ペコロスの母に会いに行く:P.N.「pinewood」さんからの投稿
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-12
昨晩と今朝NHKラジオ深夜便で連続でアンコールされたのは本篇原作者の岡野雄一,長崎から来て東京渋谷のNHKスタジオでの収録,岩松了のファンで母親役も気に入り自分も出演したエピソード,母に会いに行く事も又介護だと云うこと,描くこと,認知症の母への愛が滲み出る作画のユーモア,バンドで長崎弁で歌うロックンロール
昨晩と今朝NHKラジオ深夜便で連続でアンコールされたのは本篇原作者の岡野雄一,長崎から来て東京渋谷のNHKスタジオでの収録,岩松了のファンで母親役も気に入り自分も出演したエピソード,母に会いに行く事も又介護だと云うこと,描くこと,認知症の母への愛が滲み出る作画のユーモア,バンドで長崎弁で歌うロックンロール
昨晩のNHKのラジオ番組で脚本家の岡田惠和と国仲涼子の対談を聴いた。ヒット朝ドラのちゅらさんコンビ,其の中でドラマ共演の田中好子の話も出て来た。また沖縄出身のトークの中で戦争を語り継ぐことの困難さにも触れた。とても言葉では言い尽くせない傷痕が国仲の祖母にも在ったことを
正直な感想
ストーリーは幼稚でやりたいシナリオの為に都合よく動いている印象が強かった
だがSEEDで育った世代、ロボットファンへのファンサービスは最高評価をあげたいと感じた作品
終盤の盛り上がりの為に全てが設計されている為視聴後の満足感は高かったが前半の「闇へ落ちろ~」とかは都合が良すぎてもやもやしたw
ガンダムに興味が無い、ロボットに興味が無い層は見る価値が無いがガンダム、ロボット好きは見て損は無いかと
🐎またグスタボ・メルカード著・レンズの言語は黒澤明監督の本篇にも触れ,秩序と云う項目の中で望遠レンズの使用例にも言及し絵画的シーンでの階級身分と秩序にも
そしてグスタボ・メルカード著レンズの言語には本篇の撮影ジェフ・クローネンフェスの撮影術の効果を心理的にも解明かす。スーパーマーケット,アパート,顧客の家での主人公の感情変化と画面作りの工夫について等其のフィルムメイカーの眼差しが
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最初のゴジラに対する記念作品としては良作と感じた。
物凄く個人的な感想になりますが、私はゴジラシリーズでは「ゴジラVSデストロイア」が好きなのでこの映画は好みには合いませんでした(笑)
ゴジラのデザインはハリウッド寄りで、人間に対する圧倒的な恐怖としてのゴジラ!
ヒューマンドラマと映像美を主に楽しむ形で怪獣映画としてのエンタメ性は低いのでご注意!(笑)
とにかく長い!2時間30分は流石にない。ローダーオブザリング見てる感覚で映画館の途中退屈になる。はやく終わらないかな~ってさ。友達はもう一回見たいって言ってたけど多分合わないんだろうな笑笑
良かった点は主人公の幼少期の子役がかわいい。
悪い点は悪役のクリス・ヘムズワースを勿体ぶりながら最終的にドSな結末ちょっと、、、
早く楽にさせてやれよ!って
ホントに長かった
もう見ない。
そんなに長くするなら2部作で作ればいいじゃん。
腹立つわ笑
みんな、様々なアングルで、人生を見ている。
同じ状況、景色を見ても、改めて感想を聞くと違いがあるだろう?
写真に、これ程人間が引かれるのは、アングルにより違いがあり、レンズを通して体感できるワクワク感、喜びがあるからだろう?
シャッターを切るネガに個性がでる様に、ネガを焼くその作業にも個性がでる。
誰かのネガを他人が焼いたら、違う仕上がりになる。
(高校の部活を思い出しました。自分も写真が好きだったなあなんて記憶がよみがえって来ました。)
なぜなら、喜びとは、光をどう言うアングルで捉えたかだからだ。
作品は、喜びのアングルとは、を教えてくれる。
コミックが原作なので、構成はできているので、何となくそんな風な仕上がりだと感じるだろう?
