映画感想・レビュー 16/2575ページ

喝采(1954):P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2025-04-17

グレース・ケリーの短いハリウッドでのスター人生において、アルフレッド・ヒッチコック監督の手による「裏窓」と「泥棒成金」の2作品の間に位置し、そしてアカデミー主演女優賞を彼女にもたらしたのが、この映画「喝采」だ。

ブロードウェイのヒット戯曲の映画化であるこの作品は、モノクロフィルムによる作品ですが、それとは関係なしに、ヒッチコック作品の時のグレース・ケリーとは、まるで違う彼女の一面を楽しめる作品だと思う。

物語は、かつては人気エンターテイナーであったが、今はアル中となってしまった夫(ビング・クロスビー)とその妻(グレース・ケリー)。

ある日、夫に舞台の主役の話が転がり込む。
なんとか立ち直ってもらおうと献身的に尽くす妻だったが、夫は舞台の悪評に落ち込むばかり。
そんな時、若き演出家(ウィリアム・ホールデン)は彼女に抱いていた熱い想いを告白するのだった------。

簡単に言ってしまえば、バックステージものの三角関係のドラマ。
とはいえ、グレース・ケリーをはじめ、ビング・クロスビー、ウィリアム・ホールデンというベストなキャストによる名演で、多くの映画ファンの心をつかんだ傑作だと思う。

この作品でのグレース・ケリーは、ヒッチコック作品の彼女とはまるで別人のような感さえしてきます。
ヒッチコックが愛したグレースは、ここにはいません。
ここにいるのは、決して本心を見せない”冷淡で暗い”人妻なのです。

彼女は、人生に疲れながらも恋に揺れ動く。
映画の中盤でその苦渋の思いを、ウィリアム・ホールデン扮する若き演出家にぶつけるシーンのグレースの演技は圧巻だ。

いくら女は強いといわれても、それは最終的に頼ることのできる男がいる上でのことだと思わずにはいられない。
今も昔も、女の本質は変わっていないのだと思う。

春夏秋冬そして春:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2025-04-17

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山奥にひっそりと建った古寺。その古寺は、そそり立つ険しい山々に囲まれ、鏡のように静かな湖の真ん中に浮かんでいる。

景色が四季にうつろう美しい在り様を眺めるだけでも、この映画を観る価値は十分にあると思う。

山と湖の遠景は、山水画を見ているような趣があるし、寺の建物や湖の周辺の樹々はくっきりとその姿を示している。

一分の緩みもなく緊密に組み立てられた映像が、俗世と完全に隔絶されたありのままの自然を、それだけでひとつのスペクタクルにしていると思う。

ただ、そうは言っても、その景色の中にいる”人間の在り様”が、この映画の大きなテーマであることは言うまでもないだろう。

春のうららかな萌える青葉を背景に描かれるのは、老僧に育てられる幼年僧の無邪気な行動と、それによって知らずに発した生類への罪を問う挿話だ。

夏の生命力みなぎる深緑を通しては、少年になった僧が少女に恋心を抱き、彼女を追って町へ出奔するいきさつが語られる。

秋の燃える紅葉の下、十数年ぶりに帰って来た時には、妻に手を賭けた殺人犯になっており、ここで自殺を図る。

老僧に導かれ刑に服した後、その跡を継いで廃墟となった寺を守って峻烈な修行を自らに課す姿が雪と氷で白一色の厳冬風景とともに映し出される。

幼少青壮それぞれを別の役者が演じ、一人の人生というより人間全般の一生を象徴的に追いかけていく。

そして、そこには、”人間の存在そのものがもたらす罪深さ”が、常に意識されているのだ。
しかし、一方で、再び春が訪れることは、”救い”を感じさせてもくれるのだ。

雨月物語:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2025-04-17

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この映画は、上田秋成の「雨月物語」から「浅茅が宿」「蛇性の婬」の2編を取り出して脚色された、溝口健二監督の映画史に残る名作だ。

