映画感想・レビュー 155/2613ページ

ライド・オン:P.N.「伯楽常にあらず老驥櫪(ろうきれき)」さんからの投稿

評価
★★★★
投稿日
2024-06-14

ちょと、中国らしい演出とストーリー、馬の使い過ぎで、なかなか、入り込みずらい作品ではある。

やりたいことはわかるが、ジッキー・チェーンの作品と言うより、スタントマンへの敬意を込めた作品なので、往年の彼の作品を楽しみつつ、ご苦労様と労う様な作品。

人との出会いも伯楽の如く、そんな存在が欲しいものだ。

老驥櫪(ろうきれき)

駿馬の如く駆け抜けたジッキー・チェーンも、志は、今だ、衰えることを知らず、続く、志の者の登場を待ちわびたいものだ。

正に、馬にライド・オン的作品、なんだか、馬さん凄いけど、可哀想、もう少し人間頑張れ!

ストーリーや構成、演出、等、もう少し捻りが欲しいところだが、スタントマンへの労いの作品と言う敬意を込めこの評価です。

チャレンジャーズ:P.N.「過ぎたるは及ばざるが如し、」さんからの投稿

評価
★★★☆☆
投稿日
2024-06-14

どこにも、チャレンジャーを探せなかった。

作品としては力を入れている様に見える、今時のSNS時代の見映えのするでき。

ただ、何事も、過ぎたるは及ばざるが如しで、

やたら、チャレンジャーズを画面で連呼し過ぎ、

やたら、詰まらない下ネタシーンに時間さき過ぎ、

やたら、キスが、意味なく長過ぎ、

やたら、ラケットを壊してモノを粗末にし過ぎ、

CM、イメージ画像、動画の寄せ集めの様な作品。

最近の、YouTubeや動画の見過ぎで、映画の面白さを失った、生成AIが作ったら、こんな作品になるだろ的作品。

勇気ある追跡:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-14

そう言えば、後年の2010年にこの映画のリメイク作品である「トゥルー・グリット」(ジョエル&イーサン・コーエン監督)も一種のファンタジーである事を強調して映画化されていましたが、イーサン・コーエン監督も「トゥルー・グリット」の製作意図として、「現代人には非常にエキゾチックに感じられる世界に、14歳の少女が入り込んでゆくという点で”不思議の国のアリス”のような作品でもある」といみじくも語っていたのが、この事を象徴的に言い表わしていると思います。

勇気ある追跡:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-14

三人三様に向こう意気が強く、最初は互いに罵り合っていましたが、旅を続け、共に闘ううちに、お互いの心を開き、やがて本当の親子のような関係になるというエピソードには、ヘンリー・ハサウェイ監督、なかなかやるなという印象を強く持ちました。

原作の小説を先に読んでから、この映画化作品を観ましたが、原作の小説がそうであるように、この映画のこのようなデリケートな味わいのエピソードというものは、結局、少女マティの見た夢のような印象を与えます。

原作者のチャールズ・ポーティスも、父親を亡くした少女マティの”無意識的な願望が生んだファンタジー”として構想されていたような気がしてなりません。

勇気ある追跡:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-14

ジョン・ウェインが画面に登場すると、彼の映画の中での過去の異常でダーティな体験が、そのまま彼の体全体からにじみ出ているような男を、勝気で向こう見ずな少女マティが助っ人として雇う映画の最初のシーンに我々観る者は映画的なワクワク感と共に、魅力的な映画の世界にスーッと引き込まれてしまいます。

まるで、”少女マティの紡ぎだす夢の世界のような、非現実的で、心躍る展開”になって来ます。

助っ人としてもう一人、テキサス・レンジャーの若者のカントリーミュージックのスターのグレン・キャンベルが演じるラ・ビーフの三人で、父親殺しの犯人のトムの追跡の旅に出るというスリリングな物語が展開していきます。

