映画感想・レビュー 97/2564ページ

007は二度死ぬ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-28

ボンドが空を飛び、トヨタ2000GTが走り回る「奇妙な日本」は、一度も存在したことはないのに不思議な懐かしさすら感じさせます。

そして、ナンシー・シナトラの歌う同名の主題歌は、美しい旋律と意味深で不吉な歌詞になっていますね。

007は二度死ぬ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-28

丹波哲郎扮するタイガー田中の基地が丸の内線の中野新橋駅だろうと、相撲部屋の外が国技館だろうと、東京から神戸まで車で20分ぐらいだろうと、姫路城に忍者がいようと、瀬戸内海に阿蘇山があろうと、細かいことはどうでもいいのだ。

偽装したカルデラ湖の裏側に巨大な火山型ロケット発射基地がドーンとあり、どうだ、これが007だ!!という大迫力の前には小ネタの笑いなど吹っ飛んでしまいます。

007映画なのに、なぜだか日本の東宝映画の匂いがして、今にもキングギドラでも飛んできそうな雰囲気だ(笑)。

日本人キャストの中で、唯一、英語が堪能だと言われていた丹波哲郎(実際は違うらしい。その証拠に後年、シドニー・ポラック監督の「ザ・ヤクザ」のオファーを受けたものの、あまりの英語の長ゼリフに怖れをなして、出演を断ったという逸話があります)は、若林映子や浜美枝らの取りまとめ役に回っていたそうだ。

007は二度死ぬ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★☆☆
投稿日
2024-06-28

この”007シリーズ”5作目の映画「007は二度死ぬ」は、原題が「You only live twice」と言って、イアン・フレミングの原作で、主人公のジェームズ・ボンドが松尾芭蕉の俳句に因んで詠んだ短い詩が元になっています。

意味は「人生を実感できるのは二度だけ。生まれたときと死ぬときと」。
元々の松尾芭蕉の句は、「命二つ生きたる桜かな」。

死と美学が隣り合わせにある日本人の死生観にイアン・フレミングは感銘を受けたと言われています。
ついでながら、酒と忍者とトルコ風呂にも(笑)。

この映画は、製作準備中に主要スタッフが2度も航空機事故に遭遇するなど、不吉な幕開けとなったことでも有名ですね。

国辱だとか、トンデモ映画という文脈で語られることが多い映画ですが、007スタッフは日本人に畏敬の眼差しを持ち、異文化に対して真摯に取り組んでいると思う。

夜汽車:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-28

そして、十朱幸代、秋吉久美子などの女優陣の絢爛さもさることながら、獣じみた精気を発散させる小林稔侍をはじめ、遠藤太津朗、今井健二といった東映の男優が、いいところを見せてくれるのが嬉しい。

ただ、萩原健一だけが、当時、組んでいた神代辰巳監督作品でのイメージが強いせいか、躊躇したりする時に現代風の印象が抜けきれず、違和感を感じさせたのが残念だ。

夜汽車:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-28

※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]

思い出の紅葉の宿で、今は妹の亭主になっている昔の男にすがりつき、身もだえし、ついに再び男女の関係になってしまう場面、どうしようもなく抑えきれぬ気持ちがほとばしり出る。

任侠映画の衰退以来、処を得ていない感のあった山下耕作監督だが、戦前の市井を舞台に男と女の物語を堂々と描く姿勢に立って、長大なドラマを少しの空疎さも感じさせずに織り成していると思う。

昭和10年代の高知の町が、くっきりと浮かび出てくるし、当時の空気も見事に再現されているように思える。
そしてそれが、単に歴史の再現にとどまらず、その時代ならではの激しい思いを抱えて生きた女の半生を、観る者にも鋭く突きつけてくる。

要所要所に挿入される夜汽車のショットが、絶妙のアクセントになっていて、久し振りに山下耕作監督の魅力を堪能させられた。

夜汽車:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-28

「鬼龍院花子の生涯」(1982)、「陽暉桜」(1983)、「櫂」(1985)と続いた宮尾登美子原作による”土佐もの”シリーズは、高田宏治脚本、五社英雄監督で作られてきた。