この映画は一種の怪談物なのだが、確かに、このような高雅なロンティシズムの香りを漂わせた怪奇映画は、日本映画の得意とするものなのかも知れない。

戦国時代の末期、羽柴秀吉と柴田勝家の軍勢が琵琶湖の畔で鬩ぎ合っていたころの話だ。
この戦火のどさくさで焼き物を売って儲けようと野心を起こした陶工の源十郎(森雅之)は、妻の宮木(田中絹代)、妹の阿浜(水戸光子)、その亭主の藤兵衛(小沢栄太郎)などを動員して、大急ぎでたくさんの焼き物を作り、それを売るために小舟で湖を渡る旅に出る。

源十郎は、焼き物を買ってくれた若狭(京マチ子)という美しい女の屋敷に品物を届けに行ったまま、彼女の色香に魅せられてそこに留まり、彼女と契りを交わしてしまう。
だが、実は彼女は既に滅亡した一族の女の死霊だったのだ。

旅の僧の忠告でそれを知った源十郎は、体中に経文を書いてもらってやっと呪縛を脱して故郷へと帰る。
家では宮木が子供を守って暮らしていて、源十郎を温かく迎え入れてやる。

ところがこの宮木も、一夜明けてみるとその姿がないのだ。
実は彼女も、家へ帰る途中で雑兵に殺され、死霊となっていたのだ。
侍になった藤兵衛も、一時は戦場で大将首を拾って出世したが、阿浜が娼婦になっているのを知って夢から醒め、一緒に家に帰って来る。
こうして、戦争で狂った男たちの夢も消え、再び、営々と地道に働く日々が訪れたのだ。

京マチ子の若狭の情熱と、田中絹代の宮木のエレガントな気高さと、二人の女優の美しい死霊の魅惑は、実に素晴らしい。 京マチ子は、朽木屋敷と呼ばれる幽霊屋敷全体の妖しい光線の中で激しく動き,田中絹代は,簡素な田舎家の夜の灯りの中の、ひっそりとした見のこなしで、”母性の優しさ”を感じさせる好演で、観ている私を不思議な静けさの中に引きずり込んでいく。 能から多くの要素を取り入れたという早坂文雄の静謐な音楽と、名手・宮川一夫のカメラが全編に冴え渡り、特に源十郎と若狭のシークエンスにおいては、日本的な”幽玄妖美の世界”が、たぐい稀な映像美として描かれていると思う。 この映画を観終えて、つくづく思うことは、かつての日本映画の質の高さ、映画人の映画に賭ける情熱のほとばしりの凄さだ。

凍える牙:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2025-04-17

乃南アサの直木賞受賞作『凍える牙』といえば、過去に何度かテレビドラマ化され、小説だけでなくドラマで作品の魅力に触れた人も多いだろう。

原作者の乃南アサ自身が、「誰よりも『凍える牙』を理解していることが感じられた」とコメントしている通り、難事件に切り込む様子や主人公となる女刑事の職場での葛藤を描くと同時に、事件の鍵を握るウルフドッグの闇夜を駆け抜ける姿が脳裏に焼き付いて離れない。

車内で不可解な人体発火事件が発生、ベテランながら出世の道が険しいサンギル刑事(ソン・ガンホ)は、新人女性刑事ウニョン(イ・ナヨン)とコンビを組まされ、難事件に挑み始める。

遺体に残った獣に噛まれた跡や、腰に締めたベルトの発火装置で、他殺と判断したサンギルだったが、被害者周辺を洗ううちに、更なる連続殺人事件が発生する。

狼と犬の交配種であるウルフドッグが、噛み殺す現場を唯一目撃したウニョンは、署内の圧力にも屈せず、ウルフドッグの調教主を割り出そうとするのだったが--------。
『悲夢(ヒム)』のイ・ナヨンが、男性社会のしかも警察という組織の中に蔓延する、セクハラやパワハラを受け、上司が真相究明を諦める中、最後まで事件に喰らいつく芯の強いウニョンを、凛とした美しさで好演している。

