自由が丘で:P.N.「pinewood」さんからの投稿
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-11
📷ラジオで下北沢の話題が出た時に何故か想出されたホン・サンス監督の映画・自由が丘でだった。主演加瀬亮は東京工芸大の映画イベントの際に登壇,guest出演し
📷ラジオで下北沢の話題が出た時に何故か想出されたホン・サンス監督の映画・自由が丘でだった。主演加瀬亮は東京工芸大の映画イベントの際に登壇,guest出演し
NHKラジオ深夜便明日への言葉は本篇出演の評論家・樋口恵子,夢と希望を持って生涯現役生活を生きる姿勢,本タイトル宜しく何ものにも恐れず其処には果敢な精神が
CGとVFXは違います。
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この映画「真昼の死闘」は、主演のクリント・イーストウッドがイタリアで「荒野の用心棒」などで大ブレイク後、アメリカ映画界に凱旋帰国後の作品で、マカロニ・ウエスタンの時みたいな髭づらで登場するが、さすがにアメリカ映画だから泥臭くない。
まず岩陰の凹地で、シャーリー・マクレーンが、三人の無法者に丸ハダカにされている光景を悠然と楽しんでいたイーストウッドが、やおら拳銃をぶっぱなし、さらにダイナマイトに口火をつけて脅かした上で、あっという間に片づけてしまう。
そして、シャーリーに服を着ろと言うと、なんとこれがアマさんのいでたちなのだ。
映画を数多く観てきた者なら、シャーリーが尼僧なんて眉唾だと思うだろう。
ドン・シーゲル監督もその点を心得ていて、二人で旅するうちにイーストウッドが彼女に好意を持ってくるが、尼さんだと思うがゆえに、手が出せないというおかしみや、彼女が隠れて煙草を吸ったり、たびたび尻尾を出しそうになる場面を織り込んで、興味をつないでいくところは、さすがにドン・シーゲル監督うまい。
そして、もうひとつの興味は、各場面の芸のこまかさにあるんですね。 革命時代のメキシコで、威張っているフランス守備隊をやっつけ、大金をいただこうというイーストウッドが、スパイ行為でフランス側に追われるシャーリーと、数々の冒険を経てゲリラと合流し、敵の本拠の村を襲撃、大金も手に入れて、実は娼婦だったシャーリーとめでたく旅に出る。 この冒険の途中で、退治したガラガラ蛇を利用してフランス兵の眼をそらしたり、イーストウッドがインディアンに射込まれた矢を抜いたりする場面などを、こまかく丁寧に描写することで、面白さを出していると思う。 だから、ゲリラと一緒に村を攻撃するクライマックスが、かえってありふれた感じでつまらなくなったのが、ちょっと残念な気がしましたね。 それにしても、シャーリーが真っ赤なゴテゴテ衣裳になる最終のお笑いなど、やはり、役者としてはシャーリーの方がイーストウッドより一枚も二枚も上手ですね。
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「アルカトラズからの脱出」を監督したドン・シーゲルは、この映画を撮る25年前に、実際にアルカトラズ刑務所を取材したそうだ。
もちろん、この映画のためではない。その頃、彼は「第十一号監房の暴動」という映画を撮っていたからだ。
サンクエンティンやフォルサムといった悪名高い刑務所も同じ時期に訪れ、なんとも憂鬱な気分にさせられたらしい。
この「アルカトラズからの脱出」は、1960年に起こった実際の事件を下敷きにしている。
当時、この島からの脱出は不可能とされていた。
警備が厳しく、海流が速く、水温が低いという三条件が揃っていたからだ。
その刑務所に、クリント・イーストウッド扮するフランク・モリスという犯罪者が移送されてくる。
ドン・シーゲル監督は例によって、彼の素性や背後関係を明かさない。
モリスが脱獄の名人であり、それだからこそ、この島へ送られてきたという事実にのみ照明を当てる。