この映画の白眉はなんといっても、映画ファンの間で伝説的な名場面として語り草になっている、クライマックスの馬上のコグバーンが、口に手綱をくわえ、ライフルと拳銃で応戦しながら、悪党一味の中に突っ込んで行く場面ですが、しかし映画ファンの大向こうをうならせる、その死闘の場面だけではなく、そこに至るまでの三人の追跡の旅の過程も味わい深く、興味深いものがありました。

勇気ある追跡:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-14

彼は1964年頃から、癌と闘いながらタフでたくましい西部の男を演じ続けて来ましたが、今回の1969年の「勇気ある追跡」で初の汚れ役に挑戦して、それを見事に演じきり、今まで過少評価されていた演技力を広く認めさせる事になったと思います。

原作はチャールズ・ポーティスが1968年に発表して、米国で大ベストセラーになった「トゥルー・グリット」で、アメリカ現代文学史に残る名作として現在も長く読み継がれている小説です。

14歳の時、父親を悪党に殺された女性の一人称形式の小説で、成長した彼女の視点から振り返られた過去の物語という設定で、少女時代のキム・ダービー演じるマティに復讐の助っ人として雇われるのが、ジョン・ウェイン演じるルースター・コグバーン保安官で、彼は元南軍の無法ゲリラ部隊の一員で銀行強盗も働いた事もあるという、複雑な過去を持つ、クセのある人物像になっています。

勇気ある追跡:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-14

“西部劇の大スター、ジョン・ウェインがアカデミー主演男優賞を受賞した記念すべき映画「勇気ある追跡」”

この映画「勇気ある追跡」は、西部劇の大スター、ジョン・ウェインに初のアカデミー主演男優賞をもたらした記念すべき映画です。

「ネバダ・スミス」、「エルダー兄弟」などの娯楽映画のベテラン職人監督のヘンリー・ハサウェイがメガホンを撮ったこの映画は、ジョン・ウェインの数ある西部劇の出演作の中でも異色の西部劇といえると思います。

黒いアイパッチをつけ、粗野で大酒飲みの保安官というキャラクターで、珍しく汚れ役を演じています。
ジョン・ウェインは1959年の「リオ・ブラボー」(ハワード・ホークス監督)以降、それまでの精悍で立派なイメージに執着する事をやめて、実際の自分の実年齢と体型にふさわしい役柄を演じるようになっていたため、この映画のような汚れ役は初めてだと思います。

嘆きのテレーズ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-14

初めて燃えあがった炎を消すまいと、彼女は夫に離婚を迫るが聞き入れられず、パリの親戚に預けられることになる。

その途中、夫は、後を追ってきてローランと争い、列車から転落死する。
そのショックで姑は、半身不随となりローランとの仲も冷たくなってしまう。

燃えあがった炎は、再びしぼんでいく。
だが、ローランを愛したということで、テレーズにはそれなりの幸福感も残っただろうに、列車で同室だった男のゆすりという思いがけない事態が発生し、かぼそい炎は大きくゆらぎ、そしてさらに、映画にとっては実に素晴らしいが、テレーズにとっては、まことに悲痛な幕切れとなるのだった。

暗く、重く、陰惨な環境にあったがゆえに、いっそう青白く、鬼火のように燃えたテレーズの”女の情念の炎”を、マルセル・カルネ監督はリアリストの本領をいかんなく発揮して的確に描写してゆく。

一点たりともゆるがせにはしていない”緊迫と緊張の映像世界”に、ただただ魅せられてしまった傑作中の傑作だ。

嘆きのテレーズ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-14

暗闇の中で、青白い炎が妖しく燃えている。
マルセル・カルネ監督の「嘆きのテレーズ」は、そんな映画だ。

炎はヒロイン、テレーズの女の情念。決して赤々と燃えあがることはない。
病弱の夫と、その夫をまるで赤子のようにいたわり、可愛がる老いた姑にはさまれ、テレーズの日々は、暗い。
その中でも情念の炎は、チロチロと燃えていた。

