのだと思います。

間違えられた男:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

幼い頃から警察が大嫌いだったと言われるヒッチコック監督は、逮捕、取り調べ、留置、拘置といった、ありきたりの手順を、平板でいながら妙な執拗さを滲ませたタッチで撮っていく。

善良な羊を演じるヘンリー・フォンダの人相が、どこか邪悪で陰険な気配を放つのも、話の隈取りを濃くしていると思う。

さらに、随所で用いられるフェイドアウトの技法は、「——」で終わる文章のような効果をもたらす。

冒頭の宣言にもかかわらず、ヒッチコック監督は、快楽的な映画作家の本能をつい覗かせてしまったようだ。

間違えられた男:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

アルフレッド・ヒッチコック監督が、「実話に基づいた映画」を撮ったのは、この「間違えられた男」が、最初で最後だった。
そして彼が、自らカメオ出演しなかった作品も、この映画一本だけだ。

もっとも、映画の冒頭、彼は逆光の中にたたずみ、「これは、私の映画の中では異色の作品です」と観る者に語りかける。

ところが、この「間違えられた男」は、ドキュメンタリーよりも寓話の匂いを強く漂わせている。
黒白の簡潔な構図や、時間の直線的な処理は、ドキュメンタリー的なのだが、観終えるとなぜか、脂の乗った物語を聞かされたような後味が残る。

主人公は、ニューヨークのナイトクラブで働いている堅物のベース奏者マニー(ヘンリー・フォンダ)だ。
彼は、派手なクラブで黙々と演奏し、仕事が終わると毎朝、定刻に帰宅する。

そんなマーニーがある日、強盗犯に間違われて逮捕される。
顔や様子がそっくりという証言が相次いだからだ。

黒い罠:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-05-21

ーソン・ウェルズは、晩年よりもさらにお腹を膨らませた巨体で登場し、モンスター的な警官を楽しみながら悠々と演じていてさすがだ。
そして、彼の情婦役でマレーネ・ディートリッヒがゲスト出演しているのも、映画ファンとしては嬉しくなってしまいます。

黒い罠:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-05-21

アメリカとメキシコの国境近くの町で、富豪の車が爆破される事件が起き、それが麻薬事件に発展していく。

この事件の調査は、町を支配する警察官クインラン(オーソン・ウェルズ)とメキシコの麻薬捜査官バルガス(チャールトン・ヘストン)の見解の対立からもつれを見せはじめ、バルガスはクインランのでっち上げ捜査を見破るが、精神異常風なクインランはバルガスの妻(ジャネット・リー)を誘拐して殺人事件を偽装する。やがてバルガスはクインランの恐るべき正体を知ることになる。

犯罪映画をフィルム・ノワール(黒い映画)と呼ぶことがあるが、この映画「黒い罠」は、画面の暗さから物語のどす黒さまでがまさにフィルム・ノワールそのものだ。

この映画は、オーソン・ウェルズが監督・脚本・出演の三役をこなし、まさしく天才の本領を発揮した異色のサスペンス映画で、冒頭の長い、長い移動撮影は、後の多くの映画監督に影響を与えたことでも有名で、このラッセル・メティによる撮影がとにかく凝っていて、ワンショット、ワンショットがスタイリッシュで個性的で、その映像の新鮮さに酔わされてしまう。

水の中のナイフ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

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そして、夫と青年の心理的な葛藤が頂点に達し、夫は青年を海に突き落とします。
妻は夫を卑怯者と罵って、青年を助けようとします。
夫もさすがに後悔して警察に知らせに行こうとする。

その間に青年がひとりで無事にヨットに上がって来るのです。
妻は青年が泳げないと嘘を言っていたことをなじってぶつが、ただ、大人に八つ当たりするばかりじゃいつまでも子供だと言って、彼に自分の体を許すのだ。

そして、岸について青年を降ろしてやり、夫に対して、この青年に肌を与えたわと言う。
夫は、自分を助けようと思って嘘を言うのだろうと言って、信じようともしない。
いや、信じたくないのだ——-。

このヨットの上での一日の出来事の中で、映画の冒頭で提示された三人三様の心のもつれが、徐々に救いようもない根深い葛藤の様相を、散らつかせてくる”心理的な緊張感”が、この映画の最大の見せ場になっているのだ。

そして、この心のもつれの中には、恐らく、三つの要素があるように思う。
まず、夫と妻の間の微妙な”不信感”だ。

水の中のナイフ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

この映画の冒頭のシーンは、三人がそれぞれに心の中に持っている鬱屈した感情が、ズバリと表現されている、実に印象的なシーンだと思います。

妻にとっては、夫の嫌味なエゴイストぶりは決して愉しいものではなさそうで、どうせこういう人だから仕方がないというような、なかば諦めの気持ちが、彼女の無愛想な無表情を包んでいるのだ。