若手を全面より、様々世代の共演で、より、ストーリーに深味が増します。
監督の前作も鑑賞していました。今回は、映画らしい作品でよかったと思います。
📷ラジオで下北沢の話題が出た時に何故か想出されたホン・サンス監督の映画・自由が丘でだった。主演加瀬亮は東京工芸大の映画イベントの際に登壇,guest出演し
NHKラジオ深夜便明日への言葉は本篇出演の評論家・樋口恵子,夢と希望を持って生涯現役生活を生きる姿勢,本タイトル宜しく何ものにも恐れず其処には果敢な精神が
CGとVFXは違います。
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この映画「真昼の死闘」は、主演のクリント・イーストウッドがイタリアで「荒野の用心棒」などで大ブレイク後、アメリカ映画界に凱旋帰国後の作品で、マカロニ・ウエスタンの時みたいな髭づらで登場するが、さすがにアメリカ映画だから泥臭くない。
まず岩陰の凹地で、シャーリー・マクレーンが、三人の無法者に丸ハダカにされている光景を悠然と楽しんでいたイーストウッドが、やおら拳銃をぶっぱなし、さらにダイナマイトに口火をつけて脅かした上で、あっという間に片づけてしまう。
そして、シャーリーに服を着ろと言うと、なんとこれがアマさんのいでたちなのだ。
映画を数多く観てきた者なら、シャーリーが尼僧なんて眉唾だと思うだろう。
ドン・シーゲル監督もその点を心得ていて、二人で旅するうちにイーストウッドが彼女に好意を持ってくるが、尼さんだと思うがゆえに、手が出せないというおかしみや、彼女が隠れて煙草を吸ったり、たびたび尻尾を出しそうになる場面を織り込んで、興味をつないでいくところは、さすがにドン・シーゲル監督うまい。
そして、もうひとつの興味は、各場面の芸のこまかさにあるんですね。 革命時代のメキシコで、威張っているフランス守備隊をやっつけ、大金をいただこうというイーストウッドが、スパイ行為でフランス側に追われるシャーリーと、数々の冒険を経てゲリラと合流し、敵の本拠の村を襲撃、大金も手に入れて、実は娼婦だったシャーリーとめでたく旅に出る。 この冒険の途中で、退治したガラガラ蛇を利用してフランス兵の眼をそらしたり、イーストウッドがインディアンに射込まれた矢を抜いたりする場面などを、こまかく丁寧に描写することで、面白さを出していると思う。 だから、ゲリラと一緒に村を攻撃するクライマックスが、かえってありふれた感じでつまらなくなったのが、ちょっと残念な気がしましたね。 それにしても、シャーリーが真っ赤なゴテゴテ衣裳になる最終のお笑いなど、やはり、役者としてはシャーリーの方がイーストウッドより一枚も二枚も上手ですね。
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「アルカトラズからの脱出」を監督したドン・シーゲルは、この映画を撮る25年前に、実際にアルカトラズ刑務所を取材したそうだ。
もちろん、この映画のためではない。その頃、彼は「第十一号監房の暴動」という映画を撮っていたからだ。
サンクエンティンやフォルサムといった悪名高い刑務所も同じ時期に訪れ、なんとも憂鬱な気分にさせられたらしい。
この「アルカトラズからの脱出」は、1960年に起こった実際の事件を下敷きにしている。
当時、この島からの脱出は不可能とされていた。
警備が厳しく、海流が速く、水温が低いという三条件が揃っていたからだ。
その刑務所に、クリント・イーストウッド扮するフランク・モリスという犯罪者が移送されてくる。
ドン・シーゲル監督は例によって、彼の素性や背後関係を明かさない。
モリスが脱獄の名人であり、それだからこそ、この島へ送られてきたという事実にのみ照明を当てる。
