映画感想・レビュー 96/2551ページ

アンツィオ大作戦:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-13

この映画「アンツィオ大作戦」は、第二次世界大戦中の一コマで、イタリア半島のアンツィオに上陸した米英連合軍を描いた作品だ。

アメリカ人の特別通信員のロバート・ミッチャムと、万事に抜け目のない伍長のピーター・フォークが中心となって映画は展開していく。

ドイツ軍の抵抗を受けずに上陸したものの、司令官のアーサー・ケネディの将軍は、ロバート・ミッチャムたちがローマまでジープを乗り入れて、敵の兵力が皆無に等しいことを調べてきたにもかかわらず、すぐに攻撃せずに、ゆっくりと陣地固めをしていて、その間にドイツ側は兵力を集結させて、米英連合軍側への包囲網を整えてしまうのだった。

そして、米英連合軍は全滅状態となり、ロバート・ミッチャム、ピーター・フォークたち七人だけが生き残り、農民の家族の協力を得て、ドイツ軍の堅牢な要塞へ戦いを挑むのだが-------。

アイアン・イーグル:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-13

「ブルーサンダー」のスタッフが、F16の翼にカメラを仕込んで撮影した空中戦の迫力は物凄い。
観ていて、空中戦を実体験しているかに思えるスピード感と迫真力。
ところが、その迫力にもかかわらず、どうしてもカタルシスがわかないのだ。

いかにひどい軍事裁判で死刑を宣告されたとしても、むこうはそれなりの主権国。
その言い分がある筈だ。それをいきなり乗り込んで、空中戦を演じたり、地上の施設を壊したりとなると、これはもう戦争ではないか。

父子愛、師弟愛というドラマチックな設定があるとしても、どうしても、このクライマックスにはのめりこめない。
ミグ戦闘機を操る国をはっきり敵と言い切るあたり、アメリカ人の考えもさりながら、そういう世界の現実に、あらためて背筋が寒くなる。

アイアン・イーグル:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★☆☆☆
投稿日
2024-06-13

この映画の主人公は18歳の高校生。
父は、アメリカ空軍のジェット・パイロット。
少年は、父の跡を継いで大空に飛翔したいという夢を持っていた。

すでに、セスナの免許は持っている。
シュミレーション訓練で、ジェットの操縦も大丈夫。
ところが、空軍士官学校の試験に学科で落ちたのだ。

そんなある日。中東の上空でテスト飛行中だった父が、敵(!?)のミグと遭遇し、捕虜になる。
しかも、無法な裁判で死刑の宣告を受ける。

死刑執行まで残された時間は僅か。
アメリカ空軍としては、動きようがない。
逆に少年は、ジェット戦闘機を飛ばして、父の救出に向かうのだった--------。

キャノンボール:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-13

この暴走族のリーダーが何と「イージー・ライダー」「ワイルド・エンジェル」のピーター・フォンダ。
そして、アストンマーチンに乗って現われるのが、ご存知3代目ジェームズ・ボンドことロジャー・ムーア。
あの007のパロディを、ボンド・スター本人が平然とやって見せる度胸の良さ-------。

それから、懐かしいディーン・マーティンとサミー・デイヴィスJr.は、偽牧師。
サミーが出演すると、見事に画面が楽しくなって、本物のエンターテイナーとはこれなんだと妙に納得してしまいます。
おかげで他のスターは完全に食われてしまってお気の毒様という感じになります。

この映画の監督は、「トランザム7000」のスタントマン出身のハル・ニーダムですが、彼の演出は目先のアクションは描けても、ドラマ全体をつかむ力がないために、スター個人の魅力のみに頼らざるを得なくなり、全体として破綻してしまっているような気がします。

エンドタイトルに、香港映画お得意のNGカットのシーンが流されますが、スターたちの楽しい素顔が出ていて、これらがこの映画の中で一番面白いという皮肉な結果になっていたと思います。

キャノンボール:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-13

この「キャノンボール」という映画は、アメリカの東海岸から西海岸までの5,000キロを普通乗用車で突っ走って、誰が早く完走するか、その大レースを面白おかしく大賑わいの娯楽映画に仕立てたアメリカ・香港の合作です。

