ちはやふる 上の句:P.N.「あまつかぜ」さんからの投稿
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-14
キャストがみんなとってもぴったりです。
つくえ君とか肉まん君とかいい味だしてますし。
かなちゃんもぴったり。
さりげなくちはやの姉がアリスさんなのもにやっとしますね。
みんなで山登り行くシーンはじーんと青春っていいなと思いました。
キャストがみんなとってもぴったりです。
つくえ君とか肉まん君とかいい味だしてますし。
かなちゃんもぴったり。
さりげなくちはやの姉がアリスさんなのもにやっとしますね。
みんなで山登り行くシーンはじーんと青春っていいなと思いました。
おもろ白すぎて泣きそう
だが、当局に監視されているウッズは、出国することが出来ないのです。
このような状況の中、イギリスから本の出版の話がもちあがると、ウッズは亡命することを決意します。
そして、1977年の大晦日の夜、神父に変装したウッズは、仲間の黒人たちの協力を得て国境を越えることに-----------。
歴史的にみれば、白人が南アフリカに渡って国をつくったのは1652年。
当時の南アフリカの人口は2,900万人で、そのうち白人は450万人にすぎませんでした。
各国の上映では、様々な論争を巻き起こしたと言われていますが、「遠い夜明け」は、あくまでも、人間としての人道的な視点、中立的な視点を失っていないからこそ、感動を呼ぶのだと思います。
ビコは警察の監視下にあったが、彼とその仲間たちは、コミュニティセンターを建設して、自主独立の準備を進めていました。
ウッズは、ビコの人間性と理論に次第に共感を覚えて、記事の面でも協力的になっていくが、南アの権力者たちは、そんなウッズの行動を好ましく思いませんでした。
ある夜、コミュニティセンターが襲撃されるという事件が起きます。
犯人は、警察だった。ウッズは、目撃者がいることを親しいクルーガー警視総監に相談に行きます。
ところが、この警視総監は、アパルトヘイトの強力な推進者であったため、当局の黒人弾圧は一層厳しくなっていきます。
ビコは、ケープタウンの集会へ向かう途中、検問にあって逮捕されるのです。
そして、厳しい拷問の末、死亡するという事件が起きました。
この国の将来を憂えるウッズは、新聞記者としての使命、あるいは人間として、南アフリカの現状を全世界に訴えたいと決心します。
1990年2月、28年間、獄中にあったアフリカ民族会議(ANC)の指導者ネルソン・マンデラ氏が釈放されたニュースが全世界に流れました。
「ガンジー」「素晴らしき戦争」などのリチャード・アッテンボロー監督は、長年、人種問題に取り組んできた信念の映画作家だと思います。
この映画「遠い夜明け」は、公開年から考えて、マンデラ氏の釈放を予言したような作品で、原作を書いた実在のドナルド・ウッズの体験をもとに映画化されていて、舞台は南アフリカ、1975年の11月から、この物語は始まります。
反アパルトヘイトの黒人運動家ビコ(デンゼル・ワシントン)と、新聞社のウッズ編集長(ケヴィン・クライン)との運命的な出会いがストーリーの発端になります。
南アフリカの新聞社のウッズ編集長のところへ、黒人女性ランベール医師が訪れます。
黒人運動家ビコを批判した記事を載せたことに対する抗議でした。
このことがきっかけになって、ウッズはビコに会う運命になったのです。
そして、この映画は、中島貞夫監督の「鉄砲玉の美学」とともに、ATGが芸術映画から転進する節目の作品となったという意味でも、重要な作品だろう
この「津軽じょんがら節」は、「約束」「旅の重さ」に続く、斎藤耕一監督の"風土三部作"の第三作目の作品だ。
ヤクザ組織から追われる青年が、愛人の郷里である、津軽の漁村に流れて来る。
都会からもはみ出し、田舎にも馴染めなかった青年は、老いた漁師と盲目の少女と知り合い、この村に腰を落ち着けようとする。
しかし、その時、ヤクザの追っ手が--------。
人間のドラマ以上に、心に残るのが、どんよりと垂れ込める灰色の空、次々と押し寄せる北国の荒波だ。
全篇を貫くこの風景は、若者の叶う事のない、老いた漁師と盲目の少女の夢でもあった、ふるさと作りを拒否する、運命のようにいつまでも続いていく。
