- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-19
この映画「戦略大作戦」は、戦争アクションに、金の延べ棒奪取作戦をプラスしたところが新味の、戦争冒険アクション映画の痛快娯楽作だ。
監督は「荒鷲の要塞」のアクション映画を得意とするブライアン・G・ハットン。
この映画は、戦場の中での戦闘アクションだけでなく、計画犯罪ものの持つ面白さも盛り込んで、二倍楽しんでいただきましょうという趣向だ。
この着想はなかなか面白い。とにかく、人をくった話が展開するのだ。
そして、この映画には当時、大きな反響を呼んでいた、ロバート・アルトマン監督の「M★A★S★H」の影響を大いに受けていると思う。
朝鮮動乱のアメリカ野戦外科病院を舞台に、そこに勤務する軍医たちの奇妙奇天烈な行動を描いた反戦コメディで、ブラック・ユーモアのタッチを含んで描いていた映画だった。
- 評価
- なし
- 投稿日
- 2024-06-19
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利休の権威が増大するとか、一面で堺の豪商である、彼の経済力に対し恐れを感じたという説もあれば、豊臣政権内部での権力抗争で、反対勢力からの讒言に遭ったとの説もあり、朝鮮出兵などでの反対意見の進言が、秀吉の逆鱗に触れたとする説などが、後世の歴史家から言われています。
しかし、この作品では、芸術の頂点に立つ利休と、政治権力の頂点に立つ秀吉との心理的な葛藤に焦点を絞って描かれています。
尾張の貧農から身を起こして天下人となった秀吉には、芸術と、それから皇室の権威への凄まじいまでのコンプレックスがあった、としています。
それが、茶の湯に金をとめどなくつぎ込む執着、黄金の茶室で、帝に茶をふるまった際の秀吉の異様な興奮、そして、貧しい農婦でしかなかった実母の大政所を飾る禁裏勤めをしていたと称する偽りの履歴、といった形で描写されるのです。
皇室の権威の方は、いくら関白太政大臣になっても、それ以上はどうしようもありませんが、芸術だと金の力で牛耳れば、いちおう格好はつくものです。
巨大なパトロンとして、あらゆる芸術家たちの上に君臨することで、芸術を司どろうとするのです。
しかし、それは所詮、擬制の支配でしかなく、同じ茶の湯の土俵上では、秀吉は利休の足元にも及ばないのです。 この映画の冒頭の茶室の場面、夏の払暁、秀吉を迎える利休は、庭に咲き乱れる白い朝顔を一輪だけ花筒に活け、残りの全てを門弟に命じて摘み取らせておきます。 そうやって、唯一の存在にした一輪の朝顔が、茶室の柱で客人を迎える趣向は水際立っています。 また、二人が最後に対決する茶室の場面でも、秀吉が素材として与える梅の枝を、無造作に花を散らし、水盤に投げ出した大胆な技で圧倒し、権力者がいくら寛大ぶってみせても、決して屈しない芸術精神を意志強く表明しているのです。 秀吉自ら、茶碗を評してみせたりして半可通ぶり、斯界の第一人者・利休を力で支配しても、芸術に関しては、遠く及ばないのをはっきりと自覚しているのです。 どんな世俗的な栄光を得ても、また権力を握っても、芸術的才能を得ることはできないということを-------。
だが、秀吉=権力、利休=芸術と単純に対比するわけにもいかないのです。 秀吉には、天下を獲った男ならではの力量と人間的魅力があり、それには十分、人の心をとらえる価値があるのです。 また利休の方には、純粋に芸術の道を求める姿勢にとどまらぬ、権力への志向が潜んでいるのです。 秀吉につき従うこと自体、精神の完全な自由を犠牲にして、名誉と力を得る行為だし、黄金の茶室という「わび」とは無縁の趣味に、どこか美を感じてしまっていると述懐もするのです。 あくまで、芸術に殉じた弟子の山上宗二の純粋さとは、距離ができてしまっているのです。 そして、その利休の側のジレンマと対置されるからこそ、太閤秀吉の芸術コンプレックスとの対照が際立ってきて、この二人の巨人の人間関係の奥行きを深めているのだと思います。 利休の三國連太郎、秀吉の山崎努、もうこれ以上の適役は考えられないほどの二人の名優の演技が、圧倒的に素晴らしく、権力と芸術が真っ向から激突する重量感溢れる、このドラマに厚みと深さを与えているのだと思います。
他の役にも重厚な配役がなされてはいるものの、それらのベテラン俳優たちの印象がすっかり霞むほど、二人の演技が抜きん出ていると思います。 顔に刻まれた深い皺の間に永年の芸の蓄積と、人間的な深みを感じさせる三國連太郎は、後頭部ひとつにも強烈な存在感を主張させ、微動だにせぬ後ろ姿の風格だけで、芸術家の強固な魂を表現してみせます。 また、一方の山崎努は、老境を迎えた成り上がりの権力者の恍惚と不安の交錯を、育ちの卑しさを滲ませながら、カリカチュアにならぬ、ぎりぎりの絶妙なリアリティで演じきってみせ、これまた実に見事です。 草月流の三代目家元でもある勅使河原宏監督は、特に美術に贅を尽くしてみせます。 大ベテランの西岡善信の細密な設計によるセットの中で、織部茶碗など実際の桃山時代の第一級の美術品を使う絢爛たる豪華な書画骨董が、本物の輝きを発していると思います。