夫にしてみれば、妻がそういうふうに自分を密かに軽蔑していることは百も承知で、だからこそ、いっそう虚栄をはってイライラしているという感じなのだ。

これに対して、青年は金持ちの傲慢さに腹が立ってしょうがないので、妙につっかかるような口の利き方をするのだが、妻はこの子、面白い子ね、みたいな顔をするのが、夫にとってはまた微妙にカンにさわるのだが、俺はこんな若僧のことなど何とも思っていないぞ、という気持ちを誇示するために、青年をヨットに同乗させてしまうことになるのだ——-。

映画はその後、ヨットの上での三者三様の思惑を心の底に秘めながら、壮絶な心理戦が展開していくことになるのです。

水の中のナイフ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

このポーランド映画「水の中のナイフ」は、鬼才ロマン・ポランスキー監督の名を世界に知らしめた長編デビュー作だ。

裕福な生活を楽しむ中年の夫婦が、湖へバカンスに行く途中で、貧しげなヒッチハイクの青年を車に乗せたところから、この奇妙な物語は始まります。

このたった三人の登場人物を駆使して、一見、何事もないような平和な生活の底に淀んでいる頽廃を、水もしたたるような鮮やかな手法で、現代における世代間、階層間の埋めようもないギャップや断絶を描いた、心理劇の秀作だと思います。

スポーツ評論家だという中年の男とその妻が、ある日曜日に、高級車を飛ばして、ヨット遊びをするために湖へ急いでいる。

その途中、ヒッチ・ハイクの青年が車の前に立ち塞がるのだが、この時、この中年の男は、この生意気な小僧めと怒るが、妻はいいじゃない、乗せてやったらみたいな表情を見せ、青年はこの金持ちの中年男の傲慢さに強い反撥を感じながらも、うわべでは、どうせ住む世界が違うんだからみたいな顔をしているというように、三者三様の思惑を垣間見せながら、男はこの青年を乗せてやることにする。

霧の旗(1965):P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-05-21

松本清張原作の小説を映画化した、山田洋次監督の「霧の旗」は、山田洋次監督の演出の良さと、主演者の倍賞千恵子と滝沢修の力演が相まって、何度繰り返し観ても飽きない作品だ。

倍賞千恵子が、ヒロインの桐子に扮していて、桐子の兄が強盗殺人の犯人とされたが、無実を信じ、熊本から上京し、滝沢修扮する高名な大塚弁護士に、弁護を依頼しようとする。

しかし、大塚弁護士は、これを冷たく拒絶する。
弁護料の支払い能力がないという理由で——-。

その後、兄は獄死し、桐子は大塚弁護士への復讐を決意する。

倍賞千恵子は、「男はつらいよ」シリーズでの演技がそうであるように、こういう庶民の娘を演じると、抜群にうまい。

この「霧の旗」では、復讐という意志力を必要とする役柄なのだが、それも、冷たい表情で完璧にこなしている。

人類資金:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★☆☆☆
投稿日
2024-05-21

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クライマックスでは、カペラの国連での支持を取り付けようと、国連会議場で一大演説をする、というもの。
観ていて、正直、がっかりしてしまった。

予告編を観た時、森山未來が、何やら手に機械を持って宣言しているカットが出てきたので「国連会議場を爆破する。起爆装置はここにある」とでも言っていると思っていたのだ。そういう画的的なものがないと、映画として全く面白くない。

もともと福井晴敏作品は、「現在の体制をどこかの時点でぶっ壊して、日本を、世界を作り替える!!」と狂信的なテロリストがいて、そうはさせないと戦う主人公、というパターンが多い。
だから、てっきり、そうなるだろうと思い込んでいたのだ。

結局、資本主義をぶち壊すのではなく、発展途上国の人々を教育しましょう、というのが福井晴敏の答えなのか。

あと、香取慎吾が素人の学芸会的な演技で、全くダメダメ。
それに、全く役に似合わず、ミスキャストとしか言いようがない。
森山未來は、国連での長い英語のセリフもこなし、これはなかなか良かったと思う。

人類資金:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★☆☆☆
投稿日
2024-05-21

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しかし、日本の復興に役立てるはずのM資金が、いつしか単なるマネーゲームの元手に成り下がり、世界には携帯は50億台も契約されているのに、7割の人が電話をかけたこともないという格差を、何とかしたいという気持ちから動いた人々。

それで、M資金をサイバー攻撃で移動させようとしたのだが、失敗。そして遂に、詐欺をしようということになった。
ロシアでオダギリ・ジョーを相手に一芝居。
ここが前半の見せ場な筈だが、わりとあっさり成功して終わる。まあ、昔のと違って今は全てオンライン上のやりとりだから、お金というブツが動くわけではなく、映画としてはやりにくいだろう。
香取慎吾が首謀者で、実は笹倉の息子。
カペラ共和国という、アジアの発展途上国と出会い、その国を救おうと国民の教育の為にPDAを配る。
いや貧富の差をなくすために、国民の教育が大事というのは解るが、PDAを配っただけで変わるのだろうか?