あとは刑務所内部の描写だ。果たして、どんな囚人がいるのか? パトリック・マクグーハン扮する所長は、どんな性格なのか? 刑務所はどうやって囚人の人格を破壊するのか? 道具の調達はどうやって行なうのか? ドン・シーゲル監督は、実に無駄なく、こうした細部を語っていく。 その語りに従えば、観ている私はモリスの内部に導かれるのだ。 と言うより、モリスとともに脱獄のプランを真剣に練り始めるのだ。 誰を味方につけるか。時期はいつを選ぶか。監視の目はどう欺くか。 相棒選びだけは、やや説得力を欠くが、他は文句なしに渋い。 ドン・シーゲル監督とクリント・イーストウッドの名コンビは、この作品が最後となったが、隠れた佳作だと思いますね。
この映画「マンハッタン無宿」は、クリント・イーストウッドとドン・シーゲル監督が初めてコンビを組み、後のダーティハリー・シリーズのきっかけとなった、記念すべき作品ですね。
この映画「マンハッタン無宿」は、アリゾナで人を殺しニューヨークで逮捕された男を引き取るため、生まれて初めて大都会ニューヨークを訪れたアリゾナの田舎の保安官補クーガン(クリント・イーストウッド)は、複雑な警察機構に業を煮やし、独断で病院へ乗り込み、LSD中毒で入院中の犯人を強引に連行してしまいます。
しかし、空港で犯人の仲間に襲われ彼を奪取されて、クーガンの怒りが爆発。
アリゾナの荒野を駆ける勢いそのままに足で、オートバイで、摩天楼の街を駆け巡り、遂に犯人を逮捕するのです。
このアリゾナの田舎の保安官補クーガンは、アリゾナでは腕利きだが、ニューヨークでは単なるおのぼりさんにすぎず、茶色のスーツを着て、テンガロン・ハットをかぶり、ブーツを履いた野暮なウエスタン・スタイルは、市民たちから好奇の目で見られます。
中には、露骨にからかう者もいて、彼らは口を揃えて「テキサスか?」と尋ねます。 すると、そのたびにクーガンはうんざりしたような顔で「アリゾナだ」と応えるという、このシーンには思わずニヤリとしてしまいます。 とにかく、このクーガン、からかわれても、馬鹿にされても、眉ひとつ動かさず、平然とアリゾナの荒野で犯人を追い詰めた時と同じやり方で、黙々と自分流の捜査を推し進めて行くのです。 そして、犯人を護送の途中、不覚にも逃げられたという屈辱に耐える事は、西部男の誇りが許さないのか、ニューヨーク市警の警部(リー・J・コッブ)に、「ここでは君はひとりの市民にすぎないのだ。さっさと、OK牧場へ帰れ」と、冷やかし半分の言葉を投げられても、彼は頑として受付けず、あくまでも、たったひとりで勝手知らないニューヨークの街を歩き回って、犯人の行方を追いかけるのです。 それは、警官としての職業意識とも言えるし、犯罪者への怒りとも言えるかも知れません。
ヴィム・ヴェンダースさんにとっては「ベルリン・天使の詩」の、役所広司さんにとっては「うなぎ」のリメイクのような映画。
ただ本作では、天使というファンタジーも、妻の浮気・妻の殺害というサスペンスも用いていない。簡素なルーティンの中で生きる無口な人を描くこと・演じることで、むしろ人間の心がダイナミックに動く・動いている様(move)を、より高い純度で表現されている。至極の映画(perfect movie)。
心の動きに真摯に向き合って生きることの尊さを、省みさせていただいた。
怒りのデスロードとの辻褄が合ってないと言われてる方々がおられます~その通り合わないのです~今回のフィリオサの物語はヒストリーマンが語る神話であって怒りのデスロードの前日談ではないのでしょう~配役からシャ―リィーズ.セロンとアニャ.テイラー=ジョィではどちらとも美しいですが体格が違います~ヒストリーマンの語るフィリオサはアニャなのです~怒りのデスロードのフィリオサは、シャ―リィ-ズ.セロンなのです!~~~余談ですがフィリオサの母親は殺される前にレイプされてます~ヒストリーマンが語らないだけです!