この茶道のみならず、陶芸、華道、造園、建築、工芸、そして舞踊や能に至るまで、ふんだんに提供される本物の美の重みが、利休と彼をめぐる桃山文化人たちの芸術生活を引き立てているのだと思います。 各種芸術に造詣の深い勅使河原宏監督をはじめ、脚本には画家で芥川賞作家の赤瀬川原平、衣装にワダエミ、音楽に武満徹と現代日本の代表的芸術家を参加させているのも、「芸術」について追及しているこの映画に相応しいと思います。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-19
歴史ドラマというものは、厳然とした歴史の流れがあらかじめ決まってしまっているから、物語の筋がどうなるのかを楽しむ余地は少ないものです。
織田信長の後には豊臣秀吉が、秀吉の後には徳川家康が天下を獲る定めになっているし、話の中で石田三成がいくら智略の限りを尽くしたところで、彼が政権を取り損ねて殺されたのは周知の事実です。
野上彌生子原作の歴史小説「秀吉と利休」を基にして作られた、この勅使河原宏監督の「利休」も例外ではありません。
主人公の千利休が、秀吉から死に追いやられる結末はわかっているし、愛弟子の山上宗二が惨殺されるのも、利休の反対を押し切って朝鮮出兵が強硬されるのも、歴史のままです。
そして、三成が利休に家康の毒殺を命じる創作エピソードにしても、家康が生き永らえるのは必然だから、果たして実行するかどうかのスリルには結びつかないのです。
だから、我々観る者は、結果よりもその途中のプロセスを、ドラマとして楽しむというスタンスで観るわけです。
なぜ、秀吉は寵愛していた利休を殺したのか、その歴史上の「なぜ」が、この映画の最大のテーマになっているのです。
- 評価
- ★★☆☆☆
- 投稿日
- 2024-06-19
笑顔のない真面目なジャッキーチェンは、面白くない。アクションもキレもスピード感もなく、内容もグダグダ。成龍拳はどれなの?千々はほんまに妊娠してたの?
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-19
このトニー・リチャードソン監督、トム・コートネイ主演の「長距離ランナーの孤独」は、感化院に送り込まれた若者が、クロス・カントリー・レースの長距離ランナーに選ばれ、ただひたすら走る話だが、その走る過程に、貧しい自分の生きた環境などを回想し、そして最後には、保守的なイギリスの権化みたいな、感化院長の顔を思い出し、あんな奴にハクを付けるために走るのはイヤだと立ちどまってしまう話だ。
リズム感あふれるランニングの中に、現代イギリスの若者の反逆の姿を描いた、"怒れる若者たち"を代表するトニー・リチャードソン監督の秀作だ。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-19
黒澤明監督の志村喬主演の名篇生きるが主人公の死の陰翳深い作品で在ったように本篇もメメント・モリ,死が照射する生の捉え方を問う。ヴィム・ヴェンダース監督の伝記映画ピナ・バウシュの踊り続ける生命或いは最新作の邦画パーフェクト・デイズの日常生活も何処か哀しみの影に包まれて
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-19
楽しみにしていた作品を早速鑑賞しました。
二部作の後編、完結作品なので、期待も高まります。
インド映画は、時間が長いので、慣れない方は、その展開について行けない感がたまにこちらに伝わって来ます。
が、熱量の衰え知らずのインド映画の力に、何時しか、馴染んでいる様です。
長い尺でも、丁寧に、豪華にきらびやかに展開するので、見飽きないのです。
大型スクリーン対応ではあるが、映画を追求しているだけあり、どの映画館でも、堪能できる様です。
ハリウッドを超えるインド映画も、バイオレンスモノが増えたが、個人的には、
きらびやかに展開するインド映画が大好きです。
日本人がインド映画を知るきっかけとなった。『踊るマハラジャ』に並ぶ作品。
王の中の真の王とは、正に、慈悲の権現。
最後の展開に、あれ?となるが、王の気品、資質を備えた者は、王になるべくしてなる。
慈悲のある勇者こそ、黄金の河の流れをくむ、虎(勇ましく品格があり、威厳もある)の様でもある。
慈悲の権現は、常に、他の心を動かすのである。
その意味をあなたも新たにするだろう?