それが、1987年の「夜汽車」は、松田寛夫、長田紀生コンビの脚本に山下耕作監督という顔合わせで作られているが、だいぶ色合いの違うものになっていると思う。

激しさはできるだけ抑えられ、男と女の情感がじんわりと盛り上がり、次第に大きなうねりを起こしていく様子が、さりげなく、それでいて骨太に語られていく。

遊郭を芸者たちがねり歩く描写ひとつとっても、五社英雄監督の演出が、あでやかに着飾った女たちが、集団で移動していくダイナミズムを感じさせたのに対し、山下耕作監督の演出は、踊りのような、さばけた見のこなしで女たちを歩かせ、たおやかな魅力を画面にあふれさせる。

十朱幸代のヒロインは、男まさりの気の強さを見せ、指までつめてみせても、あくまで女だ。

現代やくざ 血桜三兄弟:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-28

最初の第1シリーズの「ルパン三世」の音楽を担当した、山下毅雄が、この作品でもラテン・ロックやスキャットを駆使して、1970年代初期の夜のメカニズムを、アナクロ体験させるサウンドの機密性は、実に素晴らしい。

そして、野坂昭如の「マリリン・モンロー・ノー・リターン」も、実にクールだ。

現代やくざ 血桜三兄弟:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-28

ある地方都市にやって、関西系組織のヒットマンがやって来た。
地元の暴力団は、無礼な挑発にも乗らずにいたが、ある夜、ヒットマンは死体で発見される。

誰が殺したのか騒然となるが、真相が判明しないまま、遂に抗争は、意外な事態へと--------。

監督・中島貞夫と脚本・野上龍雄が初めてコンビを組んで、東映ヤクザ映画のガイドラインを確信犯的に打ち壊した、”現代やくざシリーズ”の第5弾が、この「現代やくざ 血桜三兄弟」だ。

組織からドロップアウトした菅原文太、組織に忠誠心で従う伊吹吾郎、組織の最下端で扱き使われる渡瀬恒彦ら、東映のスター俳優を基軸に据えて、小池朝雄のハードボイルド・テイストや、松尾和子の成熟が、この作品の輪郭を形成している。

だが、それらは、荒木一郎の存在感を際立たせるオプションに他ならない。
個性派演技によって造形された、稀代の非モテ系眼鏡キャラ=通称”モグラ”。

真性チキン野郎が、暴力ドラマを制する映画的奇跡こそが、この作品のエネルギーであり、最高の魅惑的な要素となっている。

弾痕(1969):P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-28

この作品は、前作の「狙撃」より政治的な表現が多くなり、考えさせられる部分は増えているが、その反面アクションシーンは少なくなってしまっている。
また、この三部作の重要な見どころとなる銃器の描写もやや後退している。

それでも、日本海に出現する工作船や米軍基地への自動車爆弾テロなど、極めて時代を先取りしたような題材が取り上げられているのには驚いてしまう。

主人公を演じる加山雄三は、ガバメントを使用していて、「狙撃」からの流れでフォームが実に決まっている。

また、敵側の名優・佐藤慶は、中田製ワルサーP38で、彼との決戦に際して、加山雄三は中田製MP40ブローバックモデルで立ち向かうのが、実にカッコいい。

弾痕(1969):P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-28

この東宝映画「弾痕」は、「狙撃」に続いて加山雄三が主演した、東宝ハードボイルド三部作の第2弾となる作品で、監督は「日本沈没」「八甲田山」の森谷司郎だ。

主人公の滝村憲(加山雄三)は、日米2つの国籍を持つ男であり、アメリカの情報機関のメンバーで射撃の名手だ。

彼は、米国特使の一行に特攻を試みるテロリストを、ヘリから狙撃し犯行を阻止したり、米国大使館に亡命を希望する中国の経済使節団のメンバーを保護したりと任務遂行に忙しかった。

そんなある日、彼は敵対する何者かに狙撃され、弾は近くにいた彫刻家・沙織(太地喜和子)を負傷させてしまう。彼女を助けた滝村は、彼女の作品のモデルとなり会合を重ねていく。

滝村は、日本海側から密入国を企む中国の工作船を迎撃、中国側は謎の武器商人トニー・ローズと東京で取引を企んでいた。滝村はこれを阻止しようとするが------。

刑事ニコ 法の死角:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-28

※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]

相棒の女性刑事パム・グリア(クェンティン・タランティーノ監督の永遠のマドンナ)も危険にさらされるが、最後には真相を知った上院議員を抹殺しようとするヘンリー・シルヴァ一味を壊滅させて一件落着。

お話のお膳立てはものものしく、家庭愛の場面なども盛り込まれ、セガールが得意の日本語を使ったりしてニヤリとさせられるが、全体的に作品自体にまとまりがなく、アクションシーンも期待したわりには盛り上がりに欠けていたと思う。