人類資金:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★☆☆☆
投稿日
2024-05-21

この映画「人類資金」は、「ローレライ」「亡国のイージス」の福井晴敏原作。
といっても原作が先にあるのではなく、「亡国のイージス」で組んだ阪本順治監督が「M資金を題材にした映画を作りたいので、一緒にやりましょう」という訳で原作を書いたもののようだ。

私自身が、最近の金融というものに疑問を感じていて、当初は「お金のある人が技術や知恵はあるけど、お金のない人に資金を提供して経済や技術、サービスを発展させていく」という場である筈だった金融や株式というものが、そういう理想からはかけ離れ、金だけが動き、それに直接関係ない人間までも振り回される現実となっている。
だからそれに対して、福井晴敏がどう答えを出したかに興味があったが、結果は全くの期待はずれだった。

真舟に誘いをかけて来たのは、言ってみればM資金管理団体の反乱軍。
理事長の笹倉の父は、初代のM資金の管理者。

女と男のいる舗道:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

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挿入されている音楽も効果的で、芸術的、かつフランス映画の素晴らしさを感じさせてくれる。

特にナナが、カフェで一人の老人と話すシーンは、哲学的で、強く印象に残る。

いつも明るくふるまっているナナだが、時折、ふっと”孤独な影”を見せることがある。
どこか刹那的で、それでいて優しさを感じさせるナナを、アンナ・カリーナは実に繊細に演じていると思う。

ラスト・シーン、ナナはヒモの男とヤクザとのいざこざに巻き込まれ、拳銃の弾を浴びて、路上につんのめって死ぬ。
ナナの若くて白い肉体に、めり込んでいく銃弾が見えるようで悲しい——-。

女と男のいる舗道:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

この映画「女と男のいる舗道」は、ジャン=リュック・ゴダール監督の傑作の一本だと言えると思う。

あるいは、この監督の一番いい部分の出ている映画だと言えるかもしれない。
もうひとつ言えば、なんとなく解るような映画だ。

じっと観て、セリフを聞いていると、まるで詩を聞いているような気分になる。
そして、アンナ・カリーナの私娼ぶりが、とても可愛い。

映画の冒頭、いくつかの受賞名が出たあと、「B級映画に捧ぐ」といった言葉が出る。
全体が12章に分けられていて、第1章は、アンナ・カリーナ扮するナナが、夫と別れるくだりから始まる。
第2章では、自立してレコード店で働くナナだが、やがて、私娼としてパリの舗道に立つようになる。

モノクロームのパリの風景が、ドキュメンタリー・タッチで映し出され、セリフには詩のような比喩と間合いとが含まれている。

マンディンゴ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

とにかく、この映画はアメリカ史の恥部と言われる、黒人奴隷たちの受難の様をショッキングな映像と共に描いていくわけですが、彼ら黒人たちは、もちろん人間として扱われることはなく、ローマの剣闘士さながらの闘う奴隷であり、性的な玩具であり、農作機械であり、果ては主人の足の神経痛治療のための人間アンカであったりしたのです。
残酷な見世物的なシーンの連続で、アメリカ南部の黒人奴隷制度の悪を告発するというより、残酷が興味本位に流れ過ぎているという感がなきにしもあらずですが、これは考えてみると、映画というものの、自己の犯した悪さえも、一種の見世物にしてしまうという、商業主義的なたくましさのなせるワザなのかも知れません。
そして、この事は製作者がアメリカ人ではなく、イタリア出身の大プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスであった、という事と関係しているのかも知れません。
マンディンゴという”良質”な黒人奴隷種で、賭け闘技の戦士になる若者を、元ボクシング、ヘビー級チャンピオンのケン・ノートンが演じていますが、彼の屈強な肉体が、奴隷たちの”不屈の魂”といったものの存在感を見せているのだと思います。

マンディンゴ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

“アメリカ南部の奴隷制度に潜む、階級社会と人間、その文化的な歪みを描いた問題作「マンディンゴ」”

このリチャード・フライシャー監督の「マンディンゴ」は、アメリカ最大のタブーである、アメリカ南部の奴隷制度の闇へ切り込んだ、衝撃の問題作だ。

“もうひとつの風と共に去りぬ”と、公開当時の宣伝文句で言われていたように、あの映画史に燦然と輝く、不朽の名作「風と共に去りぬ」の裏側に隠された、アメリカ最大のタブーである、アメリカ南部の奴隷制度の実態を暴いた作品だ。