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-19
今朝のNHKラジオ深夜便を聴いて居たら謎深い茶人の千利休の新説も併せて紹介されていて興味を惹いた。本篇の如く秀吉の朝鮮出兵の観点も気に為る処だが真相は如何
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-19
月面基地での入浴シーンが何とも長閑な本篇,監修・光瀬龍はSF作家で在ると同時に龍ロン先生の虫眼鏡の昆虫エッセイストだった。怪獣映画にもそんな学者風な一面も
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-18
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ジョンフォード監督自身の言葉を借りれば、「家族の一員となることができなかった一匹狼の悲劇」が、ここで鮮やかに浮き彫りにされてくる。
娘は取り戻した。だが、イーサンには、その娘と失われた愛を回復させ、育んでいく場もなければ、また、それができるとも思われない。
愛は不在のまま、孤独な魂を抱えた肉体だけが、そこには存在していて、なんとも切ないのだ。
だが、その切なさが、たまらない魅力となっている異色の西部劇だ。
ジョン・フォード=ジョン・ウェインのコンビ作の中では、最も好きな作品であり、ジョン・フォード監督の最高傑作だと思う。
ジョン・ウェイン自身も語っているように、「イーサンは悪役である。だが、この悪役は滅法、魅力的である。」と。 それは、ジョン・ウェインが演じたためでもあるのだが、単に憎悪に燃えて、執拗なまでにコマンチ族を追うだけの男ではなく、その内に、愛の不在を宿しつつ、荒野を流離うしかなかった孤独な魂、男が本来持ち合わせている、あるいは、それに限りないロマンを感ずるという事を表したものだったからだ。 ジョン・ウェインは、後に「勇気ある追跡」で、アカデミー主演男優賞を受賞しているが、この映画での悪役イーサンの演技の方が、優れているのではないかと、個人的には思っています。 復讐の鬼と化し、数年かけてコマンチを追い、遂に酋長のスカーの死体の頭皮をはぎ、娘を抱きかかえ、「家に帰ろう」というイーサン。 彼は突如として、ヒューマニズムを回復させるが、その連れ帰るべき”家”は、イーサンにはないのだ。
この「捜索者」は、 ジョン・フォード監督とジョン・ウェインのコンビ作の中での最高傑作だ。 正義感に溢れ、心優しくヒューマンというのが、ジョン・フォード監督とジョン・ウェインが創り出した西部劇のヒーローのイメージだ。 だが、この映画「捜索者」の主人公イーサンには、それはない。 放浪の旅から帰り、インディアンとの混血青年が、家族に加わっているのを見ると、不快感を現わすし、コマンチ族の妻となった娘を、我が子であっても殺そうとする。 偏見に満ちた、復讐鬼なのだ。
- 評価
- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-06-18
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このクライマックスの決闘シーンは、西部劇史上でも有数の見事なラストシーンになっていると思う。
自分に恨みを持つコバーンは、自分をあっさりとは殺さずに、ジワジワとなぶり殺しにするだろうから、そこにチャンスが生まれるというヘストンの読みがモノをいうラストでは、あちこちを撃ち抜かれて、崖から落ちて瀕死の状態になったヘストンのところへ、勝ち誇ったコバーンが降りて来て、とどめを刺そうと身をかがめたその瞬間、コバーンの背中からのショット-------。
コバーンの背中に、いきなり銃弾の穴があいてドサリと倒れると、その向こうに寝たままのヘストンが見え、その左手に拳銃が握られているという鮮烈なショット-------。
カメラの角度をうまく活用した、アンドリュー・V・マクラグレン監督の斬新な演出が楽しめましたね。