まず面白さのポイントは何といっても、その豪華なキャスティング。
救急車でぶっ飛ばそうとするのが、公開当時、マネーメーキング・スターの常連だったバート・レイノルズ。
救急車なら警察の検問も切り抜けられて、思い切りスピードも出せるというわけです。
このあたりは、四六時中、救急車のサイレンが鳴っていると言われるアメリカならではの、ズバリ笑いにつながるギャグなのかも知れません。

そして、彼に巻き込まれるのがTV版「チャーリーズ・エンジェル」で大人気だったファラ・フォーセット。
アメリカと香港の合作という事で、当然の事ながら、当時、香港の大スターだったジャッキー・チェンとマイケル・ホイも出演していて、彼らは日本人を徹底的に風刺する存在として登場。
でも行く手を暴走族に阻まれれば、お決まりのカンフー・アクションが炸裂-------。

陽のあたる場所:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-13

エリザベス・テイラーとモンゴメリー・クリフトの呼吸がピッタリで、いかにもハリウッド映画らしい華やかさと社会性が楽しめる作品だ。
脚本、撮影、作曲、編集、衣裳部門のアカデミー賞を受賞しながら、主演の二人に与えられなかったのが信じられない。
特に、クリフトのナイーヴな演技は胸を打つ。
資本主義社会における貧しい者のつらさを知って育った青年が、やっとつかんだ出世の糸口を離すまいとする切ない心情を、クリフトは実にうまく演じていると思う。
そして、テイラーの役が単なる令嬢ではなく、上流階級の欺瞞を告発する立場で描かれているのもいい。
結局、この青年は、社会の組織に嵌められたようなものだが、そこをメロドラマにすり替えたところが、ジョージ・スティーヴンス監督らしい職人芸だと思う。

カールじいさんの空飛ぶ家:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-13

アニメならではのカラフルな色使いで、夢溢れるシーンを美しく描き出している。

ここまでは感動のファンタジー。
だが、ここからは冒険アクションへと変貌する。

カールは機転を利かして、次々と訪れるピンチを乗り越え、体を張って勇敢に悪人どもと戦っていく。
その姿は、まるでインディ・ジョーンズのようだ。

老夫婦の愛に胸を打たれるのもよし、登場する可愛い犬たちに歓声をあげるもよし、バトルアクションに手に汗握るもよし。
まさに老若男女、3世代で楽しめるエンタメ作品だ。

カールじいさんの空飛ぶ家:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-13

ピクサーが、初めて平凡な人間を主人公に据え、絶望から再生していく姿を描いたCGアニメが「カールじいさんの空飛ぶ家」だ。

78歳の独居老人カールが、亡くなった妻を回想する場面から、この物語は始まる。

幼い頃の出会いから永遠の別れまで、節目節目を絶妙に配した映像によって、二人の人生を紡ぎ出す。
わずかな時間にすぎないのだが、夫婦の深い愛と絆、カールの悲しみがじんわりと伝わってきて、切ない思いに駆られてしまう。

ラストシーンが強く印象に残る事はよくあるけれど、冒頭の場面でこれほどに魅了される作品は、極めて稀だと思う。
このシーンだけで、短編映画が1本出来るのでは、と思えるほどの巧みな演出だ。

そしてすぐに、第二の見せ場がやってくる。
都市開発で立ち退きを迫られたカールが、妻の思い出が詰まった我が家に、無数の風船をつけ、空へと飛び立つシーンだ。

殺しの接吻:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-13

この映画の原作は、名脚本家のウィリアム・ゴールドマンの同名小説。

ニューヨークの地下鉄で頻発する、女性の連続殺人事件。
刑事のジョージ・シーガルは、被害者の額に、キスマークが残されているのを逆手に取り、犯人に罠を仕掛けるが-------。

ボストン絞殺魔をモデルに、刑事と犯人の奇妙な友情を絡めた、サスペンス映画の佳作だ。

プリンス ビューティフル・ストレンジ:P.N.「おばさん」さんからの投稿

評価
☆☆☆☆
投稿日
2024-06-13

※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]