働く女性であれば、一度は体験があるであろう、苦々しい場面が度々描かれるからこそ、殺人鬼に変貌させられた、ウルフドッグの孤独な瞳に共鳴していくウニョンの気持ちに寄り添えるのではないだろうか。

一方、ウニョンの上司であるベテラン刑事サンギルを、名優ソン・ガンホが、中年の悲哀を漂わせながら飄々と演じ、ちぐはぐコンビぶりを発揮する。
刑事魂と出世欲の間で葛藤する姿もまた、男ならではの孤独な闘いを映し出す。

組織の中に波紋を巻き起こし、真相の追及に没頭するウニョンを次第に受け入れ、サンギルが上司として、刑事として一皮剥けるまでのドラマも映画版ならではの見どころだろう。

人間に調教されたウルフドッグの謎、そして事件があぶり出す社会の闇に迫るアクションシーンも圧巻だが、更なる犯行を重ねるかもしれないウルフドッグを、単身バイクで追いかけるウニョンの真夜中の疾走は、切ないまでに美しかった。

追う者と追われる者、もしくは人間と動物の垣根を越えた”孤独な魂の共鳴”が、サスペンスにとどまらない余韻を残す作品だ。

影なき狙撃者:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2025-04-17

「影なき狙撃者」は、初期の「終身犯」や「5月の7日間」や「大列車作戦」、後期の「フレンチ・コネクション2」や「ブラック・サンデー」などの骨太な社会派サスペンス映画で、我々映画ファンを楽しませてくれた、ジョン・フランケンハイマー監督が、若かりし頃に撮った秀作です。

この映画の時代背景は、朝鮮戦争の頃。
1950年代というのは、まさにアメリカとソ連の東西冷戦の時代でした。
それぞれの本土で戦ってはいないものの、朝鮮半島を舞台にして、代理戦争を行なっていたわけです。

この時代の米ソの対立は、凄まじいものがあります。
ハリウッド映画界でも、かの有名なマッカーシー上院議員を中心とした、「赤狩り」の嵐が吹き荒れていました。
共産主義者は、まるで悪魔のように思われていた時代でした。

この朝鮮戦争下において、中共軍に捕らえられてしまったアメリカ軍兵士が、暗殺者に仕立てられてしまうというストーリーです。
現在の時点で観てみると、それほどもの凄いアイディアではないのですが、恐らく、この映画が製作された当時は、画期的だったのではないでしょうか。

あまり詳しいことは書けませんが、小道具としてトランプが使われていて、効果的であると同時に「影なき狙撃者=トランプ」という連想が、記憶に深く刻まれてしまうほどのインパクトがあります。

この映画の主人公は、ベネット・マーコ(フランク・シナトラ)とレイモンド・ショウ(ローレンス・ハーヴェイ)という二人の軍人です。

シナトラは格闘シーンがあるのですが、ぶっつけ本番だったので、右手の親指を骨折するという怪我をしたというエピソードが残っています。
やはり、きちんとリハーサルをして本番に臨まないと、怪我をしてしまうということなんですね。

ハーヴェイは、セントラルパークの池に飛び込むシーンがありますが、撮影時は厳冬で、彼はスタッフが氷を取り除いた、水温マイナス9度の池にダイビングしたそうです。
ほんとに、俳優とは大変な職業だなとつくづく思いますね。

ストーリーもハラハラ、ドキドキの連続で、出演者たちの熱演、そして最高にスリリングな展開で、極上の政治サスペンス映画に仕上がっていると思います。

大魔神:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2025-04-17

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単なる勧善懲悪の神であれば、悪領主を倒して、めでたし、めでたしで終わるところを、自らの怒りを鎮めるまで大暴れしてしまうのです。