前二作に比べて、自然の厳しさと、その中での人間の卑小さと、それ故の愛おしさが強調されていると思う。
また、タイトルにあるように、白川軍八郎と高橋竹山の津軽三味線が、印象的に使われている。
高橋竹山が、渋谷のジァンジァンで、ライブをスタートさせて、新しい音楽として見出された時期だったという意味でも、タイムリーな作品だったのだろう。
主人公の脱獄囚役のジョン・ヴォイトは、確かに凄いメイクで熱演しているが、この役は、かつてのリー・マーヴィンくらいの個性の強い、重量級の役者が演じていたら、もっと凄みが出ていたのではないかと思いますね。
突っ走る列車、何とか最前列の機関車に飛び乗ろうとする脱獄囚、上空から縄梯子で降りようとする追跡者。
カメラ自体を別のヘリコプターに積んで、平行移動してみせる迫力は、とにかく凄い。
監督は、当時のソ連の映画監督アンドレイ・コンチャロフスキー。
撮影は、007シリーズのアラン・ヒューム。
それまで日本の「新幹線大爆破」やアメリカの「大陸横断超特急」等、列車の暴走を描いた映画には、成功した例が多いのだが、映画=活動大写真の名の通り、動くもの、突っ走るものは、対象の素材として、実にぴったりなのだ。
この作品では、更に極寒の極地という背景が、緊迫感をより増していると思う。
ただ、惜しむらくは、観ていて、列車が走り出すまでの描写が重過ぎる。
脱獄囚と刑務所長の確執という図式の説明がつらい。
これがもし黒澤明監督だったなら、こうした説明を超えたドラマが、そこから爆発していたと思う。
かつて黒澤明監督が、映画化に執念を燃やしていた作品が、この「暴走機関車」ですね。
本格的な日米合作の超大作になるかと期待されていたのだが、様々な事情があって実現に至らなかった。
その黒澤明の脚本を土台にして、新しいスタッフによって作り上げられたのが、このアンドレイ・コンチャロフスキー監督、ジョン・ヴォイト主演のこの映画だ。
アラスカ。極寒の刑務所。脱走犯二人。四重連機関車。脱走列車。
だが、機関士は発作を起こして急死。最先端の機関車には入れない。もう一人の乗務員。女。
この三人を乗せた暴走列車。時速150キロ。大雪原。ヘリで追う執念の刑務所長。
実にワクワクするほどの面白い映画だ。
映画ならではのダイナミックな興奮で、我々観る者をグイグイと引きずり込んでしまう。
濹東綺譚をまた観て、とても感動した。これは何よりも共感できるところがいっぱいあったからだ。永井荷風は私が生まれた翌年に亡くなっている。つまり私とは時代背景も違うわけだが、とても心情がよく理解できた。私は20代からずっと新聞社にいたが、40代の頃は夜の世界で生きていた。水商売をやっていたわけではないが、夜の歓楽街が私の庭になっていたのだ。それは約8年ほど続いた。その時に私は夜の世界の表も裏も経験した。それだけに濹東綺譚の世界はひじょうによく理解できたのだと思う。津川雅彦さんは文豪・永井荷風を見事に演じておられると思った。やはり素晴らしいの一言に尽きる。また墨田ユキさんはあまりにも美しく、心地よい。演技も最高だ。素晴らしい女優さんだと思う。今はまったくお見かけしなくなったが、残念で仕方がない。またいつかスクリーンで拝見したいものだ。
今朝のNHKラジオ深夜便人生の道しるべguestシンガーソングライターはサトウハチロー小さい秋見つけたが好きだと。確かに不思議な歌詞だ。調べて見ると戦前映画作品やGHQの公開禁止作品の勝利の日まで・成瀬巳喜男監督1944年等が検索され
加藤和彦と言う存在は、私の世代には余り印象にないが、この作品を通して、より身近に感じることができます。
『リトル・リチャード:アイ・アム・エヴリシング』
を鑑賞して欧米の音楽が身近に感じる様な作品。
ゴスペルの楽曲のタイトル的だが、それは、全面に出てはいないが、彼が、マスター的、存在なんだろ?
日本人は勘違いしがちだが、欧米も完コピがベースだ、日本の最近の音楽には、完コピがなおざりにされ、売れる作品的が多い。
加藤和彦氏は、『粋』の文化、京都らしい、歴史と伝統を踏まえ、外すから、世界的に愛され続ける。
彼も、粋、不協和音、自由から、ちょっと型にはまり、息苦しくなったのだろう?