他の方も書いていますが、プリンスのインタビューやパフォーマンスなど一切出てきません。子供のころの影響とか、ストイックな姿勢とかを彼の周りの人たちが証言するという退屈すぎる映画。

サウンド・オブ・ミュージック:P.N.「pinewood」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-13

♬今朝のNHKラジオ深夜便アンカー石澤典夫は本篇依り映画音楽特集,ジュリー・アンドリュースのうたごえが響き渡った。映画マイ・フェア・レディはオードリー・ヘップバーンにヒロインの座を譲って仕舞ったと云うエピソードも。もし本篇がヘップバーンだったら何て想像して見るのも愉し

ガルシアの首:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-12

※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]

サム・ペキンパー監督は、西部開拓者の名門の出身だそうだ。ということは、多分、独立自尊とか、勇気とか、自らの力で秩序をそっくり作り上げて、実力でそれを人々にも守らせるといった、伝統的なアメリカ精神の誇りというものを人一倍強烈に、その血の中にたぎらせている人間だということであろう。幸か不幸か、現代は、そういう精神が深い懐疑に包まれている時代だ。開拓者精神が無邪気に賛美された時代は、ジョン・フォード監督やハワード・ホークス監督の全盛期で終わったのだ。

サム・ペキンパー監督は、そういう誇りを誰よりも純粋に身に付けていながら、しかも、その誇りが時代遅れのものとして見捨てられかけている時代に生きている。
このことの苦悩が、サム・ペキンパー監督の作品を一貫するモチーフになっていると私は思っています。

時として、これは、より反動的な暴力賛美として噴き出すことがあるのです。

ダスティン・ホフマン主演の「わらの犬」のように、あるいは、スティーヴ・マックィーン主演の「ゲッタウェイ」のように。 しかし、反動的な暴力賛美といっても、タカ派的なそれのように厚かましく颯爽としたものではなく、ヒーローたちは深い悲しみに沈んでいる。 いずれも、開拓時代ならば男の中の男であり得た男たちが、そうでない時と場所で生きたために、あるいはズッコケ、あるいはニッコリとは笑えぬ破目に陥る物語であった。 「ガルシアの首」では、ウォーレン・オーツが演じている、メキシコのしがないバーのピアノ弾きも、もし開拓時代の西部で生きていたならば、いっぱしの男の中の男であり得たかもしれない男である。 しかし、今、彼は、汚辱にまみれた境遇にあり、その境遇から抜け出すために、自分の惚れている娼婦の愛人だった男の死体を墓から掘って、その首を盗んでくるという、まことにもって浅ましい、みっともない仕事を引き受けるのであった。

その仕事を引き受けたことで、すでに十分、彼の自尊心が傷付いていることは、ウォーレン・オーツのデリケートな表情でよく分かるし、そこに私は、西部男の純朴さをかなぐり捨て、ハリウッドの商業主義の汚濁の中を生きているペキンパー自身の分身が見えるように思う。 ウォーレン・オーツの演じる主人公ベニーは、愛している娼婦エリータを案内人にして墓探しの旅に出る。 ウォーレン・オーツもいいが、このエリータを演じるメキシコの女優イセラ・ベガが、社会の辛酸をなめつくしている女の分別豊かな色気を見せて、実に素晴らしい。 ベニーは彼女に結婚を申し込むのだが、彼の彼女に対する態度には、例えば、ジョン・フォード監督の「駅馬車」でジョン・キャラダインの紳士賭博師が、馬に乗り合わせた東部のレディに対して示した丁重さに一脈通じるような、西部男の理想化されたフェミニズムの匂いが漂っていると思う。 うだつのあがらない男の娼婦に対する手荒い態度が、基本になっているにもかかわらず、だ。