あとは刑務所内部の描写だ。果たして、どんな囚人がいるのか? パトリック・マクグーハン扮する所長は、どんな性格なのか? 刑務所はどうやって囚人の人格を破壊するのか? 道具の調達はどうやって行なうのか? ドン・シーゲル監督は、実に無駄なく、こうした細部を語っていく。 その語りに従えば、観ている私はモリスの内部に導かれるのだ。 と言うより、モリスとともに脱獄のプランを真剣に練り始めるのだ。 誰を味方につけるか。時期はいつを選ぶか。監視の目はどう欺くか。 相棒選びだけは、やや説得力を欠くが、他は文句なしに渋い。 ドン・シーゲル監督とクリント・イーストウッドの名コンビは、この作品が最後となったが、隠れた佳作だと思いますね。
この映画「マンハッタン無宿」は、クリント・イーストウッドとドン・シーゲル監督が初めてコンビを組み、後のダーティハリー・シリーズのきっかけとなった、記念すべき作品ですね。
この映画「マンハッタン無宿」は、アリゾナで人を殺しニューヨークで逮捕された男を引き取るため、生まれて初めて大都会ニューヨークを訪れたアリゾナの田舎の保安官補クーガン(クリント・イーストウッド)は、複雑な警察機構に業を煮やし、独断で病院へ乗り込み、LSD中毒で入院中の犯人を強引に連行してしまいます。
しかし、空港で犯人の仲間に襲われ彼を奪取されて、クーガンの怒りが爆発。
アリゾナの荒野を駆ける勢いそのままに足で、オートバイで、摩天楼の街を駆け巡り、遂に犯人を逮捕するのです。
このアリゾナの田舎の保安官補クーガンは、アリゾナでは腕利きだが、ニューヨークでは単なるおのぼりさんにすぎず、茶色のスーツを着て、テンガロン・ハットをかぶり、ブーツを履いた野暮なウエスタン・スタイルは、市民たちから好奇の目で見られます。
中には、露骨にからかう者もいて、彼らは口を揃えて「テキサスか?」と尋ねます。 すると、そのたびにクーガンはうんざりしたような顔で「アリゾナだ」と応えるという、このシーンには思わずニヤリとしてしまいます。 とにかく、このクーガン、からかわれても、馬鹿にされても、眉ひとつ動かさず、平然とアリゾナの荒野で犯人を追い詰めた時と同じやり方で、黙々と自分流の捜査を推し進めて行くのです。 そして、犯人を護送の途中、不覚にも逃げられたという屈辱に耐える事は、西部男の誇りが許さないのか、ニューヨーク市警の警部(リー・J・コッブ)に、「ここでは君はひとりの市民にすぎないのだ。さっさと、OK牧場へ帰れ」と、冷やかし半分の言葉を投げられても、彼は頑として受付けず、あくまでも、たったひとりで勝手知らないニューヨークの街を歩き回って、犯人の行方を追いかけるのです。 それは、警官としての職業意識とも言えるし、犯罪者への怒りとも言えるかも知れません。
ヴィム・ヴェンダースさんにとっては「ベルリン・天使の詩」の、役所広司さんにとっては「うなぎ」のリメイクのような映画。
ただ本作では、天使というファンタジーも、妻の浮気・妻の殺害というサスペンスも用いていない。簡素なルーティンの中で生きる無口な人を描くこと・演じることで、むしろ人間の心がダイナミックに動く・動いている様(move)を、より高い純度で表現されている。至極の映画(perfect movie)。
心の動きに真摯に向き合って生きることの尊さを、省みさせていただいた。
怒りのデスロードとの辻褄が合ってないと言われてる方々がおられます~その通り合わないのです~今回のフィリオサの物語はヒストリーマンが語る神話であって怒りのデスロードの前日談ではないのでしょう~配役からシャ―リィーズ.セロンとアニャ.テイラー=ジョィではどちらとも美しいですが体格が違います~ヒストリーマンの語るフィリオサはアニャなのです~怒りのデスロードのフィリオサは、シャ―リィ-ズ.セロンなのです!~~~余談ですがフィリオサの母親は殺される前にレイプされてます~ヒストリーマンが語らないだけです!
