エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス:P.N.「雪風」さんからの投稿
- 評価
- ★☆☆☆☆
- 投稿日
- 2024-05-12
長時間何を観せられてるのか、全然ついていけす、苦痛でした。
長時間何を観せられてるのか、全然ついていけす、苦痛でした。
誰向けの映画なんだろう?
たしかに漫才協会が何をやってるかとか、誰が頑張っているのかとかは伝わった。
でもそれって映画でやること?
漫才協会のホームページに紹介動画として載せておけばいいんじゃないかな。
とにかくメッセージ性は皆無。
ナイツのコントやYouTubeは面白いだけに塙監督は残念だった。
「ダーティハリー」のドン・シーゲル監督の演出にジョン・ウェインは目をみはり、以来、いつかは一緒に仕事をすることを切望していたと言われるが、それが最後に実現した。
その映画が、このジョン・ウェインの遺作となった西部劇の「ラスト・シューティスト」で、癌に侵された老ガンマンの最後の一週間が、淡々と描かれる静かな西部劇だ。
最後の西部劇のヒーローらしく、ジョン・ウェインが静かに最後の花道を去っていった感じだ。
映画の冒頭に、「赤い河」「リオ・ブラボー」「ホンドー」「エル・ドラド」といったジョン・ウェインの映画の抜粋が紹介され、そのイメージにダブらせて、映画の主人公の経歴を語るという、まさにジョン・ウェインその人のキャラクターとイメージの伝記映画とも言うべき作品になっていると思う。
生前に日の目を見ることなく、若くして不幸な死を遂げた、モディリアーニとその妻ジャンヌの静かに燃える愛を中心に、芸術の街モンパルナスで繰り広げられる、小さな人間模様を描いた、古き良きフランス映画の佳作「モンパルナスの灯」。
フランス映画界きっての美男としての栄誉を手にしながら、36歳の若さで急死する、儚い一生を送ったジェラール・フィリップの熱演が、奇しくも同じ年齢で世を去ったモディリアーニの一生に、そのまま重なるものがあって、いっそう悲哀感が漂ってくる。
そして、モディリアーニの創作のイメージを演じる、若き日のアヌーク・エーメが、あまりにもたおやかで、儚げな瞳をして、画面の向こう側から迫ってくるので、わけもなく、こちらの瞳も思わず濡れてしまいそうになる。
メランコリックな気持ちになって、ノスタルジーに浸りたい時に観たい映画ですね。
作家のミッキー・スピレインが、自作のハードボイルド小説の主人公マイク・ハマーを演じたという例はあるけれども、映画俳優が自伝の映画化に自ら主演したというのは、全く珍しいのではないかと思う。
そんな映画が、オーディ・マーフィが主演した「地獄の戦線」だ。
もっとも、オーディ・マーフィが、映画俳優になったのは、”自伝”を発表した後ではあったのだが。
というのは、彼はすでに第二次世界大戦で数々の武勲を立てて、24個もの勲章を授けられた英雄であったのだ。
オーディ・マーフィを演じるオーディ・マーフィが、この映画の見どころになるわけだが、小柄で童顔で、単身、敵の戦車に立ち向かうシーンなど、なかなか見応えのある戦争活劇になっていると思う。
伝記映画の主人公になるようなアーティストは、たいてい破滅的な運命をたどるものだ。
その理由は、創作上の葛藤、酒、女、孤独などさまざまだが、この2009年度フランス セザール賞作品賞受賞の映画「セラフィーヌの庭」は、それらと別次元の”聖なる破滅”とでも言うべき、女流画家の壮絶な人生を描いている。
パリ郊外とはいえ、1910年代とあって緑がいっぱいの田舎で、通いの家政婦として働く初老のセラフィーヌ。
一人暮らしで無愛想だが、自然の中で呼吸するように絵を描く彼女を、中央画壇に売り出したドイツ人の画商ウーデ。
自然を愛し、信仰厚い土着の魂と、芸術共和国の市民の自由な精神とが、離れ離れになりながら苦闘を重ねる。
これは、その奇縁の物語だ。
写し出されるセラフィーヌの絵の圧倒的な質感と、フランスの田舎の豊饒な色彩を捉えたカメラが素晴らしい。
徳川二代将軍・徳川秀忠の病に乗じて、嫡子・家光の弟・忠長は、外様大名と謀反を企てていた。
その証拠となる連判状を奪うべく、幕府隠密・伊賀の甚伍左(大友柳太朗)が、配下の者15名と共に駿府城への潜入を試みるが、城に雇われた根来忍者・才賀孫九郎の策によって、次々に隠密たちが死んでいく。