つまり、彼は、もし開拓時代の西部に生きていたら、レディを守って獅子奮迅の活躍をしたであろうようなタイプの、誇り高き荒くれ者なのである。 ところが今、彼は、この尊重する女の前に、金欲しさに死体探しをしている男というみっともない姿をさらしている。 その恥ずかしさをこらえながらの愛の告白と、彼の恥ずかしさを十分に理解している女の慎ましい思いやりのこもった受け容れ方と。 二人の感情のデリケートに交錯する墓地までの道行きの情感の細やかさこそは、この映画の圧巻だと思う。 二人が自動車で、かつてエリータの愛人だったガルシアという男の墓のある田舎へ行く途中、一夜、野宿をして、草むらでしんみりと夜食をとっていると、突然、二人組のオートバイ乗りのヒッピーがやって来て、ニヤニヤ近づいてきて、拳銃を出してエリータとやらせろと脅すのだった。 ベニーとしては男の度胸の見せどころだが、エリータはどうせ自分は娼婦なんだから私に任せておいてちょうだい、仕方ないわという調子で応ずるのだった。

そして、物陰に連れて行かれると、そこは商売柄なのか、エリータの態度に若干の媚びが出る。 すると、ベニーはもう一人をぶん殴って拳銃を奪い、エリータと寝ようとしている奴を射殺するが、エリータのヒッピーに対する媚態めいたところを見たのは、ベニーにとってやはり悲しいのだろう。 エリータの方もそれをみられたのは、やはり辛いのだろう。 その夜、ホテルの薄汚い部屋をとると、エリータはシャワー・ルームに入ったまま、しばらく出てこない。 ベニーがドアを開けてみると、エリータはシャワー・ルームの床にあぐらをかくようにして座ったまま、辛そうな表情に沈み込んでいる。 その脇に、彼女を励ますような表情で立ったベニーも、実に辛い。中年の二人の、人生の辛酸を知った思いやりと自責の念。 実に見事だ。 サム・ペキンパー監督は、暴力映画の名監督として知られ、この映画でも後半、私が最も好きな深作欣二監督に匹敵する、その暴力演出の凄みは十分に出ているが、その暴力描写を生かしているのは、前半の情味であると思う。

ベニーは、傷付いている自尊心を抑えに抑えて、死体盗みというみっともないことをやる。 ところが、自分はだまされていたのだった。 ガルシアの首を盗んでこいと彼に依頼した黒幕は、帰り道に殺し屋たちを待ち伏せさせておくのだった。 ベニーは、自分の恥部を全てさらけ出して愛を求めた女を殺されたうえに、死体の首は横取りされてしまったのだ。 ベニーは怒る。その怒りは、単なる金銭の恨みに発するものではない。 耐えに耐え、抑えに抑えた自尊心を踏みにじられたことに発する憤怒なのだ。 この取り戻した首と一緒に旅をするウォーレン・オーツの、次第に錯乱気味になってゆく懊悩の表情は、あたかも人形浄瑠璃のサワリの部分に見るような、力を振り絞ったのろい動作なのだ。 片手にガルシアの首の包みをさげ、片手にドライアイスの包みをさげて、悄然とメキシコ・シティの自分のアパートに帰ってきたベニーが、首の包みにドライアイスを詰めたうえで、どうにも憤怒に耐え兼ね、身悶えしながらベッドにのけぞる-------。 暴力描写以上に、この抑えに抑えた場面こそが、この映画のクライマックスであろう。

とはいえ、暴力描写の凄みがペキンパー映画のセールス・ポイントであることは否定できない。 ベニーは、二人のヒッピーを射殺したのを手始めに、エリータを殺して首を盗んだ二人組の殺し屋を殺し、さらに首を受け取りに来たアメリカ人のもう二人の殺し屋を殺す。 この殺し屋たちは、その直前に、首を取り戻しに来た村人たちを虐殺しているのだ。 ベニーはさらに、殺し屋どもの本拠に乗り込んで、親分はじめ皆殺しにし、首の注文主と分かった田舎の豪族の屋敷に乗り込んで、エミリオ・フェルナンデス扮する大地主を殺し、その部下たちから撃たれて、車ごと蜂の巣のようになって果てるのだった-------。 殺しの量や激しさだけなら、最近はこれに類する映画は少なくない。 この映画の見どころは、その殺しのシーンにみなぎる苦悶の情感なのだ。 その苦悶に、私は、過大な自尊心を強引に振り捨てざるを得ない立場に置かれたアメリカ人の苦悶が、重なって見えてくるのだ。

