
レイフ・ファインズ主演。戦争により存続危機にある合唱団が、“前代未聞の試み”を通して失われた希望を紡ぎ直すヒューマンドラマ『ザ・コラール 希望を紡ぐ歌』が、TOHO シネマズ シャンテほか全国公開中。
第一次世界大戦のただ中、歌うことで日常を取り戻そうとする英国の小さな町を描いた映画『ザ・コラール 希望を紡ぐ歌』が、昨今の世界情勢を踏まえ、いまを生きる私たち日本人にとっても“必見の一本”として静かな注目を集めている。戦争や分断が決して遠い出来事ではなくなった現代において、本作が描き出す「人が人であり続けるための営み」は、単なる時代劇の枠を超え、強いリアリティを伴って胸に迫ってくる。
脚本を手がけたのは、英国を代表する劇作家アラン・ベネット。91歳にして40年ぶりのオリジナル脚本となる本作は、社会が停止し、未来が見えなくなった2020年のロックダウン中に、長年の盟友ニコラス・ハイトナー監督に持ち掛けられた企画から生まれた。孤立と不安が蔓延する時代に、「人は何によって支えられるのか」という根源的な問いに向き合ったベネットの筆致は、静謐さとユーモア、そして痛みを抱えた人々への深いまなざしに満ちている。感傷を排しつつも情感は豊かで、観客に涙を強いるのではなく、静かに感情を沁み込ませていく。その繊細な余白を埋めるように、情熱の役割は英国作曲家エドワード・エルガーの音楽に委ねられている。
エルガーといえば、日本では《威風堂々》が最も知られているが、英国では“国民的作曲家”として特別な存在だ。本作の中心となる《ゲロンティアスの夢》は、死を迎えた男の魂が天使に導かれ、神の前へと向かう壮大なオラトリオであり、信仰と死生観を深く掘り下げた作品として知られる。日本では演奏機会が少ないが、英国では精神性の高い名作として広く愛されている。この荘厳で内省的な音楽が、戦争で傷ついた町の人々の心を静かに照らし出し、言葉では届かない領域にまで感情を導いていく。
舞台は1916年、第一次世界大戦下のイギリス北部ヨークシャー。徴兵で多くの団員を失ったアマチュア合唱団は、存続の危機に瀕していた。町には戦死者の報せが日常のように届き、残された人々の生活には重苦しい沈黙が漂っている。そんな中、敵国ドイツで活動していたヘンリー・ガスリー(レイフ・ファインズ)が新たな指揮者として迎え入れられる。ドイツ文学と音楽を愛し、どこか謎めいた過去を持つ彼の存在は、保守的な町に静かな波紋を広げる。敵味方の境界が強く意識される時代において、彼の価値観は時に異端として受け止められ、緊張と軋轢を生んでいく。
ガスリーが集めたのは、退役軍人、売春婦、敬虔なボランティア、徴兵を控えた少年たちなど、社会のさまざまな層から集まった寄せ集めの団員たち。彼らは皆、戦争によって大切なものを奪われ、心に深い傷を抱えている。それでも“歌うこと”を通して、失われたつながりや自分自身の輪郭を取り戻そうとする姿は、どこか切実で、同時に力強い。ガスリーの厳しくも情熱的な指導のもと、当初はバラバラだった歌声は少しずつ調和を帯びていき、やがて彼らは前代未聞ともいえる“ある挑戦”へと踏み出していく。
その挑戦こそが、エルガー《ゲロンティアスの夢》の上演だ。反ドイツ感情が高まり、バッハやベートーヴェンといったドイツ音楽すら忌避される時代に、あえて大規模で難解な宗教音楽に挑むという決断は、単なる音楽的選択ではなく、分断に抗う意志の表明でもある。終盤、作曲家本人(サイモン・ラッセル・ビール)が登場し、演奏の改変に驚きを見せる場面は、本作におけるユーモアと緊張が鮮やかに交錯する象徴的な瞬間となっている。
主演のレイフ・ファインズは、『教皇選挙』『ザ・メニュー』などで存在感を放つ名優。本作では、厳格で偏屈でありながらも内に強い信念と葛藤を抱えるガスリーという人物を、深い陰影と静かな熱量で体現している。その演技は決して派手ではないが、観る者の感情にじわじわと浸透していく確かな説得力を持つ。共演にはロジャー・アラム、マーク・アディら英国の名優が集結し、さらに若いキャストの瑞々しい演技が作品に新たな息吹を与えている。
監督は『英国万歳!』などで英国アカデミー賞・トニー賞を受賞したニコラス・ハイトナー。ベネットとは4度目のタッグとなる。本作では1916年当時の衣装や街並みを丹念に再現し、工場の蒸気が漂う石畳、無鉄砲に自転車を走らせる少年、シルクハットで薄毛を隠す紳士といった細部に至るまで、生活の気配を丁寧に積み重ねている。それにより、架空の町ラムズデンは単なる舞台装置ではなく、確かに息づく“場所”として観客の前に立ち上がる。
合唱シーンでの長いパンショットは、団員一人ひとりの存在をすくい上げ、その多様性を視覚的に提示すると同時に、音楽が個を超えて広がっていく感覚を生み出す。クライマックスに据えられた《ゲロンティアスの夢》の演奏シーンは、映画全体の感情が収束する圧巻の瞬間だ。光と構図が緻密に設計され、音楽の持つ救済力が視覚的にも体現されることで、観客はその場にいるかのような没入感を味わう。
芸術は時代を反映せずにはいられない――ガスリーの言葉は、戦争の影に揺れる町の人々だけでなく、現代の私たちにも強く投げかけられている。効率と生産性が優先される社会において、芸術はしばしば無力なものとして扱われる。しかし同時に、それは人と人とを結び直し、言葉では届かない感情を共有させる不可欠な存在でもある。本作は、その矛盾を静かに受け止めながら、音楽がもたらすかすかな光を丁寧にすくい上げる。
そして何より、本作が描き出すのは、極限状況においてもなお「共に歌う」という行為が持つ意味である。分断や不安が広がる現代において、その響きは決して過去のものではない。音楽が人々をつなぎ直すその瞬間――その純度だけは、時代が変わっても決して色褪せることはない。
『ザ・コラール 希望を紡ぐ歌』は、TOHOシネマズ シャンテほか全国にて好評公開中。
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配給:ロングライド ©GERONTIUS PRODUCTIONS LIMITED 2025