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"戦時下で宿命的な悲しい恋に落ちた、二人の男女を繊細なタッチで描いたフランス映画の佳作「離愁」"
この映画「離愁」は、「帰らざる夜明け」のピエール・グラニエ・ドフェール監督が、メグレ警視シリーズで有名なジョルジュ・シムノンが、1961年に発表した「列車」を映画化した作品で、主演は「Z」「暗殺の森」のジャン=ルイ・トランティニャンと「追想」「夕なぎ」のロミー・シュナイダー。
第二次世界大戦下、フランス北部の田舎の人々は、ドイツ軍の侵攻を恐れて、疎開列車で故郷を去らねばなりませんでした。
村人たちと共に列車に乗った、中年のラジオの修理工のジュリアンとその家族。
女や子供たちは客車へ、男たちは貨車へ。
列車の行く先々で避難民が乗り込み、ジュリアンの車輌に、アンナというドイツ生まれの謎のユダヤ人女性が乗って来ます。
身動き出来ない貨車の中で男と女は、道ならぬ恋と知りつつ愛情を深めていきます。
やがて、引き離される運命の時が来て--------。
このように、第二次世界大戦下、戦火を逃れるために乗り合わせた疎開列車の中で、明日の命もわからぬジュリアンとアンナが、刹那的な焦燥感にかられて、"生きずりの恋"に陥るという、戦時下の宿命的な悲しい恋を綴った痛ましいドラマを、ドフェール監督は、カメラのほとんどを列車内に置きながら、我々観る者を飽きさせる事なく、繊細なタッチで描写し、緊張感みなぎる映像で見せてくれます。 そして、この映画のラストで、最高潮に達するドフェールの見事な演出。 数年後、レジスタンスの一員として捕らえられたアンナと、秘密警察に呼び出されたジュリアンがまたしても、運命的な再会を果たします。 そこで、ジュリアンは、自己の保身のために、アンナを知らないと言い切るつもりが、全てを忘れて彼女を抱きしめてしまうのです。
ジャン=ルイ・トランティニャンとロミー・シュナイダーという、二人の名優の演技が、感動的とも言える鮮やかな幕切れとなって、我々の心の琴線を震わせるのです。 現在、観る機会が少なくなって来た、繊細で、しっとりとした情感溢れるタッチの、古き良きフランス映画を観る幸福感を味わえる佳作だと思います。
友人はかなりの映画好きで、映画ネタを熱く語ります。
ファブリツィオは、それほど映画通ではないので、半分上の空で聞いているのですが、映画好きな友人は熱心に「ハンフリー・ボガートとローレン・バコールの『三つ数えろ』はどうたらこうたら」とか「アンナ・カリーナがどうたらこうたら」などと喋りまくるのです。
私は、この映画ネタシーンを何度も巻き戻しては、繰り返し観てしまいました。
ベルトルッチ監督の原点が、ゴダール監督であることがミエミエで非常に興味深かったですね。
このファブリツィオには婚約者がいて、彼は、結婚直前に他の街からやってくる叔母であるジーナと火遊びのような恋をしてしまうのですが、二人のベッドシーンが実に官能的なのです。
この見せ方は、見事としか言いようがありません。
この時代、ハリウッドにはヘイズコードがありましたが、イタリアにはなかったんですね。
とにかく、私に戦慄を与え、刺激してやまないこの映画は、即興風の演出、本の朗読や引用が多用され、ヌーヴェル・ヴァーグの影響が随所に現われ、ブルジョワ青年の苦悩を抒情的に描いた青春映画の忘れられない名作となったのです。
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この映画「革命前夜」は、いろんな意味で、物凄い衝撃を受けた作品です。
今では巨匠と呼ばれているベルナルド・ベルトルッチ監督が、22歳の時に撮った長編第2作で、1960年代の地方ブルジョワの精神状況を、みずみずしいタッチで描いた半自伝的な作品なのです。