1808年の奴隷輸入禁止令により、黒人奴隷を牧場で飼育して、売買し始めたアメリカ南部。
その中の、ある一家を舞台にして斜陽化する白人と、権利に目覚める黒人階級の葛藤、人種を超えた男と女の愛や憎しみなどを、これでもか、これでもかという刺激的な場面の連続の中に描き出していくのです。

おしゃれ泥棒:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

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この映画のお話は、そのプロが作ったチェリーニの彫刻”ヴィーナス像”を美術展に出品したまではよかったが、贋作がバレそうになったので、娘のオードリーが恋人のピーター・オトゥールの手を借りて、この”ヴィーナス像”を盗み出すというロマンティック・コメディで、自分で作った物を自分で盗み出すというところがミソなのですが、この盗みのテクニックは例えばジュールス・ダッシン監督の盗みのプロを描いた傑作「トプカピ」に比べると少々あっけなく、物足りなさを感じます。

それと当時、オードリーは流産をした後だったらしく、やや精彩がなく、オードリーの一ファンとして、正直なところ、”永遠の妖精”オードリーも37歳になって、少し年齢を感じさせるようになって寂しい気持ちがしましたが、しかし、ベッドの中でヒッチコック・マガジンか何か読んでいるところは、相変わらずお茶目でよかったと思います。

また、共演のピーター・オトゥールもいつもの芝居くささを封印して、軽快で肩の力を抜いたコミカルな演技に徹していて、さすがに名優は何を演じさせてもうまいなと感心させられました。

おしゃれ泥棒:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

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彼はパリの邸宅の一家でセザンヌやゴッホの偽物を描きあげ、世の中の”美術愛好家”を見事にだまして楽しむという、悪人なのに憎めないし、彼自身、それなりに超一流の芸術家でプライドも持っていて、娘のオードリー・ヘップバーンに、「パパったらそんな事ばかりしてはだめよ」と怒られると、彼は憤然としてこんな名セリフを吐くのです。

「俺はゴッホより遥かに苦労してゴッホの絵を描いてるんだぞ!」とか「ゴッホは生涯に1枚しか絵を売らなかったが、俺はもう2枚もゴッホの絵を売った」と——-。

この贋作画家はセザンヌの”ネモアギスの肖像”という絵を贋作して成功しますが、これは実は、贋作作家としては超一流の腕前を示しているのです。
なぜならば、私の大好きなミステリー作家ギャビン・ライアルの「拳銃を持つヴィーナス」の中に、ユトリロやピカソは目録が不備なので、例え贋作が登場しても簡単に見破れない可能性があるが、セザンヌは目録が完璧に出来上がっているので、”セザンヌを贋作するやつなんていない”からなのです。

おしゃれ泥棒:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

“永遠の妖精・オードリー・ヘップバーンが名優ピーター・オトゥールを共演に迎え、名匠ウィリアム・ワイラー監督と3度目のコンビを組んだロマンティック・コメディ「おしゃれ泥棒」”

この映画「おしゃれ泥棒」は、主演のオードリー・ヘップバーンとウィリアム・ワイラー監督が「ローマの休日」「噂の二人」に続いて3度目のコンビを組んだ、ロマンティック・コメディで相手役に「アラビアのロレンス」のピーター・オトゥールを迎えての作品です。

贋作をテーマにしたオーソン・ウェルズの「フェイク」という映画には、いとも簡単にモジリアニやマチスやピカソの偽物名画を描きあげてしまう実在の贋作画家エルミア・ド・ホーリーが実に魅力的に描かれていましたが、この「おしゃれ泥棒」でも、一番愉快なのはヒュー・グリフィス扮する贋作画家です。

マクベス(1971):P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-05-21

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シェークスピアの舞台では、この下の王子は、ドラマの途中でアイルランドへ行ったことになって、姿を現わさないのですが、ポランスキーのこの作品では、この王子がマクベスと同じ道を辿ることを暗示して終わるんですね。

これは、深読みしてみると、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」と全く同じなんですね。
黒澤明監督の「蜘蛛巣城」が1957年。ポランスキー監督の「マクベス」が1971年。
ポランスキー監督が、黒澤明監督の影響を受けていなかったとは言いきれないと思います。

そして、さらに深く見つめるならば、あの下の方の王子は、身体が不自由ですね。
何となく時代の流れからいって、あの王子はやがてリチャード三世になるのではないか、なんてことも想像できるわけですね。

最終更新日:2025-03-15 16:00:02

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