本物を知るからこそ、不協和音、自由が、そこに、
シャネルが、高価と廉価をミックスした様に、
京都人らしい彼の人生だったと思う。
つい先日、『四月物語』と言う映画で、挨拶して消えた様に、彼も、傍でこの作品を共に喜んでいた様に、感じた。
🧔今朝のNHKラジオ深夜便アンカー村上さとあ,は父の日特集のSONGS,本篇一青窈のアリガ十々もまたパパの唄。他親父の海,河島英五の野風僧など名曲の数々も
ちょと、中国らしい演出とストーリー、馬の使い過ぎで、なかなか、入り込みずらい作品ではある。
やりたいことはわかるが、ジッキー・チェーンの作品と言うより、スタントマンへの敬意を込めた作品なので、往年の彼の作品を楽しみつつ、ご苦労様と労う様な作品。
人との出会いも伯楽の如く、そんな存在が欲しいものだ。
老驥櫪(ろうきれき)
駿馬の如く駆け抜けたジッキー・チェーンも、志は、今だ、衰えることを知らず、続く、志の者の登場を待ちわびたいものだ。
正に、馬にライド・オン的作品、なんだか、馬さん凄いけど、可哀想、もう少し人間頑張れ!
ストーリーや構成、演出、等、もう少し捻りが欲しいところだが、スタントマンへの労いの作品と言う敬意を込めこの評価です。
どこにも、チャレンジャーを探せなかった。
作品としては力を入れている様に見える、今時のSNS時代の見映えのするでき。
ただ、何事も、過ぎたるは及ばざるが如しで、
やたら、チャレンジャーズを画面で連呼し過ぎ、
やたら、詰まらない下ネタシーンに時間さき過ぎ、
やたら、キスが、意味なく長過ぎ、
やたら、ラケットを壊してモノを粗末にし過ぎ、
CM、イメージ画像、動画の寄せ集めの様な作品。
最近の、YouTubeや動画の見過ぎで、映画の面白さを失った、生成AIが作ったら、こんな作品になるだろ的作品。
そう言えば、後年の2010年にこの映画のリメイク作品である「トゥルー・グリット」(ジョエル&イーサン・コーエン監督)も一種のファンタジーである事を強調して映画化されていましたが、イーサン・コーエン監督も「トゥルー・グリット」の製作意図として、「現代人には非常にエキゾチックに感じられる世界に、14歳の少女が入り込んでゆくという点で”不思議の国のアリス”のような作品でもある」といみじくも語っていたのが、この事を象徴的に言い表わしていると思います。
三人三様に向こう意気が強く、最初は互いに罵り合っていましたが、旅を続け、共に闘ううちに、お互いの心を開き、やがて本当の親子のような関係になるというエピソードには、ヘンリー・ハサウェイ監督、なかなかやるなという印象を強く持ちました。
原作の小説を先に読んでから、この映画化作品を観ましたが、原作の小説がそうであるように、この映画のこのようなデリケートな味わいのエピソードというものは、結局、少女マティの見た夢のような印象を与えます。
原作者のチャールズ・ポーティスも、父親を亡くした少女マティの”無意識的な願望が生んだファンタジー”として構想されていたような気がしてなりません。
ジョン・ウェインが画面に登場すると、彼の映画の中での過去の異常でダーティな体験が、そのまま彼の体全体からにじみ出ているような男を、勝気で向こう見ずな少女マティが助っ人として雇う映画の最初のシーンに我々観る者は映画的なワクワク感と共に、魅力的な映画の世界にスーッと引き込まれてしまいます。
まるで、”少女マティの紡ぎだす夢の世界のような、非現実的で、心躍る展開”になって来ます。
助っ人としてもう一人、テキサス・レンジャーの若者のカントリーミュージックのスターのグレン・キャンベルが演じるラ・ビーフの三人で、父親殺しの犯人のトムの追跡の旅に出るというスリリングな物語が展開していきます。
この映画の白眉はなんといっても、映画ファンの間で伝説的な名場面として語り草になっている、クライマックスの馬上のコグバーンが、口に手綱をくわえ、ライフルと拳銃で応戦しながら、悪党一味の中に突っ込んで行く場面ですが、しかし映画ファンの大向こうをうならせる、その死闘の場面だけではなく、そこに至るまでの三人の追跡の旅の過程も味わい深く、興味深いものがありました。
彼は1964年頃から、癌と闘いながらタフでたくましい西部の男を演じ続けて来ましたが、今回の1969年の「勇気ある追跡」で初の汚れ役に挑戦して、それを見事に演じきり、今まで過少評価されていた演技力を広く認めさせる事になったと思います。
原作はチャールズ・ポーティスが1968年に発表して、米国で大ベストセラーになった「トゥルー・グリット」で、アメリカ現代文学史に残る名作として現在も長く読み継がれている小説です。
14歳の時、父親を悪党に殺された女性の一人称形式の小説で、成長した彼女の視点から振り返られた過去の物語という設定で、少女時代のキム・ダービー演じるマティに復讐の助っ人として雇われるのが、ジョン・ウェイン演じるルースター・コグバーン保安官で、彼は元南軍の無法ゲリラ部隊の一員で銀行強盗も働いた事もあるという、複雑な過去を持つ、クセのある人物像になっています。