つまり、時に”善神”にも、”破壊神”にもなってしまうのが、この大魔神の大いなる魅力だと思います。
本当に、映画好きの私の心を虜にし、”映画的興奮”で、ワクワクさせてくれます。

大魔神が歩を進める度に地響きが鳴り渡り、歩いた後が瓦礫と死体の山を築いてしまう。
これはもう尋常じゃありません。まさしく悪魔そのものではないかと思うのです。

柔和な顔を持つ”武神像”と、怒りが頂点に達した時に、顔が”仁王像”に変わる大魔神。
これは、一つの神像の中で、”優しき心と怒りの心”がせめぎ合い、その時の表情が”神像の顔”になるのだと思っています。

そして、この映画で大魔神の暴走を止めるのは、心が清らかで美しい、小笹(高田美和)の”切なる願いと涙”なのです。

小笹の必死の、命を懸けた切なる願いに打たれた、神像の”優しき心”が覚醒して、”怒りの心”を鎮め、再び、元の柔和な武神像の顔へと戻っていくのです。

元ネタになった「巨人ゴーレム」にはなかった、オリジナリティ溢れる「大魔神」の魅力の全てがここにあるのです。

大魔神:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2025-04-17

この大映の特撮時代劇「大魔神」という映画が、子供向けに堕していず、大人の鑑賞にも耐え得る立派なドラマになっているのも素晴らしいのですが、加えて、実写の人間を入れ込んだ見事なブルーバック合成や、二・五分の一の精巧なミニチュア・ワーク、そして、真っ赤に染まった空が印象的な見事な色彩設計などが完全に融合し、クライマックスのあの迫力のある破壊のシーンが生まれたのだと思います。

これこそが、我々、映画ファンの心を鷲づかみにした、この映画の最大の魅力だと思うのです。

特に城や日本家屋の破壊シーンは、東宝特撮映画で描かれる怪獣映画の大都市破壊のそれとはひと味違った”美学”が感じられて、いいですね。

しかし、この映画「大魔神」が素晴らしいのは、何といっても、単純に悪を征伐するための神ではなく、”悪魔的にまで恐ろしい神の精神”を持ち合わせている事だと思うのです。

大魔神は、十字架のようになった柱に悪領主を押さえつけ、鉄釘で串刺ししただけでは怒りはおさまらず、今度は村里にその怒りの矛先を向けようとするのです。

リオ・ロボ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2025-04-17

「赤い河」(1948)を皮切りに、「リオ・ブラボー」(1959)、「エル・ドラド」(1966)と、ジョン・ウェインとのコンビで西部劇等の傑作を次々と放った、巨匠ハワード・ホークス監督にとって、この「リオ・ロボ」は、盟友ジョン・ウェインとタッグを組んだ遺作。

確かに、ホークス&ウェイン・コンビ作の最高峰「リオ・ブラボー」とは比べるべくもない凡作かもしれないが、ハリウッド伝統の”王道的西部劇”の醍醐味を存分に味わえる、良質なエンターテインメント映画に仕上がっていると思う。

「リオ・ブラボー」と「エル・ドラド」に続く三部作の最終章とされるこの作品は、なるほど前二作と同じく、主人公たちが、保安官事務所に立て籠るという設定を用いている。

しかし、大きく違うのは、この作品の保安官ヘンドリクスが、悪者側だということだろう。
敵の親玉ケッチャムを人質に、保安官事務所を占拠したマクナリーらは、ボスを奪い返さんとする保安官一味を相手に、攻防戦を演じることになる。

その一方で、軽妙なユーモアとハードなアクションを織り交ぜた、ノリの良い群像活劇という路線は、往時ほどの切れがないとはいえ、前二作をそのまま踏襲しており、色々な意味で、安心して楽しめる作品に仕上がっていると思う。