貧弱な夫とは比べものにならない頑強で逞しい肉体を持ったローランの出現で、炎は勢いを得た。
おそらくは、生まれて初めての燃えあがりだったのだろう。

だが、テレーズはそれを赤く燃えあがらせることはできない。
彼女は、それほどに幸せに恵まれていなかったのだ。
逞しい男の腕に抱かれ、官能に酔いながらも暗く無表情なシモーヌ・シニョレの顏がそのことを物語っている。

そして、炎の燃えあがりが、やがて不幸へと結びついてゆくだろうことも、無表情さは語っている。

戦場にかける橋:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-14

この味方の連合軍の兵士によって爆破されてしまう”橋”を、戦争というものの無意味さを象徴するものとして、シンボリックに描いたデビット・リーン監督の演出の意図は成功していると思う。

このように戦争を題材にした作品でも、デビッド・リーン監督のような超一流の監督の手にかかると、さすがにそのレベルが違う。

英・米・日の三つのタイプの軍人気質の対立を軸に、スケールの大きな”人間ドラマ”に仕立て、普通のありきたりの戦争映画や捕虜収容所映画の範囲を遥かに超えた、感動を生み出していると思う。

映画を観終えて、アレック・ギネス率いるイギリス軍捕虜たちが口笛で吹く「クワイ河マーチ」が、いつまでも耳の奥に残って、私の心を名画を観た後の心地良い余韻に浸らしてくれるのです。

戦場にかける橋:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
☆☆☆☆
投稿日
2024-06-14

この主人公三人の三者三様の軍人気質の葛藤が、この物語の大きな軸になっているが、何といってもジャングルの中での”集団ドラマ”として、そのスケールの大きな展開が、実に見事だ。

その後、ウィリアム・ホールデンは、不屈のアメリカ魂の持ち主なので、脱走を図り、見方に連絡するとまた引き返し、完成した橋にダイナマイトを仕掛けるのだ。

このように、焼けつくような太陽の下での厳しい労働、軍人の意地、そして脱走と、男性的な骨太のドラマを息もつかせず見せていく、デビッド・リーン監督の演出は、さすがに素晴らしい。

敵軍のための橋なのだから、アレック・ギネスのイギリス将校は、橋の爆破を喜ぶべきなのに、自分たちが必死で架けた橋を守ろうとし、争ううちに爆発が起こり、敵も味方も橋もろとも壮絶な最期を遂げてしまう——-。

アレック・ギネスが最後に取ったこの行動が、滑稽に見えないで、人間としての自然な気持ちのように思われるところまで、デビッド・リーン監督は、観ている私の心をグイグイと物語の内側へと引きずり込んでいくのです。

戦場にかける橋:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-14

この「戦場にかける橋」という作品は、第二次世界大戦下のタイとビルマの国境近くの日本軍の捕虜収容所が舞台で、この地で日本軍と日本軍の捕虜となった連合軍が、タイ=ビルマ国境のクワイ河に鉄道用の橋を架けるために捕虜たちが動員されるが、イギリス軍指揮官のアレック・ギネスは、ジュネーヴ協定違反だと抗議して従おうとしない。

彼は営倉へ入れられるが、騎士道精神にもとるからと言って、脱走計画にも応じない。
日本軍の捕虜収容所長の早川雪州は、西欧的な教養も身につけていて、そんなアレック・ギネスの態度に自身のサムライ魂と共通するものを見出し、あらためて協力を依頼する。

そこでアレック・ギネスは早川雪州の心情を理解し、日本軍の技術者が建築に失敗した架橋工事を、部下とともに始めるが、同じ捕虜仲間のアメリカ軍のウィリアム・ホールデンは、敵の軍隊のために工事に熱中するなんて愚かなことだと呆れて見ている。