男らしさというものの価値の急速な下落に、耐えに耐えてきた男が、もはや西部劇のヒーローのような行動の仕方には、なんの意味もありはしないということを百も承知のうえで、その無意味さに敢えて殉ずる、といった悲壮さがそこで浮き彫りにされているのだと思う。

ガルシアの首:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-12

"サム・ペキンパー監督の資質に最も忠実な、最も純粋な作品 「ガルシアの首」"

自尊心というものは、人間にとって、実に始末におえない厄介なものであると思う。
一寸の虫にも五分の魂というぐらいだから、どんな人間にも自尊心はあり、自尊心こそは人間の精神の核になるものであると思う。
これなくしては人間は生きられない、と言っても過言ではないだろう。

現在のアメリカという国のことを考えると、私は日本人が敗戦というショック療法によって、ようやく癒し得た難問に、理性ひとつで立ち向かわなければならないという苦しい状態にある国という印象を抱いている。

かつて、アメリカは、世界で最も進んだ民主主義の国であるという自尊心に生きていた。
世界で最初に人民主権の革命を達成した国、ファシズムの猛威を打ち破って、その脅威から世界を救った国、自由と勤勉によって世界最大の富を築いた国。
その誇るべきアメリカ民主主義の土台にあるものこそは、開拓時代の西部に脈々と流れていた、独立自尊の精神であり、誰にも頼ることなく、自らの力で秩序を作り上げて、それを維持する剛直な草の根の民主主義である、と。

そういう精神の最も見事な映画的表現としては、ジョン・フォード監督の一連の名作を思い出すだけでいい。 ところが今、そういうものとしてのアメリカ民主主義の誇りは、大幅な修正を余儀なくされている。 はたしてアメリカは、本当に民主主義国家だったのか。 むしろ差別主義の国だったのではないか。 ファシズムから世界の人々を解放してくれたのはいいが、かわって自らが抑圧者となってしまったのではないのか。 ヴェトナム戦争の敗北とブラック・パワーの抬頭がショック療法となって、アメリカは反省せざるを得なくなり、世界で最も偉大で模範的な国という過大な自尊心を削ぎ落そうと努力するようにもなってきている。 だが、しかし、ヴェトナム戦争やブラック・パワーは、日本が味わった敗戦という経験に比べれば、ショック療法としては、どうしたって、まだ、不十分なものであると思う。 力づくで反省させられたというほどではなく、どうもこれまでのようには調子よくゆかなくなったから、自発的に考え方を変えてゆかざるを得ない、というところであろう。 それだけに、彼らの苦悩と内面的な葛藤は、大きいものがあるのだと思う。

我々が、外側からがっちりお膳立てされて行なった反省を、彼らは、ある程度までは外側から強いられたにしても、より主体的にやらなければならないからである。 そういう苦悶と葛藤を、映画において最も鮮やかにそのイメージに刻み込んでいるものに、サム・ペキンパー監督の一連の作品があると思う。 「ダンディ少佐」「ワイルドバンチ」「砂漠の流れ者」「ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦」など、これらの西部劇や準西部劇は、いずれも古き良きアメリカ精神の権化ともいうべき、剛直な西部男の誇りへの挽歌であり、その人間像が意味を失っていることへの哀切なエレジーなのだと思う。 特に、この「ガルシアの首」は、サム・ペキンパー監督のそれまでの作品の中でも、彼自身の資質に最も忠実な、最も純粋な作品だと言ってもいいのではないかと思う。

陽炎座:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-12

"万華鏡を覗いたように華麗なイメージの散乱が生と死、現実と幻想のめくるめく謎の渦をなしている「陽炎座」"

鈴木清順監督の「陽炎座」の登場人物は、松田優作の主人公以外、ほとんど正体が定かではない。
この主人公の青年文士は、美しい人妻とたびたび偶然に出会って魅かれ、三度目には肌を交えるが、彼女の心をつかめない。