当時、既に60代だったジョン・ウェインの動きが、やけに鈍くてアクション・シーンがキツイとか、その相棒コルドナ役に起用されたメキシコの若手トップ俳優のホルヘ・リヴェロに、ウェインと渡り合うほどのカリスマ性がないとか、敵の一味が、ヘナチョコ過ぎるとか、色々と粗を探せばキリのない作品ではある。

脇役陣で光っているのは、飲んだくれのクレイジーなフィリップス老人を嬉々として演じているジャック・イーラム。
「リオ・ブラボー」のウォルター・ブレナンに相当する役柄だが、西部劇の個性的な悪役俳優として鳴らした、ジャック・イーラムの芸達者ぶりが実に面白い。

「おもいでの夏」で私を虜にしたジェニファー・オニールも、鼻っ柱の強い女性シャスタを好演している。

ジョン・ウェインの盟友ロバート・ミッチャムの息子クリストファー・ミッチャムは、「チザム」(1970)や「100万ドルの決斗」(1971)でも共演しており、恐らくデュークは、映画界の後見人として後押ししていたのだろうが、残念ながら期待されたほどのスターにはなれませんでしたね。

博多っ子純情:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2025-04-17

この映画「博多っ子純情」は、長谷川法世が「週刊漫画アクション」に連載していた人気漫画の映画化ですが、異才・曾根中生監督の歯切れよく、気風よく弾ける演出が素晴らしい作品だ。

性に目覚め、いまだ見も知らぬ女性の神秘に興味を抱く、男子中学生3人組が、憧れの女性とのデートを夢見たり、不良に囲まれた同級生をカッコ良く助けようと意気がったりする様を、コミカルに誇張を込めて描いた痛快作だ。

この映画は、威勢はいいが、どこかとぼけている博多弁のセリフが作品の基調をなし、今や日本映画界の名バイプレイヤーのひとりになった、若き日の光石研扮する郷六平をはじめとする中学二年の男子中学生3人組が、生まれて初めて山笠を担いで男をあげたり、初恋のお姉さんに悶々としたり、クラスメートの女の子(松本ちえこ)にキスをせがまれたり、夜道で高校生に絡まれて喧嘩したり-----といった印象深いエピソードがきびきびと展開していく。

そして、何といってもこの映画の白眉は、六平の正義感を発端として三人組が、別の中学の大勢の生徒と決闘するはめになり、三人組に加勢する番長の一団と福岡城址で大乱闘になる終盤だ。
これが、六平の失禁しながらの機転で、無血の解決をみることになるんですね。

この決闘シーンは、鈴木清順監督の「けんかえれじい」を彷彿とさせ、勢いと余韻に満ちたユニークな戯作タッチを全篇に行き渡らせた「博多っ子純情」は、曾根中生監督の登場人物たちに注ぐ愛情が素晴らしく、彼の演出の頂点をなすものだと思いますね。

桜田門外ノ変:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★☆☆
投稿日
2025-04-17

この映画「桜田門外ノ変」は、襲撃側の現場指揮官・関鉄之介を主人公に、桜田門外ノ変の事件の顛末を描いた作品だ。

映画の基となった江戸幕末期の事件「桜田門外ノ変」とは、徳川幕府の末期、安政7年(1860年3月24日)、江戸城桜田門外で、水戸藩、薩摩藩の浪士が彦根藩の行列を襲撃して、時の大老・井伊直弼を暗殺した事件だ。

明治維新が成立したのは、それから8年後の1868年、激動となる幕末の最初のテロ事件だった。

この事件を作家の吉村昭が、襲撃側の現場指揮官・関鉄之介を主人公に描いた「桜田門外ノ変」を原作に、「新幹線大爆破」や「人間の証明」などのベテラン監督・佐藤純彌が映画化したのがこの作品だ。