余裕の守り手に焦りの攻め手。現実にあるような忍具や体術を使った忍者戦が描かれる一方、新規採用の孫九郎が手柄を立てるに従い、城の侍たちに妬まれ、多数であったはずの城方が、孫九郎の孤軍奮闘となり-------。
無意味な死が積み上がり、次第に意味を成して、攻守の形勢が逆転していく。
心理戦やマジック的な忍法が、じっくりと描かれている作品だ。
この韓国映画「黒く濁る村」は、「神弓-KAMIYUMI-」で圧倒的な存在感を示した演技で私を魅了したパク・ヘイルが、2010年に出演した映画で、「シルミド/SILMIDO」のカン・ウソク監督による異色のサスペンス・ミステリです。
20年も音信不通だった父の訃報を受け、山奥の小さな集落にやって来た青年ユ・ヘグク(パク・ヘイル)。
父の財産や土地の所有権が元刑事の村長の名義になっていることや、村人に不穏な空気を感じたユ・ヘグクは、父の死因を探ろうとするが、村人たちの妨害に遭い、事件は意外な顛末を迎えることになるのだった-------。
2時間41分という長尺だが、韓国映画らしい湿っぽい人間描写や、寒村の閉塞感を活かした、ねちっこいサスペンス演出のおかげで、最後まで飽きさせないし、ユ・ヘグクと左遷された検事の関係性も話を盛り上げてくれる。
とはいえ、ミステリとしての詰めは甘いし、細かい部分で杜撰な描写も目立つため、ラストカットの”衝撃”感が、薄れてしまっているのが少し残念だ。
アクロバット的なガンプレイが炸裂する、マカロニ・ウエスタンの貴公子ジュリアーノ・ジェンマが、シリアスな復讐劇に挑む「続・荒野の1ドル銀貨」。
ややこしい邦題だが、ジェンマの出世作「荒野の1ドル銀貨」とは関係のない「夕陽の用心棒」の続編となる作品だ。
監督は、「夕陽の用心棒」「荒野の大活劇」でもジェンマと組んだ、イタリアの娯楽映画の職人監督ドゥッチオ・テッサリ。
そして、映画音楽の巨匠エンリオ・モリコーネの音楽も印象的だ。
ジョン・ランディス監督の「アニマル・ハウス」は、素材そのものが、ダイレクトな笑いの発火点となって、我々観る者を直撃する。
時は1962年。アメリカ北東部の名門大学。
そのキャンパスの一隅にあるのが、アニマル・ハウス。
実は学生クラブの一つなのだが、ここの学生ときたら、まあズッコケでたらめ、不潔でとんまときている。
もう、どうしようもないメンバー揃いなのだ。
彼らが学園内で、町中で、もう、めちゃくちゃな行動を見せるのだ。
エネルギッシュな笑いの中で青春には、点取り、ごますり、ガリ勉だけじゃない、もっと貴重なものがあった筈だと、この甥が派語りかけるのだ。
「タミー」をはじめ、1960年代のヒット曲が流れる中の青春讃歌。
決して懐かしさなんかじゃない。
青春とは、エネルギーなんだという強烈なパンチ。
この若さは素晴らしいと思う。
英国映画「雨の午後の降霊祭」は、役者として「大脱走」、監督としても「ガンジー」や「遠すぎた橋」で有名なリチャード・アテンボローがプロデュースしつつ主演もしている映画です。
いかにも英国映画らしい、モノクロームでなくては作れないお芝居です。
テーマは誘拐。犯人夫婦の妻の方が霊媒で、僅かな信者を集めては降霊会を開きます。
リチャード・アッテンボロー扮する夫が、子供を誘拐し、妻が霊媒としてその家に乗り込んで、子供が自分の夢に現われたなどと話します。
身代金をうまく手にいれる場面の疾走感が、とてもいいんですね。
これで犯罪としては成功なのですが、結局は誘拐された子が殺され、やがて実に意外な方法で真実が暴露される。
ここでは、ミステリーという言葉も推理ではなく、神秘という本来の意味に取ったほうがいいのかもしれません。
抑制されたリアリズムで作ってゆくから、最後の超自然的な展開が冴えわたります。
英国以外の国では絶対に作られない種類の映画だと思いますね。
この映画「カーツーム」は、19世紀半ばの清朝中国を舞台に、内乱の鎮圧に活躍した英国の将軍”支那のゴードン”の晩年を描く歴史大作。
スペクタクル映画としては説明が多すぎるが、ゴードン将軍役のチャールトン・ヘストンと反乱軍の回教徒のリーダー、マーディ役のローレンス・オリヴィエという、当時の大スターと名優との激突が最大の見物だ。