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"戦時下で宿命的な悲しい恋に落ちた、二人の男女を繊細なタッチで描いたフランス映画の佳作「離愁」"
この映画「離愁」は、「帰らざる夜明け」のピエール・グラニエ・ドフェール監督が、メグレ警視シリーズで有名なジョルジュ・シムノンが、1961年に発表した「列車」を映画化した作品で、主演は「Z」「暗殺の森」のジャン=ルイ・トランティニャンと「追想」「夕なぎ」のロミー・シュナイダー。
第二次世界大戦下、フランス北部の田舎の人々は、ドイツ軍の侵攻を恐れて、疎開列車で故郷を去らねばなりませんでした。
村人たちと共に列車に乗った、中年のラジオの修理工のジュリアンとその家族。
女や子供たちは客車へ、男たちは貨車へ。
列車の行く先々で避難民が乗り込み、ジュリアンの車輌に、アンナというドイツ生まれの謎のユダヤ人女性が乗って来ます。
身動き出来ない貨車の中で男と女は、道ならぬ恋と知りつつ愛情を深めていきます。
やがて、引き離される運命の時が来て--------。
このように、第二次世界大戦下、戦火を逃れるために乗り合わせた疎開列車の中で、明日の命もわからぬジュリアンとアンナが、刹那的な焦燥感にかられて、"生きずりの恋"に陥るという、戦時下の宿命的な悲しい恋を綴った痛ましいドラマを、ドフェール監督は、カメラのほとんどを列車内に置きながら、我々観る者を飽きさせる事なく、繊細なタッチで描写し、緊張感みなぎる映像で見せてくれます。 そして、この映画のラストで、最高潮に達するドフェールの見事な演出。 数年後、レジスタンスの一員として捕らえられたアンナと、秘密警察に呼び出されたジュリアンがまたしても、運命的な再会を果たします。 そこで、ジュリアンは、自己の保身のために、アンナを知らないと言い切るつもりが、全てを忘れて彼女を抱きしめてしまうのです。
ジャン=ルイ・トランティニャンとロミー・シュナイダーという、二人の名優の演技が、感動的とも言える鮮やかな幕切れとなって、我々の心の琴線を震わせるのです。 現在、観る機会が少なくなって来た、繊細で、しっとりとした情感溢れるタッチの、古き良きフランス映画を観る幸福感を味わえる佳作だと思います。
友人はかなりの映画好きで、映画ネタを熱く語ります。
ファブリツィオは、それほど映画通ではないので、半分上の空で聞いているのですが、映画好きな友人は熱心に「ハンフリー・ボガートとローレン・バコールの『三つ数えろ』はどうたらこうたら」とか「アンナ・カリーナがどうたらこうたら」などと喋りまくるのです。
私は、この映画ネタシーンを何度も巻き戻しては、繰り返し観てしまいました。
ベルトルッチ監督の原点が、ゴダール監督であることがミエミエで非常に興味深かったですね。
このファブリツィオには婚約者がいて、彼は、結婚直前に他の街からやってくる叔母であるジーナと火遊びのような恋をしてしまうのですが、二人のベッドシーンが実に官能的なのです。
この見せ方は、見事としか言いようがありません。
この時代、ハリウッドにはヘイズコードがありましたが、イタリアにはなかったんですね。
とにかく、私に戦慄を与え、刺激してやまないこの映画は、即興風の演出、本の朗読や引用が多用され、ヌーヴェル・ヴァーグの影響が随所に現われ、ブルジョワ青年の苦悩を抒情的に描いた青春映画の忘れられない名作となったのです。
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この映画「革命前夜」は、いろんな意味で、物凄い衝撃を受けた作品です。
今では巨匠と呼ばれているベルナルド・ベルトルッチ監督が、22歳の時に撮った長編第2作で、1960年代の地方ブルジョワの精神状況を、みずみずしいタッチで描いた半自伝的な作品なのです。
この映画は1964年の作品ですが、今観ても少しも古くささを感じさせない斬新なカメラワーク、卓越した脚本、そして主演の二人の素晴らしいこと。
音楽はエンニオ・モリコーネで、切なくて美しいメロディの音楽が映像とぴったりと合っていて、胸を揺さぶります。
モノクロなのですが、映像そのものが、どのシーンもとても色っぽいのです。
それは、セクシーという意味ではなく、艶やかと言ったほうがいいのかもしれません。
地方都市パルマのブルジョワ出身の青年ファブリツィオは、コミュニストであることを自認している。