冒頭、井伊直弼襲撃のシーンから始まり、関鉄之介(大沢たかお)以下18名の実行部隊が見事に井伊直弼の首を刎ねた。
この襲撃で死んだ者1名、帰路に戦傷で動けず自刃した者4名、そして8名が自首した。

事を見届けて、予ての計画通り京都へ向かった関鉄之介。
そして、襲撃と時を同じくして挙兵、京を制圧し、朝廷を幕府から守るという約束だった薩摩藩に合流しようとする。

しかし、薩摩藩は挙兵しなかった。そのため、幕府のみならず同胞の水戸藩からも追われる立場となった関鉄之介は、逃亡を続けつつ、襲撃までの経緯を回想するのだった------。

実行部隊の死亡シーンに、名前の字幕を付けるという、深作欣二監督の「仁義なき戦い」方式で描かれた襲撃シーンは、なかなか壮絶だが、それがこの映画の本質ではないと思う。

お尋ね者となった関鉄之介の襲撃後の現状と襲撃前の空約束を交互に描くことで、組織のそして歴史の歯車となった無名の人たちの”事件の後始末”を描いた映画なんですね。

心中天網島:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2025-04-17

篠田正浩監督の「心中天網島」は、彼の作品の中で、最高傑作だと思う。

この作品は、近松門左衛門の原作の映画化で、日常性から脱却して、非日常性の世界へ没入する事によって、美と恍惚とエロティシズムの極致を探索した作品だと思う。

この作品で、紙屋治兵衛(中村吉右衛門)の妻おさんと、遊女の小春の二役を演じたのが岩下志麻だが、おさんは日常性を代表した女だ。

すでに、おさんは、治兵衛にとってはエロティシズムの対象とはならない存在で、彼が言う、愛している小春とは、非日常の中で、永久に美の陶酔と悦楽を持続させなければならないのだ。
そして、そのためには、死が絶対の必要条件なのだ。

死を決意した治兵衛と小春が、叢の中で抱き合うセックス・シーンは、それまでの日本映画で表現されたエロティシズムの場面としても最高のものであったと思う。

死と隣り合わせになって、初めてエロティシズムは完遂する。
それはもう完全に非日常の世界なのだ。

「死にたい」と低い声が、情事の絶頂に洩れる。
思えば、性的なエクスタシーの絶頂の中で死ぬことこそ、純粋な悦楽の極致でなくて何であろう。

治兵衛の死体が、ブラリとぶら下がっているロング・ショットには、エロティシズムと紙一重のところに横たわる、篠田正浩監督特有の、何とも言えぬ空しさが込められていると思う。

この作品における、絢爛豪華な目を奪う、映像的なテクニックは、極めて耽美的であると同時に、その底に流れているのは、やはり無常観なのだと思う。

祭りの準備:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2025-04-17

この「祭りの準備」は、脚本家・中島丈博の自伝的シナリオを、黒木和雄が監督した、青春映画の傑作だ。

高知県の地方都市の信用金庫に勤める楯男(江藤潤)は、父親と別居する母親に溺愛され、左翼のオルグに夢中な涼子(竹下景子)に片思いをしながら、東京に出て、シナリオを書こうと悶々とした日々を送っていた。

父親は、あちこちに愛人を作って、家には帰らず、暴れん坊のトシちゃん(原田芳雄)は、服役中の兄の代わりに兄嫁と寝るのだった。
発狂して、大阪から帰って来たトシちゃんの妹のタマミは、みんなのセックスの捌け口となり、彼女が妊娠すると、楯男の祖父は、自分の子だと言って、一緒に暮らすのだった。

このように、地方の濃密な人間関係に包まれた、うだるような日常が描かれていく。

やがて、浜辺に掛かった赤い布が、嵐の到来を告げ、歯車が狂ってくる。
タマミは、子供を産むと狂気に戻り、捨てられた祖父は首を吊る。
男に捨てられた涼子は、楯男をセックスに誘い、トシちゃんは、はずみで殺人を犯してしまう。