ゴードン将軍が英国のグラッドストーン首相の策謀で、スーダンの総督として赴任する。
そして、反乱軍のリーダーのマーディと会って局面を打開しようとするが成功せず、遂に首都のカーツームにおいて包囲され、悲愴な最期を遂げるまでを、歴史の教科書的な生真面目さで描いていて、凡庸なバジル・ディアデン監督の演出のせいもあって、面白みのない作品になっている。
もっとも、ドラマ的には盛り上がりに欠けるものの、砂漠の戦闘シーンは、大勢のエキストラを動員して、相当な見せ場になっている。
そして、最大のスペクタクル場面は、やはりクライマックスのカーツームでの攻防戦で、動きは西部劇でのインディアンの来襲より鈍くて爽快さもないが、重量感は十分感じられましたね。
このマルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」は、第1部「犯罪大通り」と第2部「白い男」で構成されていて、壮大な愛憎絵巻を展開して見せる作品だ。
ドイツ占領下のフランスで、3年カ月の歳月をかけ、豪華なセットや衣装、最高の俳優によって、この芸術作品を完成させた、マルセル・カルネ監督のレジスタンス魂は、今観ても、強く心を打つものがある。
マルセル・カルネ監督は、このドラマを民衆の燃え上がるような
狂気の中に、描き上げていったと思う。
恋とは何か?人間のたとえようもない命のほとばしり。
特に凄いのはラストだ。
去って行く女を追って、青年が走る。
彼を押し包むようにして、民衆が踊り狂う。
この民衆のエネルギーこそ、フランス人のエネルギーの表明であったのだろう。
それはそのまま、ナチスに対して、決して屈服することのない、フランス人魂の表明だったのだ。
そして、三大スターの素晴らしい名演技。
犯罪通りのセットも敬服に値する。
この映画「映画は映画だ」は、ソ・ジソブ、カン・ジファンという二大スターがガチンコで激突する、凄まじい作品だ。
ヤクザのような映画スターであるスタ(カン・ジファン)と、映画スターに憧れるヤクザのガンペ(ソ・ジソブ)。
同じ志向性を持ちながら、決して交わることが無いと思われた二人は、ひょんなことで出会い、同じ映画で競演することになる。
しかし、アクションの演技が出来ないヤクザと、手加減が出来ない俳優は、カメラの前でも本気度100%の殴り合いをしてしまう。
”哀しみと憂愁の翳り”をオーラのごとく放つ、ソ・ジソブの存在感は、やはり、この映画でも凄い。
果たして、こんな状態で本当に映画は完成するのか?-------。
撮影で殴り合うだけでなく、ヤクザがヤクザである限り逃れることの出来ない悲哀も描いていて、この作品は紛れもなく、映画好きの心を熱くする、”映画愛”に満ちた映画なのだ。
この映画「突撃隊」は、若きスティーヴ・マックィーンが主演し、ドン・シーゲルが監督した戦争アクションだ。
上官への反抗で、士官から一兵卒に降格され、最前線に飛ばされたという設定が、まさにマックィーンにピッタリなんですね。
映画の前半は、前線に送り出された兵士たちの不満と、逆に元気はつらつとしてくるマックィーンとの対比で、兵士たちの個性を際立たせ、中盤は本隊が留守であることを隠すために、ジープを改造して戦車のような音を立てたり、敵の隠しマイクを利用して、偽の実況中継をしてみたりと、様々な手を使った騙し合いが、コミカルに展開していく。
白黒映画の89分と短いながらも、映画のツボを押さえたペース配分が、実に見事だ。
さすが、ドン・シーゲル監督、限られた予算でも、使い方次第でいくらでもスケール感は出せるという見本のような映画だ。
マックィーンが配属される分隊には、調達屋のボビー・ダーリンや、修理工あがりのジェームズ・コバーンがいて、思わずニヤリとしてしまいます。
この作品は、それまでセックス・シンボルとして人気を博していたマリリン・モンローの、アクターズ・スタジオでの演技のトレーニングの成果が発揮され、彼女のターニング・ポイントとなった作品で、彼女のとぼけた中にも人間の悲しみを表現した演技は、辛口で知られるニューヨーク・タイムスの映画評で、「マリリン・モンローはついに女優になった」 と評されたのです。
彼女が演じるのは、田舎の純粋というにはいささか常軌を逸した朴訥さの、カウボーイにひと目惚れされる酒場の歌手の役だ。
