柳川堀割物語:P.N.「pinewood」さんからの投稿
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-09-27
🌿意外なことに,福永武彦著廃市は,そんな掘割の風景を舞台に愛憎が紡がるロマン
🌿意外なことに,福永武彦著廃市は,そんな掘割の風景を舞台に愛憎が紡がるロマン
NHKラジオ朗読の時間で本篇がスタートして居る。原作者のよしもとばななと画家の横尾忠則の対談本が文庫に在って吉本がペットの夢を見たと云うと其れは貴女自身でしょと指摘され,自分で自分を飼うの?と
なかなかの仕上がりの作品だとは思いましたが、
バックグラウンドの見えない話が、恐らく、掘り下げが弱いので、ストリートが、さほど、深く突き刺さらない。
台詞の「刀は、魂だ、」と言うニュアンスの場面。又、雑な扱い、あまり、武士としては、隙だらけ、しまいには、大切な刀を無くして、転げるばかり、同じシーンが重複し、もっと他に描けると感じる。
アイヌ文化の描写は、割合、自然だったのでは、
過去に、幾つかのアイヌ関連の作品を鑑賞していたので、
アイヌ文化には、深い掘り下げがあったからだろう?
ただ、主人公、又、その他については、再現力は、良かったが、内面が、まだまだ伴わない印象。
ストリートの整合性が、少し、雑かな?
「砂の器」が、参考になると思います。
何事も、一朝一夕には、勤勉さを表す、継続は力なり、日本の発展には、勤勉さが不可欠ですが、根底には、継続は力なりがあります。
武術の鍛錬、仕事、何事にも、継続は力なりが、支え、飛躍する日本を支えています。
高校の時,国語の教師に借りて読んだ福永武彦著海市,同じ著者の原作がモノローグ見たいに紡がれる大林宣彦監督の本篇映像と先の本の印象とは全くの別もの。内容が違うから当然か。映像化の違和感は文体をフィルムにする思い入れの行為と読書と云う個人的なイマジネーションの差異なのか
NHKCultureラジオのゴシック文学で紹介された一本の映画がゴシック・クラシックの名篇。そして本篇の元に為ったロバート・ワイズ監督作品たたり1963年何だね
ナン・ゴールドウインのtwo couplesと云う写真集を手に取って見る。本篇のことを想い出しながらキャプションと共に観る。次第に体温が高まって居る自分に気付いて
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一方、体制の中でぬくぬくと安穏に生きている、アンソニー・クイン演じる警察署長には、このむざむざと射殺されに帰ってきたような男の気持ちが、到底、理解出来ません。
しかし、自分には解らない厳しい何かが、このマヌエルという男の生き方の中にはあるというのを思い知らされる事になります。
ヒゲ面で一本気で寡黙な初老のスペイン人の元兵士という難役を、グレゴリー・ペックはかつて、「白鯨」のエイハブ船長を演じた時にも見せた、執念の男を、静かな中にも燃えさかる闘志に満ちたマヌエルという役を見事に演じていて、「アラバマ物語」「紳士協定」と並んで彼の代表的な役の一つだと思います。
フレッド・ジンネマン監督は、深く奥行を持った、ヨーロッパを舞台にしたこの映画をロケーション中心のリアルで端正ともいえる白黒の画面に、きびきびとした鮮烈なタッチで描いてみせて、やはり、彼のリアリズムの演出技法にはうならされてしまいます。
安息日に働いたために、月曜日に例え殺されるとしても、日曜日に鼠を殺す事は必要ではないのか-------。
人は目先の現実的な利益よりも、自己の”人間としての誇りや尊厳や矜持”といったものが、より重要で、それこそが人間としての真の生き方ではないのかと、この映画は静かに訴えかけて来ているような気がします。
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マヌエルのこの不可解な行動には、何の意味もなく、ただ母親が死んだという事を事前に知り、そのため、死んだ母親に会うという目的以外には他に何もないし、恐らく母親が安置されている部屋まで行ける可能性もほとんどないという状況です。
つまり、彼の行なおうとする行為は全くの”徒労”に終わる事は目に見えています。
しかし、それなのに、彼はピレネー山脈を越えて、敢然と故郷の村へと向かうのです。
この彼の行為を支えるものは、恐らく、彼が全生涯を賭けて、今まで闘ってきたものに殉じるためであり、自分の生きてきた人生に嘘をつかず、無にしないために、敢えて彼は、”徒労”と言うべき行為を選択したのだと強く思います。