今まで眺めていただけの楯男が、今度は自分で祭りを始める番だ。
逃亡中のトシちゃんが、駅のホームの端で「バンザーイ」と両手を挙げて、上京する楯男を見送るラストは、日本映画史に残る名シーンだと思う。

要塞:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2025-04-17

この映画「要塞」は、フィル・カールソン監督、ロック・ハドソン主演、シルヴァ・コシナ共演の第二次世界大戦のイタリアの村を舞台にした、戦争アクション映画だ。

主演のロック・ハドソンは、かつて「ジャイアンツ」「目かくし」「トブルク戦線」などでの男性的でタフなイメージで、アクション映画からロマンティック・コメディまで、あらゆるジャンルで活躍した俳優でしたが、惜しくもエイズで亡くなった時には驚いたものでした。

この映画では、従来の明るいイメージのキャラクターから脱皮して、ヒゲをはやし、いかにも精悍な顔付きで、ニコリともしない不愛想で、だけど心の奥に優しさを包み込んだキャラクターを好演していて、彼の新しい魅力を発見した思いです。

そして、共演のシルヴァ・コシナは、ピエトロ・ジェルミ監督の名作「鉄道員」での清楚で可憐な演技が素晴らしかったのですが、その後、ハリウッド映画へ進出し、ポール・ニューマンと競演した「脱走大作戦」、カーク・ダグラスと競演した「ボディガード」などで、主演スターの添え物的な役柄が多くなっていったのが残念な女優さんでした。

映画自体は、ドイツ軍に対するレジスタンス、それもこの映画では、ナチス・ドイツによって村を焼き払われ、父母や家族を殺された生き残りの少年たちが、パラシュート降下の際、生き残ったアメリカ軍の大尉、ロック・ハドソンの指導を受け、パルチザンとなって復讐していくというストーリーが展開していきます。

途中、この一行に女医のシルヴァ・コシナが加わり(彼女は実際ナポリ大学の医学部で医学を学んでいた才媛なのです)、彼らはドイツ軍の宿舎を襲ったりしながら、最終目的のダムを破壊するクライマックスへとなだれこんでいきます。

最終的に、彼らは目的を果たすのですが、最後に残るのは戦争の虚しさだけ--------。

アメリカ映画ですので、どうしても戦争の悲惨さや愚かさを描くというよりも、戦争娯楽アクションという枠組みの中で、大いに楽しんでもらって、その中に、戦争反対のメッセージも匂わせるという内容になるのは仕方がないのかも知れません。

赤い河:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2025-04-17

※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]

カウボーイのダンスンは、恋人をインディアンに殺されるという悲惨な体験を踏み越えて、テキサスに一代で大牧場を築き上げる。
しかし、折しも南北戦争の敗戦のあおりをくらって、南部では牛が売れず、食糧不足の北部に売るにしても、鉄道のある町まで、牛の大群を運んで、延々数カ月の大旅行をしなければならず、途中には強盗団やインディアンもいて、危険極まりない状況になっている。

この途中の、牛の大群の暴走、インディアンの襲撃、男同士の友情など、勇壮でダイナミックな見せ場がいくつも用意されていて、堂々たる正攻法のリアリズムで、当時の開拓民の苦労やユーモアを再現しようとしているところが、実に素晴らしい。

しかし、このダンスンは、力強く頼もしい男だが、独裁的で部下たちの気持ちを無視して、敢えて危険な道を選ぼうとするのだ。
そこで、養子のマットがカウボーイたちの期待を担ってダンスンを退け、自らリーダーになる。

結局、最終的にダンスンとマットは壮絶な殴り合いの末に和解し、ダンスンがマットを一人前の男として認めると共に、若い時の恋人を死なせたという心の傷のため、性格的に異常になっていた彼が、やっと心の健康を取り戻すという場面で幕を閉じることになる。