それでも、最近のふやけた体で粗製乱造する作品群に較べたら、ずっとましな出来栄えですが。

刑事ニコ 法の死角:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-28

この映画「刑事ニコ 法の死角」は、我等が危ない親父スティーヴン・セガールの映画デビュー作だ。

全米屈指の犯罪地帯と言われるシカゴで、誰よりも突出した起訴件数を誇る敏腕刑事ニコ・トスカニーニ(スティーヴン・セガール)。

この映画は、元CIAの特殊工作員として戦場に潜入した体験を持つ彼が、日本で身につけた合気道を武器に、政界をも巻き込んだ巨大な麻薬組織に挑んでいく姿をダイナミックに活写している。

主役のスティーヴン・セガールは、この映画の原案・製作も担当していて、実際に合気道の黒帯6段であり、ショーン・コネリーらのハリウッド・スターのコーチも務めたほどの武道の達人なのだ。

ヴェトナム戦争時代に、仲間のヘンリー・シルヴァ(一度、顔を見たら忘れられない程の残忍な顔をした性格俳優)の残忍ぶりを見て、職を辞任するというプロローグの後、シカゴの鬼刑事になった彼が、麻薬事件を捜査していくうちに、CIA絡みの中南米謀略事件にいき当たる。

SAYURI(2005):P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-28

日本の俳優陣では、渡辺謙が達者な英語を披露して、さすがという感じで、また、桃井かおりもいい味を出していましたが、役所広司だけは英語も全くダメ、演技もダメでしたね。
これでは、役所広司は今後、ハリウッド映画からのオファーは来ませんね。

SAYURI(2005):P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-28

残念ながら、主役のチャン・ツィイーのさゆりに、まわりを圧倒するような存在感がないのだ。
不思議な瞳を持つという設定も生かされていないし、男を虜にする美しさと芸と色気も十分に描かれていなかった気がする。
そのために、彼女の一途な恋愛も「あ、そう。」という感じでしか観ることができなかった。

「芸者は娼婦ではない」のが事実であったとしても、芸者は武士のような、ある種の美学を体現する存在ではないのだ。
芸者の世界には詳しくないので、色々と勉強になったが、千代が神社にお参りするシーンで、どう見ても伏見稲荷という鳥居をくぐって、お賽銭を投げて鈴を鳴らすところで「ゴーン」と鐘の音がしたのには、ずっこけてしまった。

というわけなので、どこまで考証が確かなものかも、正直いってよくわからない。
そして、着物の着方がまことに雑で、興醒めしたが、映像はとても美しく、それほど退屈はしなかった。
しかし、面白かったかと聞かれるとそれほどでもなく、つまらなかったのかと言えば、それほどでもないという微妙な感じの作品でしたね。

SAYURI(2005):P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★☆☆☆
投稿日
2024-06-28

ロブ・マーシャル監督の「SAYURI」は、貧しい漁村から口減らしのために売られた少女が、花街で一番の芸者になるという、女の一代記。
日本を舞台にした作品だが、原作も映画化したのもアメリカ人。

「ラスト・サムライ」と同様、ハリウッド製和風ファンタジーといったところだ。
日本人キャラが、みんな英語で会話するのも、中国人女優の芸者姿も、心配したほど気にならなかった。
しかし、観終わった後の感想はというと、「それで?」と言うしかない。
さゆりの生き様や芸者の世界のしきたりを描くことで、一体何を伝えたかったのだろうか。

千代が花街に売られてきて、さゆりという芸者になり、ライバルの初桃と壮絶な置屋の後継者争いをするところは、絢爛な世界の裏の女のドロドロとした姿を描いていて、退屈しない。
初桃を演じたコン・リーは、憎まれ役を見事に演じている。
ところがコン・リーが姿を消すと、火が消えたように画面が寂しくなり、映画も失速していく。

悲しみの青春:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-28

昂まる悲痛のメロディは、やがて、あの光と影の青春の庭、テニス・コートの白い若者たちの優しさに溶け込んで、かき消える。ヴィットリオ・デ・シーカ監督の抑制のきいた演出が、数十年の歳月を経た、ある"時代"への青春の哀歌を静かに謳いあげるのです。

悲しみの青春:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-28

※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]

けれどミコルは、ジョルジョが自分と同じ運命共同体であることを、本能的に察知していたのだ。ユダヤ人の現在と未来に忍び寄る"死の影"を予知して、だから、彼女が愛したのは過去、いとしく甘美で神聖な、幼い日の幻影だけであったのだ。