つまり、このある意味、汚れた退屈な世界で生きていく事とは、彼にとっては生き恥をさらす事だという事を、20年の歳月の中で思い知った男が、しかし、自分が生きるという事の根本にある何か—アイデンティティのために、罠が自分を待ち受けているのを知っていながら、死を覚悟して、スペイン市民戦争で追われた故郷の村へと帰っていったのです。
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この映画は、「地上より永遠に」「わが命つきるとも」の名匠フレッド・シンネマン監督の作品で、スペイン市民戦争で反ファシズム戦線に加わって戦い、フランコ将軍のファシスト側に敗れ、フランスに亡命して20年が経過した、人民戦線側の伝説的な生き残りの兵士マヌエル(グレゴリー・ペック)は、故郷のスペインに残して来た母親が病の床に伏せっている事を知りながらスペインへ戻る事を躊躇っており、また、かつての彼の同士の息子の少年の訪問を受け、マヌエルの情報を得るために、マヌエルを執拗に追い求める、スペインの警察署長(アンソニー・クイン)が少年の父親を殺したので、父親の敵を討ってくれるようにと懇願されても、この少年を冷たく追い返したりします。
そんな無為の日々を送るマヌエルが、再び武器を持って厳しい雪のピレネー山脈を越え、旧敵の警察署長が彼を狙い、待ち伏せして、罠を張り巡らせている故郷の村へ、確実に死というものが待ち受けている場所へ、”蒼ざめた馬に乗った死が黄泉を従えて待っている”場所へ、なぜ帰ろうとしたのか?。
この映画は、全生涯を賭けて闘ってきたものに殉じるために、徒労という人生の選択をした男を静かに描いた秀作だと思います。
この映画「日曜日には鼠を殺せ」の原題は、「BEHOLD A PALE HORSE(蒼ざめた馬を見よ)」となっており、これは「ヨハネ黙示録」第六章第八節にある有名な言葉で、映画の冒頭で、「蒼ざめた馬を見よ。これに乗るものの名を死といい、黄泉これに従う」と説明されています。
この「蒼ざめた馬を見よ」というフレーズを聞くと、どうしても作家の五木寛之が文壇への鮮烈なデビューを飾り、直木賞を受賞した同名の小説を思い出しますが、もともとは、ロープシンという作家の「蒼ざめた馬を見よ」が原典になっているようです。
そして、この映画の原作の小説は、映画「赤い靴」の監督、脚本家としても有名なエメリック・プレスバーガーの「Killing a Mouse on Sunday(日曜日には鼠を殺せ)」で、聖書の教えを忠実に守る敬虔な清教徒の人々は、日曜日は安息日なので働いてはいけないと考えていて、だから、日曜日に鼠を殺した猫がいたとしたら、月曜日に猫は清教徒に殺される—-という意味を表しており、つまり、日曜日に鼠を殺す事は徒労であり、そのために手痛いしっぺ返しを食らってしまうという、この小説のテーマを象徴的に暗示している言葉になっていると思います。
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この映画化作品は、確かに舞台そのものを模倣しているところがあり、アブストラクトな装置やスモーク、ワンショットが非常に長く、カット数も少ないため、まるで舞台そのものを観ているような気になり、映画を観ていることを忘れさせてくれます。
しかし、ここには、オールド・ヴィク座の舞台での歴史的な成功とはまた違う、オリヴィエの映画的欲望といったものが、もう凄まじいまでの重厚さで埋め込まれていると思う。
例えば、亡き父の亡霊に復讐を誓った後、カメラは亡霊の目になって、事の真相を知らされて絶句するハムレットを見つめながら階段を昇って行く。
また、母親ガートルードとのいさかいの場面に、ハムレットを諫るため自ら登場した亡霊は、その後、またしても、もがき苦しむハムレットを見つめながら、部屋の階段を昇って行く。
どちらも、ハムレットを一人残して亡霊、つまりカメラが階段を後ろ向きに引いて行くショットとなっている。
つまり、ここでは観ている側の我々の視点と亡霊の視点が一体化しているのだ。
そのため、亡霊の目で、この復讐劇全体を眺めるという、稀有な「ハムレット」体験を可能にしてくれていると思う。
そして、この後ろに引いて行くショットは、もう一箇所出てくる。
オフィーリアに「尼寺へ行け!」と暴言を吐いた後、舞台劇ではもっと後の場所なのだが、この映画では、そのまま城の上まで一気に昇って、この劇で最も有名な「生きるべきか死ぬべきか」のモノローグになる。