この映画は1964年の作品ですが、今観ても少しも古くささを感じさせない斬新なカメラワーク、卓越した脚本、そして主演の二人の素晴らしいこと。
音楽はエンニオ・モリコーネで、切なくて美しいメロディの音楽が映像とぴったりと合っていて、胸を揺さぶります。
モノクロなのですが、映像そのものが、どのシーンもとても色っぽいのです。
それは、セクシーという意味ではなく、艶やかと言ったほうがいいのかもしれません。
地方都市パルマのブルジョワ出身の青年ファブリツィオは、コミュニストであることを自認している。
しかし、同じ年頃の友人アゴスティーノの死や、若い叔母との近親相姦的な恋愛を経験して、次第に自分の思想の欺瞞性に思い悩むようになるのです。
結局、ファブリツィオは、自分がブルジョワの一員であることを受け入れ、ブルジョワの婚約者と結婚することになるのです。 この映画でいちばん絶賛したいのは、ズバリ、脚本です。 思わず書きとめたくなるような詩的で印象的なセリフが、全編に散りばめられているのです。 例えば、主人公のファブリツィオ(フランチェスコ・バリッリ)が、恋をする相手であり叔母さんであるジーナ(アドリアーナ・アスティ)が、「あなたは私の倦怠の治療薬」などと言うのです。ドキッとするセリフもあるし、なるほどなとうなずいてしまうセリフもあるし、本当に魅力にあふれています。 そして、映画の中盤あたりで、ファブリツィオとその友人が、ジャン・リュック・ゴダール監督の「女は女である」という映画を観て、映画館から出てきて、喫茶店でお茶を飲むシーンがあります。
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この映画「高校教師」は、陰鬱で、言いようもなく、暗い炎が燃え盛る愛のドラマだ。
なんという苦さ、なんという虚無感だろう。
この映画は、イタリアの叙情派のヴァレリオ・ズルリーニ監督の、いわば"心情的"な自伝映画なのだと思う。
イタリアのリミニの町へ、高校の臨時教師としてやって来た、37歳のダニエレ・ドミニチ(アラン・ドロン)は、成熟した19歳の美しい女生徒ヴァニーナ(ソニア・ペトローヴァ)を、本当に愛したのだろうか。
寡黙で拒否的な、謎めいたこの教え子に「君の痛みや、どうにもならない憂鬱を見ていられないんだ」と近づく彼の、それは恋慕というより"自己愛"ではなかったのか。
彼が生徒の前で口にする、イタリアの詩人や文豪、ペトラルカやマンゾーニやレオパルディの作品には、たとえ恋の憧れを謳おうとも、"厭世の影"が色濃く漂うのだ。
そして、その翳りは、そのままダニエレのものなのだ。
暗い暗い絶望感でもあるのだ。
かつて従妹の少女リビアを、初恋の16歳で自殺に追いやってしまった彼は、その青春の打撃を、悔恨を、罪の意識を、今も引きずるかのように見える。 だがその背後に、いや底に深く根差すのは、彼の名門の家系なのだ。 エル・アラメインの英雄として戦死した大佐の亡父と、ラストの葬儀に凝然と凍り付く横顔を見せる母、そして彼が学んだ神学も含めて、全て偽善と虚偽の権勢による重圧への、反抗と憎悪の果ての絶望こそが、今のダニエレ・ドミニチを無限の虚無感に沈ませるのだと思う。 遠い日、彼が亡き少女リビアに捧げたという詩集「静寂の最初の夜」は、むしろ彼の"若気の至り"ではなかったのか。 "死こそ静けさの初めての夜-----"と謳った、あの若気の情熱への追慕を、今ダニエレは、美しい教え子ヴァニーナの上に重ねるのだ。 金髪のなまめいた女装の男が「彼女は危険よ。たくさんの過去と、少しの現在と、未来はゼロの女よ」と囁いた、ヴァニーナの上に。 彼の中で燃え盛る暗い情熱の炎は、死への志向だ。