しかし、同じ年頃の友人アゴスティーノの死や、若い叔母との近親相姦的な恋愛を経験して、次第に自分の思想の欺瞞性に思い悩むようになるのです。
結局、ファブリツィオは、自分がブルジョワの一員であることを受け入れ、ブルジョワの婚約者と結婚することになるのです。 この映画でいちばん絶賛したいのは、ズバリ、脚本です。 思わず書きとめたくなるような詩的で印象的なセリフが、全編に散りばめられているのです。 例えば、主人公のファブリツィオ(フランチェスコ・バリッリ)が、恋をする相手であり叔母さんであるジーナ(アドリアーナ・アスティ)が、「あなたは私の倦怠の治療薬」などと言うのです。ドキッとするセリフもあるし、なるほどなとうなずいてしまうセリフもあるし、本当に魅力にあふれています。 そして、映画の中盤あたりで、ファブリツィオとその友人が、ジャン・リュック・ゴダール監督の「女は女である」という映画を観て、映画館から出てきて、喫茶店でお茶を飲むシーンがあります。
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この映画「高校教師」は、陰鬱で、言いようもなく、暗い炎が燃え盛る愛のドラマだ。
なんという苦さ、なんという虚無感だろう。
この映画は、イタリアの叙情派のヴァレリオ・ズルリーニ監督の、いわば"心情的"な自伝映画なのだと思う。
イタリアのリミニの町へ、高校の臨時教師としてやって来た、37歳のダニエレ・ドミニチ(アラン・ドロン)は、成熟した19歳の美しい女生徒ヴァニーナ(ソニア・ペトローヴァ)を、本当に愛したのだろうか。
寡黙で拒否的な、謎めいたこの教え子に「君の痛みや、どうにもならない憂鬱を見ていられないんだ」と近づく彼の、それは恋慕というより"自己愛"ではなかったのか。
彼が生徒の前で口にする、イタリアの詩人や文豪、ペトラルカやマンゾーニやレオパルディの作品には、たとえ恋の憧れを謳おうとも、"厭世の影"が色濃く漂うのだ。
そして、その翳りは、そのままダニエレのものなのだ。
暗い暗い絶望感でもあるのだ。
かつて従妹の少女リビアを、初恋の16歳で自殺に追いやってしまった彼は、その青春の打撃を、悔恨を、罪の意識を、今も引きずるかのように見える。 だがその背後に、いや底に深く根差すのは、彼の名門の家系なのだ。 エル・アラメインの英雄として戦死した大佐の亡父と、ラストの葬儀に凝然と凍り付く横顔を見せる母、そして彼が学んだ神学も含めて、全て偽善と虚偽の権勢による重圧への、反抗と憎悪の果ての絶望こそが、今のダニエレ・ドミニチを無限の虚無感に沈ませるのだと思う。 遠い日、彼が亡き少女リビアに捧げたという詩集「静寂の最初の夜」は、むしろ彼の"若気の至り"ではなかったのか。 "死こそ静けさの初めての夜-----"と謳った、あの若気の情熱への追慕を、今ダニエレは、美しい教え子ヴァニーナの上に重ねるのだ。 金髪のなまめいた女装の男が「彼女は危険よ。たくさんの過去と、少しの現在と、未来はゼロの女よ」と囁いた、ヴァニーナの上に。 彼の中で燃え盛る暗い情熱の炎は、死への志向だ。
彼はヴァニーナを、"愛"ではなく"死"への道連れに選びとりながら、だがなお彼は、自ら死に踏み切れず、自動車事故という形で「静寂の最初の夜」を勝ち取るのだ。 そして、ダニエレと妻モニカ(レア・マッサリ)、かつて人の妻であった彼女と、彼女を盗んだ彼とは、互いの傷口を指でえぐりあうようにして、"罪の共犯意識"を嗜虐的に確かめ合う。 自分を淫らに貶めることで、逆にダニエレの愛をモニカは求めるのだけれど、彼にはもはや愛はなくなっているのだ。 いや、最初から愛はなかったのかも知れない。 ヴァニーナが、実は"娼婦"であったことは、観ている者にとって大したショックではない。 むしろショックは、これほど気分を出して官能場面を描きながら、その実、ズルリーニ監督は、本当に"愛をこめて"女を描いてはいないことだ。 夏の時期以外は、パタリと寂れてしまうこのアドリア海に面した北イタリアの海水浴の町リミニ。 シーザーが「ルビコンを渡った」そのルビコンの"小川"を少し北に持つ、閉鎖的な救いがたいリミニの町の、荒涼たる冬の風景に、トランペットとサックスのけだるく哀切な響きが高鳴っていく。
この映画は、かつて女を恋した、あるいは愛そうとした情熱も、今は"失われた幻想"となったズルリーニ監督の、これはエゴイスティックな男の映画なのだと思う。