奸智に長けたコバーンは、ヘストンの裏をかいて彼の娘バーバラ・ハーシーを誘拐して逃げてしまうのだ。 ヘストンは追手と共にコバーンを追跡する事になるが、その一行に娘の恋人で、見るからに頼りない青年のクリス・ミッチャも同行することになる。 その後、追手の一行はコバーンの策略で、ヘストンとクリスの二人だけで追跡を続けなければならなくなってしまう。これがコバーンの狙いで、岩山の中腹に陣取った彼は、ヘストンたちが双眼鏡でこちらを見ていると知ると、部下たちにバーバラを犯させる。 だが、頼りない青年と思われたクリスは意外にも、冷静沈着でヘストンが顔負けするするほどの勇気と機敏な行動を見せ始めるのだ。 そして、クライマックスは、いよいよ、ヘストンとコバーンという2大スターの対決となっていく。
この「大いなる決闘」は、ジョン・フォード監督の後継者として期待された、アンドリュー・V・マクラグレン監督が撮った西部劇で、本当に西部劇らしい味のある西部劇だ。 すでに西部開拓時代が終焉を迎えたアリゾナが舞台で、かつては鬼保安官として名を馳せたチャールトン・ヘストンも、今は歳をとり、引退を間近に控えて、娘と二人で静かに隠居生活を送ろうと考えていた。 そこへ、かつてヘストンが刑務所に送った、白人とインディアンのハーフのジェームズ・コバーンが脱獄し、重なる恨みをはらそうと復讐のために一味を引き連れて、近づいて来る。このコバーンの屈折したハーフの悪党ぶりは、凄みがあって実に素晴らしい。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-18
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この映画が成功したのは、オリジナル脚本の、人間への優しく、温かいまなざしにあったのだと思います。
我々の知るホームズは、いささか完璧すぎて、人間としてエキセントリックで、とっつきにくい面がありますが、この映画での若きホームズは、激しく、美しい恋もするというような人間らしさを持っています。
この事が、作品全体をより人間らしさに包まれた優しく、明るい雰囲気を醸し出しているのだと思います。
また、この映画のもつスピーディなテンポの良さは、何と言ってもバリー・レヴィンソン監督の演出の腕だと思います。
ホームズとワトソンが手製の飛行機で飛ぶ、クライマックスの胸がワクワクするような快調なテンポは、まさしくヤング・シャーロックにふさわしい楽しさに満ち溢れています。
ロンドン市中に隠されたピラミッドの恐怖を、若きシャーロック・ホームズが追いかけ、その謎を解明していくというストーリーだと聞いただけで、ワクワクしてくる映画です。 この映画は、まずホームズの生涯の友となるワトソンとのパブリック・スクールでのめぐり合いの場面から始まります。 そして、ホームズの推理が、決して超人的な飛躍を見せるのではなく、かなり理詰めで現実的であったという事を、ワトソンとの交流と日常生活上の小さな謎解きの中で語っていきます。 そのホームズが初めて遭遇した大事件。 シャーロック・ホームズの原作者のコナン・ドイルが書かなかったホームズの若き日の事件を、ホームズならこういうように謎を解明しただろうという、いわば、ホームズの行動原理を推理しながら謎解きをさせるという二重構造の面白さが、この映画の最大の見どころなのです。
この映画「ヤング・シャーロック ピラミッドの謎」は、探偵小説史上、最も有名な名探偵シャーロック・ホームズの若き日の大冒険を描いた映画です。 もちろん、原作にはない映画用のオリジナルで、製作総指揮がスティーヴン・スピルバーグ、監督が「レインマン」「ナチュラル」のバリー・レヴィンソン監督、脚本が「ホーム・アローン」「ハリー・ポッターと賢者の石」の監督でもあるクリス・コロンバスによる作品です。 霧に覆われた、暗く陰鬱な都市ロンドン。そのロンドンで、謎の吹き矢で名士たちが次々と狂死してしまう事件が起こります。 連続殺人事件、そして、その犯人はいったい誰なのか? そして、何が目的なのか?。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-18
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もともと、この爆発の模様をしっかりと撮った当時のニュース・フィルムが現存していて、それを実際に入れて再編集したわけだが、ここにロバート・ワイズ監督の大きな意図があったように思う。