彼はヴァニーナを、"愛"ではなく"死"への道連れに選びとりながら、だがなお彼は、自ら死に踏み切れず、自動車事故という形で「静寂の最初の夜」を勝ち取るのだ。 そして、ダニエレと妻モニカ(レア・マッサリ)、かつて人の妻であった彼女と、彼女を盗んだ彼とは、互いの傷口を指でえぐりあうようにして、"罪の共犯意識"を嗜虐的に確かめ合う。 自分を淫らに貶めることで、逆にダニエレの愛をモニカは求めるのだけれど、彼にはもはや愛はなくなっているのだ。 いや、最初から愛はなかったのかも知れない。 ヴァニーナが、実は"娼婦"であったことは、観ている者にとって大したショックではない。 むしろショックは、これほど気分を出して官能場面を描きながら、その実、ズルリーニ監督は、本当に"愛をこめて"女を描いてはいないことだ。 夏の時期以外は、パタリと寂れてしまうこのアドリア海に面した北イタリアの海水浴の町リミニ。 シーザーが「ルビコンを渡った」そのルビコンの"小川"を少し北に持つ、閉鎖的な救いがたいリミニの町の、荒涼たる冬の風景に、トランペットとサックスのけだるく哀切な響きが高鳴っていく。
この映画は、かつて女を恋した、あるいは愛そうとした情熱も、今は"失われた幻想"となったズルリーニ監督の、これはエゴイスティックな男の映画なのだと思う。
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この映画「麦の穂をゆらす風」のタイトルは、英国からの支配への抵抗のシンボルとして、アイルランドに伝わる同名の歌からきているという。
「外国の鎖に縛られることは---つらい屈辱」という歌詞が、映画の多くを物語っている。
1920年代、英国統治下のアイルランド。独自のスポーツ、ハーリングさえ咎められる時代。
緑の丘が広がる静かな土地で、独立を求める男たちは、ハーリングのスティックで戦う訓練をしている。
医者の道を捨てて戦いに加わったデミアン(キリアン・マーフィー)もその一人。
英国の武装警察隊の暴力で、普通の暮らしをしていたデミアンが、戦う男に変わっていく過程が、冷徹な視線で抑制的に描かれる。
停戦の後、アイルランドは、英連邦の自治領となったが、デミアンはともに独立を求め戦ってきた兄(ポードリック・ディレーニー)とも、袂を分かつのだった-------。
社会派で知られるケン・ローチ監督は、拷問で爪を剥がされる男の痛み、家を焼かれ髪を短く切られる女の悲しみを、観る者にそのまま体感させる。
アイルランドの歴史を通して綴られるのは、戦う相手が別にいたはずなのに、いつしか同郷の者同士が争い始めるという万国共通の構図だ。 アイルランドの歴史をあまり知らないで観ていたが、みるみるうちに、その普遍性に引き込まれてしまった。 老婦人が歌う「麦の穂をゆらす風」が、実に印象的だ。 どんな目に遭っても、自分の土地から離れようとしない老婦人の強さが、かすかな希望を感じさせてくれる。 世界のどこかで繰り返されてきた悲劇と、普通の人々の痛みを思い起こさせて、この映画は、カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した。
9日の上映の感想です。
場内はほぼ満席でした。
上映前に売店で、ポスターなど関連グッツを購入してるFUNのかたなどおりました。
上映開始、プリンス財団はこの製作には関りがないとテロップがながれました。気にせずみてるとまず、ブラックミュージックの起源のはなしからはじまりました。そのあと、チャックベリーやジミヘンなど歴代の大物のはなし、なkなkプリンスの名前がでてきません。
プリンスの写真がでてきましたが、楽曲は1曲も流れません。
とうとう眠気におそわれるぐらい退屈な作品でした。
題名でだまされたお客はほぼ全員とおもわれます。
🦉NHKラジオ保阪正康の人物史は梅原猛の第一回だった。本篇のような千利休も視野に歴史哲学を考察した同氏,原点は先の戦争から受けた心の傷痕に在ったと云う。