人生の当面の目標を、ハリウッドの女優になることと決めているこの歌手の、目標からそれていく様子が描かれているのだが、ドラマはコミカルな中にホロリとさせるものがある。
何度となくカウボーイの手から逃れようとするが、とうとうそれもならないままに、雪に閉ざされた、とあるバス停留所のドライブ・インまで連れられて来てしまった。
このドライブ・インでのマリリンの一部始終、つまりカウボーイの中に真実を見たヒロインには、人生と男の裏も表も知り尽くした女ならではの、そこはかとない優しさが漂っていたように思います。
この映画「赤い天使」は、増村保造監督、若尾文子コンビによる第15作目の作品で、敗色濃い中国大陸を舞台に、従軍看護婦とそこで出会った男たちの物語だ。
この映画は「兵隊やくざ」と同じ有馬頼義の原作ですが、あの痛快さや開放感はどこにもなく、暗く重苦しいトーンで貫かれている。
最前線の野戦病院は、傷病兵であふれ、死者も生者も一個のモノと化していく。
負傷した脚をノコギリで切断する音が響く手術の描写をはじめ、実際に従軍経験のある小林節雄の撮影を得た、増村保造監督の過剰なまでのリアリズム演出は、戦争の真実を抉って鬼気迫るほどだ。
両手を失った一等兵(川津祐介)、戦場の狂気の中で正気を保とうとモルヒネを常用する医師(芦田伸介)。
戦争に身体も心も蝕まれた男たちに深い愛を捧げるヒロインを演じた若尾文子が、凄絶なまでに美しい。
増村保造監督の映画のヒロインの多くは、狂気の愛に生きるが、戦場という極限状況に置かれた若尾文子は、おびただしい死と隣り合わせの男たちに愛を与え、一瞬の生を実感させる。
この東映映画「帰って来た 女必殺拳」は、ご存知、志穂美悦子主演の「女必殺拳」シリーズの第三作目の作品だ。
かつての緋牡丹のお竜の現代版とも言うべき、カラテの名手・李紅竜(志穂美悦子)が暴れまわる痛快アクション映画だ。
この映画は、もちろん言うまでもなく、志穂美悦子の華麗なカラテ・アクションが目玉の荒唐無稽な話ではあるが、志穂美悦子の爽快な身のこなし、少年のように澄んだ表情が、活劇シーンの連続するスピーディーな画面作りと溶け合い、”少年熱血冒険活劇”風の魅力を放っていると思う。
また、人間の激しいアクションこそが眼目であり、話の展開はそのためにだけあるという形は、本来のアクション映画の原点を示すものだと思う。
この映画「さざなみ」は、第65回ベルリン国際映画祭で、主演男優賞と主演女優賞を受賞した秀作ですね。
長年連れ添った夫婦の関係が、1通の手紙によって揺らいでいく様子を通し、男女の結婚観や恋愛観の決定的な違いを浮かび上がらせていく人間ドラマでしたね。
この「さざなみ」は、静かな映画ながら、その静謐さの中から、オスカー候補となったシャーロット・ランプリングの怒りと悲しみの表情が、微かな隙間から眼光を光らせているように見え、”さざなみ”のようにざわざわと私の心を恐怖に陥れる凄みがありました。
とにかく、この夫ジェフは、妻の前でそれはないでしょうというくらい脇が甘いですね。
妻ケイトの控えめな仕草と態度が、それだけ彼女の憤怒の深淵さを覗かせているのに、あ~、男って愚かですね。
ジェフは、過去の恋愛の記憶を反芻するようになり、妻は夫に対する怒りや不信感を募らせていくんですね。
45回目の結婚記念日で、ジェフと踊るケイトのまなざしに、刹那に感じられた、冷たい刃物の閃きが感じられる、そんな怖い映画でしたね。
銀行強盗のゲッコー兄弟が、元牧師一家を人質に取り、アメリカとメキシコの国境を越える前半部と、国境近くのバーで、”夕暮れから夜明けまで”の間に展開する後半部。
美女のセクシーなダンスの前で、俳優タランティーノが死ぬ時、お得意のバイオレンス・アクションは、血みどろのスプラッターへと切り替わる。
主役は、クールなギャングスターからハイ・テンションなヴァンパイアへと交代し、当時33歳のタランティーノと27歳のロドリゲスという、才気溢れる映画オタクたちは、そのいい加減さと思いつきの力強さを、我々観る者に見せつけるのだ。
すると、それまでおとなしかった、ジュリエット・ルイスは、みるみる色気を炸裂させ、濃い顔のジョージ・クルーニーは、益々、暑苦しく動き回るのだ。
イカしたセリフとヤンチャなストーリー展開。
青臭い楽しさがいっぱい詰まった、この映画は、理屈抜きに面白い作品だ。