あの白黒のニュース・フィルムを入れることによって、時間と空間を見事に合致させ、一つの核を作って、観ている者を、あの大爆発の現場に誘おうと、ロバート・ワイズ監督はしたのだと思う。
そして、彼の計算は見事に当たって、観ている者は目もくらむスペクタクルを目のあたりにすることが出来たのだ。
映画全体を通してロバート・ワイズ監督が言いたかった事は、科学の急速な進歩で数多くのメカが作り出され、世界は繁栄しているけれど、その繁栄をまた破壊するのも全て人間の行なう事。
その”人間の業の哀しさ”が、ラストの大爆発のシーンに的確に表現されていたのではないかと思うのです。
この大事故は多くの謎に包まれていただけに、空想をはたらかせる余地があるわけで、この映画では反ナチの若い乗務員の犯行という仮説を立てて、物語を構築している。 主演は「パットン大戦車軍団」のジョージ・C・スコット、「奇跡の人」のアン・バンクロフトで、当局の命令で警戒に当たるため、この飛行船に乗り込んだジョージ・C・スコットと、カメラマンというふれこみのゲシュタポのロイ・シネスの対立を軸として、盛り上げられていくサスペンスを、ヒンデンブルグ号の壮大な飛行場面に融合させたロバート・ワイズ監督の演出のうまさは、さすがだ。 ミニチュアと船体の部分的なセットと船内のセットをうまく織り交ぜて、巨大さをよく表現しているのも成功している。 銀灰色に輝く巨体が、ゆうゆうと雲間に消えていく光景は、SF的にロマンさえ感じさせてくれる。
この映画の題名にもなっている「ヒンデンブルグ」とは、飛行船の名前で、もともとはドイツ・ワイマール共和国の大統領の名前で、彼の名にちなんで命名されたものだ。 このヒンデンブルグ号は、第二次世界大戦の直前にナチス・ドイツがその国力を全世界に対して誇示するために作った飛行船なのだが、1937年5月、ドイツのフランクフルトからアメリカのニュージャージー州レークハーストに着陸寸前のヒンデンブルグ号が大爆発し、炎上した事件は、謎の大惨事として、全く原因がわからないまま今日に至っている。
- 評価
- なし
- 投稿日
- 2024-06-18
この「セルピコ」はご承知のように、ニューヨーク派の名匠シドニー・ルメット監督の作品で、アル・パチーノは、アカデミー賞で主演男優賞の受賞はできなかったものの、ゴールデン・グローブ賞のドラマ部門の主演男優賞を受賞しましたね。
私はアカデミー会員という、いわば、映画界の身内で投票するアカデミー賞よりも、各国の外国特派員の記者たちの投票で選ばれるゴールデン・グローブ賞の方が、より映画ファンの目線で選ばれ、映画ファンの気持ちに、より近い結果になっていると思っています。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-18
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組織の全部が狂ってしまったその内部からの、外部に向かっての社会的な告発が、それに至るまで、どのように深刻な人間的な苦悩を踏むものであるか、そして、内部告発に踏み切らせるものは、その組織の上層部の硬直化した問題処理の態度に起因している事を、セルピコは強く訴えているのです。
しかし、組織の内部での真剣な解決への努力と内省の苦しみを欠いた、安易な内部告発は、むしろ、うとましい一種の卑劣感が伴うものであり、社会に強く訴える力は、到底、持ちうべくもありません。
やむにやまれぬ正義感に立って、しかも、あらゆる内部解決の努力を払った、最後の手段としての苦悩の告発であり、一方においてはそれと並行して、あくまでも、その組織内にあって忠実勇敢に、日常の職務執行に献身するセルピコのような姿にこそ、我々は心を打たれるのだ。
それにしても、いかなる形であれ、内部告発者の末路は暗いものがあります。
その後、セルピコは不具の身を人知れず、スイスで過ごしたと言われています。