戦場にかける橋:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-14

デビッド・リーン監督はイギリスの生んだ最も才能豊かな映画監督の一人で、彼の名前を最初に世界的にしたのは、中年の良識ある男女の恋を、落ち着いた緻密な心理描写で見事に描ききった「逢びき」だ。

続いて「大いなる遺産」「オリヴァ・ツイスト」などのチャールズ・ディケンズの映画化でも巧みな語り口を見せ、再び中年の男女の恋をうきうきした気分の中でリリシズムのやるせなさで描いた「旅情」を撮り、映画界で名匠の地位を築いていったと思う。

そんなデビッド・リーン監督が、名プロデューサーのサム・スピーゲルとコンビを組んだ、スケールの大きい、ダイナミックで力強い、起伏に富んだ2本の作品「戦場にかける橋」と「アラビアのロレンス」を発表することによって、世界の映画界で最も風格のある物語の語り手になっていったのです。

デルス・ウザーラ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-14

このような意味からも、黒澤明がこの映画を撮ったのは、それなりの必然性があったようにも思われます。

老いたデルスは、一時、慣れぬ都会暮らしをした後、再び、大自然のもとへと帰って行きます。
だが、アルセーニエフにもらった新式の銃が仇となって、海賊に襲われ殺されてしまいます—-。

“大自然への畏敬”を描いたこの映画の背後には、哀しいことに、”人間と文明への懐疑”が潜んでいるということを思わずにはいられませんでした。

デルス・ウザーラ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-14

天涯孤独で家も持たず、ウスリー地方の密林の自然と共に暮らしている猟師、デルス・ウザーラ。
1902年の秋、地誌調査のためシベリアのウスリー地方に入ったアルセーニエフ隊は、初めてデルスに出会います。

移り変わる自然ばかりでなく、水や火や天空にまで命というものを感じて生きているデルスは、ハンカ湖で突然来襲した吹雪からアルセーニエフを救出します。
この大自然をこよなく愛するデルスの生き方にアルセーニエフは感動し、二人は強い友情で結ばれていくことになります。

ここで、そんなデルスに、人間社会の面倒事がイヤになってしまった黒澤明を重ね合わせてみても、それほど間違いではないような気がします。
この作品を撮る前、黒澤明は「トラ・トラ・トラ!」の監督解任などトラブル続きで、自殺未遂事件を起こしています。

そんなこともあってか、シベリアの大自然は、人間の油断を許さぬ厳しいものがありますが、また、人間を暖かく迎え入れてくれる”安息の場”という感もあります。

デルス・ウザーラ:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
★★★★★
投稿日
2024-06-14

黒澤明の映画といえば、どうしても強い風雨の前での人間たちのギラギラとした争いの場面を連想してしまいます。自然とは黒澤明の映画にとって、実に効果的な舞台背景だったと思う。

人間の生きることの厳しさを描き続けて来た黒澤明が、初めて自然の厳しさそのものを描こうとしたのが、この映画「デルス・ウザーラ」であると思う。

原作は、帝政ロシア時代の探検家・アルセーニエフの探検記で、黒澤明監督は30年間この作品の映画化を胸に抱き続けてきただけあって、準備と撮影に2年半も費やすという力の入れようでした。

そして、この映画は黒澤明監督としては初めての合作映画であり、また初の70ミリ作品でもあり、アカデミー外国語映画賞、モスクワ映画祭でグランプリを受賞しています。

デルス・ウザーラは、20世紀のはじめ、アルセーニエフが率いるシベリア探検隊の道案内をつとめた男です。
デルスは自然と溶け合うことを何よりの生き方としています。大自然の中で、”孤高に生きる”彼に、黒澤明監督は称賛を惜しみません。