それはあたかも、亡霊に呼び寄せられたかのように、城の上に出て行く印象を与えている。
つまり、ハムレットは、ここで亡霊と一体化するのだ。
そのため「生きるべきか死ぬべきか」というセリフが口をついて出てくるのだ。
まさに生死をさまようハムレットが、この映画的手法によって表現されているのだと思う。
その他にも、黒と白との息詰まるコントラストや、ナレーションによる独白などで、復讐に焦点を絞った、明晰で、理性的なハムレット像を創ったオリヴィエは、ここでは、舞台ではなく、まさしく”映画のハムレット”を生み出しているのだと思う。
この映画「ハムレット」は、イギリスを代表するシェイクスピア役者の名優ローレンス・オリヴィエが、製作・監督・主演をし、自身アカデミー主演男優賞も受賞したハムレット映画の決定版だ。
そして、このウィリアム・シェイクスピアの代表的な舞台劇の映画化にあたり、当時、彼が主催する名門オールド・ヴィク座から多数の舞台役者を招聘し、重厚で見応えのある作品に仕上げていると思う。
暗い画面の中に渦巻く霧が割れて、遥か下方に、陰鬱そのものの様なエルノシア城の望楼が、黒々と浮かび上がってくる。
これが、この映画「ハムレット」の全てを象徴しているように思う。
デンマークの王子ハムレットは、亡き父王の亡霊に出会い、父が暗殺されたことを知り、殺害者で、現国王のクローディアスに復讐を誓う。
そのため、ハムレットは狂気を装うが、誤ってオフィーリアの父ポローニアを殺してしまう。
そして、旅芸人一座に暗殺劇を上演させて、クローディアスの犯罪を突き止めたハムレットは、クローディアスに唆されたレアティーズと試合をするが------。
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なー君がすべて悪い
一言で言えば、TILY はカラフルな感情、設定、キャラクターの旋風で、幻のような物語です。
3 種類の愛情関係、個性が強い人物、様々な映画のジャンルまで、全てが 2 時間の映画に含まれています。夢のよう、私達が生きている現実の少し誇張されたバージョンで起こる全ての出来事には少しの魔法が伴います。それはこの物語の魅力だと思います。
この映画は私を泣かせ、笑わせ、そして愛する人々との関係について考えさせました。登場人物は自分の人生の中で意味を見つけ出します。 期待して来た事を手に入られなくても他の形の幸せを見られるようになります。
演技は上手くて、台詞は時にちょっと変わっても...変わったから面白い、カメラワークはダイナミックで、サウンドトラックは本当に美しいと思っております。
現実に基づいて評価することより、愛についてのメッセージを受け入れれば、誰でもこの映画の意味を把握できると信じています。
Tokyo I Love You 🗼❤️
刑務所シーンでの演奏曲は何でしょうか?
NHKラジオFM紺野美沙子ナビゲーターの音楽遊覧飛行はアラン・ドロン特集,ロベール・アンリコ監督の本篇の愛しのレテイシアはアラン・ドロンが唄って居るんだね
今朝のNHKラジオ深夜便私のアート交遊録guestは俳優・監督・アーティスト竹中直人,フランス映画の本篇を三度観たと。エンディング曲も番組で流れ。其処で予告篇を視聴す。繊細な不安感情がお気に入りか
重たいテーマですが脚本、演出が良く、出演者みんなにちゃんと光が当たってる。韓国が舞台というのもよかった。130分と長いけど飽きずに観れました。是枝監督、さすがです。
アマゾン河をさかのぼり、人類未踏の奥地へ激流を越え、ジャングルに船を通し、男は進んだ。
何故か? 密林を切り開き、ゴム園を作りたかった。
何故か? 金を儲けたかった。何故か? 男には夢があった。
大陸を横断する鉄道を敷くこと。
歌劇王カルーソを呼び寄せ、オペラを演じさせること。
羽ばたけ男。身に余る夢を持てとばかりに描き尽くす。
陶酔的に、自らの裡なる男を煽動したがるのも、無理はないと思えてくる気宇壮大な映画だ。
逃れることのできない柔肌の感触。
厳しくも哀しい愛の宿命を抉って、衝撃にも似た感動を貫く、鬼才・フランソワ・トリュフォー監督の野心的な秀作だ。
地位も家庭も忘れて燃えた、異郷リスボンの一夜の情事。
フランス・ヌーヴェルバーグの旗手、フランソワ・トリューフォー監督が、赤裸々に描き尽くした、告白的な愛と情事の悲劇が、戦慄を覚えるほど、素晴らしい。