この報道は、セルピコの告発に基づいた調査結果であり、それだけに、彼は警察内部では異端者として忌避される存在になっていたのです。 当時のニューヨークのリンゼイ市長は、世論に応えるため、5人の委員からなる調査委員会を設ける事を宣言し、その調査が進んでいましたが、一方、セルピコは、最も危険な麻薬担当への転出を上司に強いられていたのです。 瀕死のベッドから、画面は彼が11年前に希望に燃えて、警察学校を卒業する場面へとフラッシュバックします。 正義感の強い仕事熱心な彼が、同僚たちが不感症になっている収賄、さぼり、暴行などの汚れた環境の中で、外見的な変貌と内面的な苦しみを重ねてゆく推移が、早いテンポで描かれます。 人間的に一般市民との繋がりを深めようとすればするほど、職場である警察の閉鎖社会からは次第に遊離していくのだった。 そして、裸のつき合いを持つヒッピー的な友人の間から現れた優しい恋人も、彼の人間性には魅せられ、愛しながらも、余りの潔癖さとその苦悩を見るに耐えかねて、別れていってしまいます。
しかし、このような映画が製作され、また率直に新聞を通して世論に訴えるところに、アメリカの伝統的な自由が生きており、忖度と腐敗だらけの、どこかの東洋の島国と違って、腐敗を腐敗に終わらせない社会の根強い復元力を感じさせます。 かのワシントン・ポスト紙の記者であったボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインによる、ウォーターゲート事件の新聞キャンペーンもその一つの例とみるべきでしょう。 1971年2月、ブルッキング・サウスの麻薬担当刑事のセルピコは、麻薬犯を逮捕しようとして、犯人に戸口から顔面を直撃されて倒れます。 同行の二人の刑事は、意識的にか支援をためらったのです。 セルピコが撃たれたとの報に、警察の同僚と上層部が、すぐに警官相互の殺しではないかと思ったほど、セルピコは警察内部で恨みを買っており、孤立していたのです。 というのは、その前年の4月25日、ニューヨークタイムズ紙の第一面は「ニューヨーク市警の汚職数百万ドルに及ぶ」との大見出しを掲げ、その後、連日にわたって、関連の暴露記事で強力な論陣を展開しました。
この「セルピコ」が公開された1974年頃のアメリカでは、クリント・イーストウッド主演の「ダーティ・ハリー」あたりから、警官ものの映画が、ブルース・リー(李小龍)の「燃えよドラゴン」のカンフー映画と共に流行となっていましたが、この警官ものは、ジーン・ハックマン主演の「フレンチ・コネクション」のような派手なアクションを売り物にする、ショッキングな実録タッチのサスペンスものと、ジョージ・C・スコット主演の「センチュリアン」のような、社会派警官の苦悩を描くものとの二つの系統に分かれていたように思います。 この「セルピコ」は、当然、後者の社会派警官の苦悩を描く系統に属する作品になっています。 ニューヨーク市警察の汚職を内部告発した、実在の警官をモデルにしているこの映画は、アメリカ社会の腐敗をリアルに描いて、とても迫真性のある映画になっていると思います。
- 評価
- ★☆☆☆☆
- 投稿日
- 2024-06-18
岩井作品もう観ない…
完全に感性変わっている
- 評価
- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-06-18
前を向いて生きていこうとする子供を周りの大人が台無しにする救いようのない社会。
ウリとシャブをやって上目遣いなのと、一旦持った希望が絶望に変わり屋上から見下ろすのは、どっちが幸せなのか。
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-18
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東西冷戦時代に、その両陣営で研究を競う、物質ミクロ化技術の秘密を握るチェコの科学者が、鉄のカーテンから亡命するが、途中で撃たれ、脳に重傷を負ってしまう。
そこで、西側陣営の軍部は治療のために情報部員や医師たちを、原子力潜水艇プロテウスに乗り込ませ、この潜航艇ごとミクロ化し、血管注射で科学者の体内へ送り込む。