エド・ウッド:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-14

とにかく、ベラ・ルゴシを初めとするエドウッド映画の常連出演者たちというのが、全く”可愛いフリークスたち”と呼びたいような顔ぶれなのだ。

実在した人物で、「アマデウス」で私がそのツルツルの異様な顔面に狂喜したジェフリー・ジョーンズが演じている、いんちき預言者のクリズウェル、プロレスラーあがりで目の悪い大男トー・ジョンソン、とんでもなく、くびれたウエストを持つ女ヴァンバイア、そしてビル・マーレイが控え目な演技で、不思議な暖かさを漂わせて絶妙に演じた、ホモ・セクシュアルの友人バニー。

こういう”浮世離れ”した人物たちに、ティム・バートン監督の”共感と思慕”が捧げられているのであって、殊更に奇抜なことのようには描いておらず、非常に微笑ましくも好感が持てるのだ。

エド・ウッド:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-14

みすぼらしいスタジオの中で、スタッフの一人が、ライバルのボリス・カーロフの名前を口にした途端、「ファック・ユー!」と激怒するのだが、「アクション!」の合図がかかった途端、コローッと変わって、悲劇的な威厳に満ちた人物になりきる。
力強く”Beware!”と語り始め、”Pull the strings!”と語り終わる——。

その一つ繋がりの場面に、役者の性とか凄みを目のあたりにして、思わず目頭が熱くなってきた。
それから、ブツブツ文句を言いながらも、突如、大ダコと迫真の”格闘”をしてしまうところなども、本当に凄い。

そして、”Home”で始まる長ゼリフにも胸を打たれる。
「故郷---。私には故郷なぞない。世間の人々に追われ、さげすまれて逃れて来た、この密林こそ私の故郷。今こそ世間に重い知らせてやる。私の産み出した原始人間たちが世界を征服するのだ---。」

エド・ウッド:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-14

ハリウッド映画界の、一筋のおかしな血の流れ。精神的な血縁関係。
それがこの映画に、「愛」と「時間」の厚味を与えているのだと思う。

エド・ウッドを演じたジョニー・デップは、いつもの「暗い翳りを帯びたナイーブな人間」というのと全く違ったキャラクターを、非常にうまくこなしている。

何しろ、このエド・ウッドという男は、感動的なまでに思い込みが激しい、空回り野郎なのだ。
顔はいつも上方45度を見上げ、目はキラキラ、口もとはニカーッとマンガ的な芝居だが、決して”演りすぎ”の感じはしない。
特に、映画製作会社を口説く時の眉の動きが凄い!! うねる、うねる。

しかし、何と言っても圧倒的に素晴らしいのは、ベラ・ルゴシ役のマーティン・ランドーだ。
一世を風靡したが、今は落ち目の怪奇スターという、”華やかさと哀れさ”の同居する人物を見事に演じ切っている。

エド・ウッド:P.N.「オーウェン」さんからの投稿

評価
なし
投稿日
2024-06-14

ペラペラと薄っぺらで、安っぽくて、滑稽で、なんだか涙ぐましく美しい。
特に私が痺れたのは、大ダコと円盤のモダンアート的な画面の部分だ。

この「エド・ウッド」は、1950年代のハリウッド映画界の片隅のそのまた片隅のようなところに実在した監督エド・ウッドをめぐるお話だ。

エド・ウッド監督(ジョニー・デップ)は、1930年代にボリス・カーロフと並ぶ怪奇俳優として活躍した、晩年のベラ・ルゴシ(マーティン・ランドー)と出会い、何本かのSF・怪奇映画を撮り、不遇のまま死んだが、没後、”史上最低の映画監督”として、おかしなカルト的な人気を獲得するようになる。

作った映画もヘンテコなものだが、エド・ウッド自身も女装癖の衣装倒錯者で、やっぱり、ちょっとヘンテコな人だったようだ。
そのエド・ウッドを、「エドの同類」だと自認するティム・バートンが撮ったのだから面白い。

1950年代のヘンテコ監督エド・ウッドとベラ・ルゴシ、そして現代のヘンテコ監督ティム・バートンとベラ・ルゴシを演じるマーティン・ランドー、この二組の関係がオーバーラップする。

最終更新日:2025-11-10 16:00:01

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