彼女の誘いの手紙で東京から金沢まで出かけても、彼女は姿を見せず、やっと会ってみると、手紙など書かないと言うのだった。彼女は主人公の前で、スケッチブックに〇△▢と書き連ねるかと思えば、爛漫たる桜の大樹のてっぺんに立っていたりするのだった。

その間、彼女の夫が随所に現われ、二人のことをなにもかも知るかのようでありつつ、本当のところはわからない。
そうかと思えば、死んだはずの女が何度も登場して、舟で川を流れたり、芝居小屋の中空を飛んだりする。

アナーキストらしき男や人形裏返し儀式の老人など、他にも多様な人々が出てくるが、行動の意味も言うことの真偽も定かではない。 主人公以外の諸々の人物は、正体どころか、実は生死さえ不明であるということなのだろうか。 そうなると、描かれることのすべてが疑わしく思えてくる。 わけのわからない人物が、荒唐無稽に出没するのにあわせて、建物はもちろん道や野原や川までが、作り物のセットのように見えはじめてくる。 大楠道代の人妻は、手紙など出していないと否定した後、主人公に言う。 「そういえば----夢の中で手紙を書きました。そっくりあのとおりに書きました。----でも夢の中です。きっと私の夢を覗いていた人がいるんでしょう。その人が手紙を出したんですわ、夢のままに」。 言うなれば主人公は、その美しい人妻に魅かれるままに、「夢の中」を「夢のままに」彷徨し続けるのだ。

恋のさすらいの中、やがて心中死ということが見え隠れする。 そして、裏返すと心中直前の男女の性愛の姿が見える人形は打ち壊され、男と女の関係劇を繰り広げた芝居小屋は崩壊し、主人公の眼前で恋しい女は水中に沈み去って、一組の男女の心中死体が池に浮かぶ。 男はあの夫であるが、女のほうはその妻とも、死んだはずの前妻とも、あるいは別の女とも見え、はっきりしない。 ラストにおいて、主人公は自己遊離の状態に陥って、あの人妻と心中直前の自分の姿を、少し離れたところに立って見つめている。 夢幻世界を彷徨することで、主人公は死をはらんだエロスを体験し、その結果、一種の眩暈の状態が起こるのであろうか。 この映画を観ている者についても、まったく同じことが言え、これはいわば万華鏡を覗いたように華麗なイメージの散乱する映画で、そのイメージは生と死、現実と幻想の混淆から成り立ち、めくるめく謎の渦をなしているのだ。 それゆえ、この映画を観ることは、死を覗き見るようにして、生の躍動を感じる眩暈体験にほかならないのだ。

やくざ戦争 日本の首領:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-12

そして、日本最大の暴力団の首領(ドン)とは一体いかなる存在なのか?

「やくざ戦争 日本の首領」が、実録路線の上に乗った企画でありながら、いささか趣きの異なる作品となったのは、そのテーマがやくざ同士の抗争ではなかったという点だと思います。

"首領(ドン)"の存在とは、やくざ社会の中においていかなるものなのか、それは政治や経済との関わり合いも含める、その"カリスマ性"に焦点が当てられたのだと思います。

戦後の混乱期、そして保守政治勢力の確立期、権力は暴力団をも利用し、その関係はその後も尾を引き、互いに持ちつ持たれつのくされ縁がしばらく続いたと思います。
だが、権力の強化、更に権力による管理化が進むにつれ、暴力団はお荷物になり、むしろ危険な存在となっていったのです。

そして、権力は暴力団を突き離し、その時からやくざは、単なる暴力団となっていったのです。
社会の公共の敵、憎むべき存在。そのキャンペーンの中で、しかし依然として組織は保たれていて、その中核に"首領(ドン)"がいたのです。