この映画「赤い河」は、勇壮でダイナミックな活劇シーンも素晴らしいが、強くて英雄的なジョン・ウェインの父と繊細で勇敢な養子・モンゴメリー・クリフトの”父と子の葛藤”という、愛憎が複雑に絡みあった危険な関係を軸に、時代の歩みと共に考え方の違う新しい世代が登場し、古い世代にとって代わってゆく、そのドラマが、実に見事だ。

赤い河:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2025-04-17

この映画「赤い河」は、西部劇の古典的な名作で、一万頭の牛の大群をカウボーイたちが運んでいく過程での、”父と子の葛藤”を描きながら、格調高く、開拓期の西部を生き抜いた男たちの鉄のような意思を描き切った、誠に爽快な作品だ。

もうもうと砂塵が立ち込めているような、西部の風土感の捉え方も、実に見事だ。
西部劇の王者、ジョン・ウェインに絡む、若きモンゴメリー・クリフトが西部男に似つかわしいとは言えないのだが、それが逆に”新鮮な魅力”となっているのが不思議です。

ジョン・ウェイン演じるダンスンと、モンゴメリー・クリフト演じるマットは義理の親子。
インディアンに襲われた幌馬車隊のたった一人の生き残りの少年をダンスが引きとって養子にしたのです。

ひとり狼:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2025-04-17

大映映画「ひとり狼」は、村上元三の原作を池広一夫監督、市川雷蔵主演で映画化した、正統派股旅映画の佳作だ。

加藤泰監督の「沓掛時次郎・遊侠一匹」や山下耕作監督の「関の弥太っぺ」が、同じ本格的なヤクザを描きながら、彼の心の底に眠る静かな情感を、ロマンチシズムの中で、巧みに描き出したのとは違い、この「ひとり狼」は、あくまでも非情に硬質に主人公を流れさせる。

それは後に登場する「木枯し紋次郎」の世界に似て、冷たく研ぎ澄まされた、テロリスト的なアウトローの孤独な姿を描いている。

既成のあらゆるものを信じなくなった一人の男が、儀礼的な儀式のみにすがることによって、自己を守っていく姿は、混乱した状況の中における一つの生き方なのかもしれない。

情も捨て、信奉も捨てて、流れることにのみ行動の意味を把握しようとする、永久流転の”ひとり狼”は、かつてのビートとかヒッピーとか言われたような時代風俗者たちとは違い、永久に自己を大切にしようとする楽天主義者なのかもしれない。

いずれにせよ、この映画は過去の「沓掛時次郎・遊侠一匹」や「関の弥太っぺ」のように、情感に潜り込もうとすることなく、一見つかみどころのない混乱した状況を、冷たく様式化し、風景にのみ生きようとする直線的な行為者を描いたことによって、股旅ものの傑作になっていると思う。

そして、この人斬り伊三蔵に扮する市川雷蔵は、折り目正しい、端正な演技で、時代劇スターとしての貫禄を示し、下層アウトローの庶民的ニヒリズムを見事に演じ、晩年の代表作になったと思う。

シェルブールの雨傘:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2025-04-17

「シェルブールの雨傘」は、アメリカのミュージカル・コメディに傾倒していたジャック・ドゥミ監督が、全く新しい形式のミュージカル映画に仕立てた作品ですね。

港町シェルブールに住む若い恋人同士が、男の出征によって引き裂かれてしまう。セリフを全編オペラのように歌わせるという斬新な試みは、今の時点で観ると、少し奇妙な感じがしないでもないが、ミシェル・ルグランの甘く哀しいメロディに、フランス語の響きが最大限に生かされ、何とも言えず美しい。

この映画で女優として世界的な飛躍を遂げた、当時20歳のカトリーヌ・ドヌーヴ。彼女の初々しい清楚な魅力に溢れていましたね。

最終更新日:2025-06-20 16:00:01

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