今日は時の日,ジェイウェイブのラジオ番組でケンブリッジ天文台の話題がー。そしてビックベンの話も。時刻が正確に記されるのは鐵道の発達と関連して居ると云う。英国でも本篇に出て来るビックベンのように正確な公共時計は少ないのが実態だとか
赤ちゃんや子供たちが輝いているのは、全身で喜びに生きているから。
何でそんなに嬉しいことがあるのだろ?と大人は忘れている。
光と闇、
昨今の芸能界の光と闇が暴かれ、才能より、売れることに熱中した結果、歪んだ
、音楽が聞こえない芸能界となり久しい、そんな世界を結果的に描いてしましたように思う。
仕事、育児、そこに喜びを見いだせば、人生は、光輝く。
喜びでシャッターを切る時、そこには美しい光がある。
喜びで、田植えをする姿に、美しさを感じる。
喜びで、子供を育てる姿に、美しさを覚える。
あなたが、喜びのアングルで人生、その時、その場所を生きれば、そこは光輝く、喜び、地上の楽園となる。
猫は抱くものをまた観て、とても感動した。これは何よりもほっこりした気分にさせてくれたからだ。最近、野良猫が我が家の庭を歩き回ることが多かったから、猫はいつも気になっていたのだ。それだけにひじょうに興味深かった。この映画で沢尻エリカさんが出演されている。私は彼女の大ファンだ。沢尻エリカさんと言えば、今年の2月に舞台で復帰された。私は大阪公演に出かけて、祝電も送らせて頂いた。彼女の演技はやはりあまりにも素晴らしかった。私はまたタイミングを観て、この公演を再演されたらどうかと思う。欲望という名の電車という作品は原書でも日本語でも読んだが、パーフェクトな内容だ。また沢尻エリカさんを何度も舞台で観てみたいと思う。
韓国検察の腐った体質に真っ向から立ち向かう一人の刑事の胸熱映画。
本年度ベスト級。
スーパーでの強盗殺人事件で冤罪となった3人の少年の無実を証明しようと孤軍奮闘するソル・ギョングさん演じる刑事、ファンの実話ベースのストーリー。
韓国の検察の腐った体質を全面に描いていて、良く当局からクレームが付かなかったと思う位のクソ映画だった(笑)
人権を全く無視した最低な展開。
検察が無実の少年達を犯罪者にして行く行為が酷すぎた。
そんな子供達の無実を証明するためファンの行動が熱かった!
検察側のファンに対する圧力がハンパ無い!
ファンの妻が経営する食道や警察官のファンの娘に対する嫌がらせが酷すぎた。
そんな中、ファンが真犯人を突き止めてからの展開に引き込まれる。
幸せに暮らす真犯人を説得させ裁判に登場するシーンが胸熱!
まさか感動の涙が流れる作品とは思わなかった(笑)
ラストの裁判所を出た所での記念写真がメッチヤ良い!
真犯人の奥さんがとても綺麗な方でした( ´∀`)
心地よいガールズトークの会話劇が満載の作品。
本年度ベスト級。
両親を事故で亡くした女の子。
朝(アサ)を演じた早瀬憩さんの演技が素晴らしかった!
今まで存じなかった役者さんだけど、今後スクリーンに多く登場する予感!
彼女のインスタは観賞後に即フォロー(笑)
両親を事故で亡くした朝。
母親の妹の新垣結衣さん演じる槙生(マキオ)が引き取り共に生活して行くストーリー。
特に新垣結衣&夏帆さんの会話が最高に良かった!
その会話に早瀬憩さんも遜色無く加わって行く感じ!
餃子を3人で作るシーンが最高!
餃子がメッチャ熱そうだけど美味しそう。
早瀬憩さんの今後が楽しみ!
女子トークが多い中、男性陣がチョイ役ながら光ってた感じ!
瀬戸康史&染谷将太さんが作品のスパイスになっていた印象。
ぶっちゃけ上映時間139分は長いと感じお尻が痛くなったけど自分好みの作品で満足度はソコソコ。
何故か、綾瀬はるか&長澤まさみ&夏帆&広瀬すずサンが登場する4姉妹の作品を思い出してしまった。
早瀬憩さんの今後の活躍に期待しかありません( ´∀`)