西日本最大の"首領(ドン)"=佐倉一誠(名優・佐分利信)の、中島組組長として、全国制覇を胸に秘めた野望と、"政界・財界・右翼界"に、幅広い人脈を誇る政治的コネクション、そして、家庭では2人の娘の幸福を願う父親としての苦悩。 「仁義なき戦い」で一躍、人気作家となった飯干晃一の原作による、山口組内部の確執や実在の人物をモデルとしながらも、脚本の高田宏治は多彩な人間関係が絡む虚構性に富んだドラマを紡ぎ出し、実に見事な脚本になっていると思います。 まさに、彼しかこの役は考えられない程のハマリ役である、重厚で深みのある存在感を体現する佐分利信をメイン・キャストに、かつての任侠映画のスター、鶴田浩二に、菅原文太、千葉真一、松方弘樹らの現役やくざ俳優の熱情が、「日本版ゴッドファーザー」に東映の息吹きを伝えていたと思います。 そして、この映画はシリーズ化され、「日本の首領 野望篇」「日本の首領 完結篇」へと続いていくのです。

やくざ戦争 日本の首領:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-12

"東映オールスター・キャストで日本最大の暴力団の首領のカリスマ性に焦点を当てて描いた超大作 「やくざ戦争 日本の首領」"

この映画「やくざ戦争 日本の首領」は、1970年代後半における、東映のエポック・メイキングとなった、オールスター・キャストによる超大作です。

この映画は、いわゆる"東映実録路線"に沿った企画でしたが、中島貞夫監督は、「任侠映画でもないし、実録映画でもない、少し骨太の大人の芝居がやりたかった」と、その製作意図として語っているように、音楽に日本を代表する音楽家の黛敏郎を起用した、圧倒的なスケール感や、超豪華キャストを揃えた、上映時間2時間12分にも及ぶ、"映画としての独立"は、興業的にも大ヒットを飛ばすという最高の形で、東映ヤクザ映画のその後の方向性に一つの結論を示唆したものになったと思います。

この映画は、実在する日本最大の暴力団の首領(ドン)、それを題材に採り上げていますが、実録路線の作品の数々は、そのほとんどが、この日本最大の暴力団の動向と何らかの関わりを持っていて、極論を言えば、その動向が実録路線の素材を提供していたとも言えます。

現代任侠史:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-12

この東映映画「現代任侠史」の冒頭で、着流し姿の高倉健が、飛行機のタラップを降りてくる。
この作品は、公開当時、そのシーンのみが話題になったそうだ。

今観ると笑えるのは、高倉健が降りる寸前、スチュワーデスが彼に日本刀を渡すところだ。
現実には、絶対にあり得ないことなのだが、映画なら許されるという不思議なシーンなんですね。

この作品の全体の印象は、何か任侠映画の出がらしという感じがしましたね。
ただ、映画史的には重要な点があると思う。

堅気になった健さんと、彼を取材に来たジャーナリストの梶芽衣子とのロマンスが、「冬の華」などの後年の健さんの主演作とつながっていることだ。

この「現代任侠史」が製作されたのは、1973年。
当時の東映においては、深作欣二監督の「仁義なき戦い」シリーズの大ヒットにより、いわゆる"実録路線"の絶頂期にあたり、実録路線に敢えて参加しなかった健さんにしたら、新境地を目指した彼なりの狙いがあったのだろうと思う。

かつて「網走番外地」などの作品で名コンビを組んだ石井輝男監督が、この作品の演出を手掛けたのも、そのあたりに事情があるのではないだろうか。 また、脚本を従来の任侠映画とは無縁だった、橋本忍に依頼したところにも、その意気込みの一端がみてとれるんですね。 物語は、関西のヤクザ団体から先兵役を引き受けた、組の親分の安藤昇が、関東との約束を取りつけた矢先、銃弾を浴びてしまう。 堅気の健さんは、親譲りの名刀を携えて、お定まりの殴り込みをかけるというものだ。 しかし、一連のパターン化された物語と描写に、任侠映画がはらみ持っていた切迫感と情感は、もはやない。 実録路線に対する一種の"アンチテーゼ"が、任侠映画の悪しき焼き直しに転じてしまっているんですね。 脇役として成田三樹夫、夏八木勲、小池朝雄、内田朝雄、辰巳柳太郎というように、錚々たる顔ぶれが揃っている中で、健さんに代わって二代目総長となる郷鍈治が、印象に残る存在感を見せていましたね。

最終更新日:2025-03-18 16:00:02

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