この映画「ミクロの決死圏」の監督は、1950年代から1980年代までの長きに渡り、ディズニー製作の傑作SF「海底二万哩」、実験的な映像表現を試みた「絞殺魔」、戦争大作「トラ・トラ・トラ!」のアメリカ側監督、南部の人種差別を描いた問題作「マンディンゴ」など多種多様な作品を発表した、職人監督・リチャード・フライシャー。
この映画のミクロ化した人間が、人体に潜入し治療を行なうというアイディアは、わが日本の手塚治虫の漫画作品「吸血魔団」をベースにしていると思われるが、タイム・リミットを生かしたサスペンスやスパイとの攻防戦など、手に汗握る展開も見事だが、何より素晴らしいのは、L・B・アボットによる特殊効果だ。
「眼下の敵」での海上砲撃戦から、「タワーリング・インフェルノ」の高層ビル火災まで、ミニチュア模型や光学合成を駆使したL・B・アボットの特殊撮影は、現在の水準から見れば、ローテクニックではあるものの、その豊かなイマジネーションは普遍性があり、実に見事な出来栄えだ。 とにかく、一時間たつと縮小効果が薄れ、元のサイズに戻ってしまうという、緊迫したスリリングな状況の中、心臓を通過したりとか、異物排除のために白血球が襲い掛かかり、心拍の衝撃で潜水艇が大揺れしたりする、体内のスペクタクル・シークエンスは、ほとんど前衛的とも思える程の強烈な美術イメージに貫かれていて、見事としか言いようがない。 そして、クルーの一人が敵のスパイで妨害工作をするなどのエピソードも盛り込まれ、観ていて全く飽きさせない。 美術監督のデール・ヘネシーによる白血球や血管、巨大な模型で作られた心臓などのセットも実によく出来ていて、非常に印象的だ。
- 評価
- なし
- 投稿日
- 2024-06-18
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自分のヨットの無線受信機で発信人不明のSOSをキャッチしたフリーのカメラマン野口(三浦友和)は、友人の白バイ警官・江上(藤竜也)と、その通信が旧日本海軍の暗号で、十億円相当の金塊を積んでサイパン島沖に沈んだ潜水艦から発信されたことを突き止め、野口のヨットに居候を決め込んだ氏家由紀子(紺野美沙子)と三人で、サイパン島へと旅立っていくのだった。 だが、潜水艦は見つかるが、金塊はなかった。 残された航海日誌から、金塊はすでに日本に運び込まれているとわかり、さらに三人は旧日本軍のトーチカで首を吊って死んでいる由紀子の父を発見する。 彼は終戦直後、日本軍の秘密機関の工作員と日本に金塊を運んだが、独り占めを計った、その工作員に撃たれ、のちサイパンに渡り、復讐の日を考え続けながら生きていたが、絶望してSOSを発信、自殺したのだった。
日本へ帰った三人は、工作員が神谷太郎(芦田伸介)と名前を変え、政財界の黒幕となっていることを突き止め、新たな作戦を開始するのだった----。
由紀子に扮するユニチカ・ガール出身の紺野美沙子は、この作品が映画デビュー作で、清純な雰囲気は好感が持てるが、男二人を惑わすには、いささか幼すぎる感じがする。
そして、ラストは、三人が黒幕から見事、大金をゆすり取るが、由紀子は殺されてしまい、野口と江上は黒幕のセスナ機に、これも自家用機で体当たりして、二人はパラシュートで脱出となるエンディングを迎えるのだ。
- 評価
- ★★★★☆
- 投稿日
- 2024-06-18
この映画「黄金のパートナー」は、南太平洋に眠る十億円の金塊をめぐる青春冒険映画の佳作だ。
西村京太郎の原作「発信人は死者」のキャラクターを、脚本の長野洋が大幅に変更し、またミステリアスな部分をよりシンプルにして、ロベール・アンリコ監督、アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラ、ジョアンナ・シムカス主演の青春レクイエム映画の傑作「冒険者たち」的な夢とロマンを重点に、ヒロインをはさんでの男同士の友情、二人に対するヒロインの関係などを爽やかに描き分け、西村潔監督の鮮やかな演出を得て、愛すべき佳作になっていると思う。
特に、藤竜也のリノ・ヴァンチュラぶりや、三浦友和のアラン・ドロンぶりは楽しく、二人が軽妙にじゃれ合うところなど、背景がヨット、海辺のスナック、あるいは船室、海上、サイパン島と、非日常的な空間だけに生き生きと呼応し合い、その洒落た感覚は捨て難い。