次第に吹き荒れるナチズムの嵐は、ユダヤ人家族から平和を幸福を、人権を財産を、そして愛を青春を、奪っていくのだ。
はじめはテニス・クラブや図書館からの追放といった差別は、やがて強制逮捕となっていく。
もはや、コンティーニ家の人々といえども例外ではなかった。

ミコルと近親相姦の匂いさえ漂わせた、病的な弟アルベルト(ヘルムート・バーガー)は、高熱にあえいで病死し、彼女が絶望的な愛を結んだコミュニストのマルナーテ青年は、ソ連戦線に召集されて戦死してしまう。
そして、両親と引き離されたミコル。息子たちと妻を逃がしたジョルジョの父。彼らの行く手に待っているのは、収容所であり、死であった。

悲しみの青春:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-28

※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]

親しみを込めて、まるで恋人のように振る舞いながら、だが彼女はジョルジョの求愛をはぐらかし拒絶する。
そして、ついに彼は見てしまうのだ。
ミコルが、彼女の弟アルベルトの親友であり、ジョルジョの心の友ともなったマルナーテ(ファビオ・テスティ)と結ばれた現場を。

こんなふうに荒筋だけを追っていくと、ありふれた青春の失恋のドラマになってしまう。
だが、コンティーニ家も、そしてジョルジョの一家もユダヤ人である。
その宿命の重みが、一九三八---四三年という時代と相まって、哀絶の調べを奏でるのだ。

同じユダヤ人だが、コンティーニ家は"特別"であった。
ジョルジョの家も、かなり裕福だが、大地主コンティーニ家はケタ外れのブルジョワであり、同時にその貴族性のゆえに、彼らは町のユダヤ人社会からも孤絶した、別世界の"異人種"だったのだ。

ユダヤ人の自意識を持つジョルジョが、ミコルに強く惹かれたのは、彼女がユダヤ人らしからぬユダヤ人であったからだろう。

悲しみの青春:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-28

※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]

それは、コンティーニ家の娘ミコル(ドミニク・サンダ)の、ほとんど気まぐれといっていい"招待"によるものだった。

夏の終わり、というより、むしろ秋色濃い日であった。
町のテニス・クラブの若いメンバーたちと、はじめてミコルに呼ばれて、彼はコンティーニ家のコートでテニスに興じるのだった。
そして、その日から、ミコルとの交際が復活した。彼女は、昔と変わらぬ好意を見せるのだった。
そして、昔の思い出を懐かしむのだった。

二人は幼馴染であった。といってもミコルは、町の学校に通学しなかった。
自宅研修生として、年に何度か、試験の時に学校に姿を現わすだけだった。
馬車に乗ってやって来る、この小さな王女さまへの憧れ。
教会での出会い。じっと自分に注がれた彼女の視線を、あの胸のときめきを、今もジョルジョは忘れない。
そうした幼い日の回想の断片が、透明な美しさでよぎるほどに、ジョルジョは、ミコルへの愛の想いを切なくかきたてられるのだった。

悲しみの青春:P.N.「オーウエン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-28

"ヴィットリオ・デ・シーカ監督の抑制のきいた演出が、長い歳月を経た、ある時代への青春追想の哀歌を静かに謳いあげた 「悲しみの青春」"

抑えに抑えて、だが、切なさあふれるばかりの青春追想のエレジーである、「ふたりの女」「ひまわり」の名匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督が描いた「悲しみの青春」。

原作は、ユダヤ系のイタリア人作家ジョルジョ・バッサーニの小説「フィンツィ・コンティーニ家の庭」で、その原作は、ヒロインのミコルに捧げられているから、これは明らかにバッサーニ自身の物語であろう。

最初に字幕が出る"フェルラーラにて、一九三八年---四三年"。北イタリアのエミリア地方のフェルラーラは、中世の城壁に囲まれた"美しい墓"のような町だ。
その町の中に、さらに孤立するかのように、果てしなく続く堀をめぐらせて、フィンツィ・コンティーニ家の広大な庭と屋敷がある。

青年ジョルジョ(リーノ・カプリッキオ)にとって、コンティーニ家の庭は、幼い頃から憧憬であり恐れであり、光であり、触れ得ざるものであった。
彼は十年かかって、やっとこの庭に立ち入ることを許されたのだった。

最終更新日:2025-05-05 16:00:02

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