陽炎座 作品情報
かげろうざ
一九二六年。大正末年で昭和元年の東京。新派の劇作家、松崎春狐は偶然に、美しい謎の女、品子と出会う。三度重なった寄妙な出会いを、春孤はパトロンである玉脇に打ち明けた。ところが、広大な玉脇の邸宅の一室は、松碕が品子と会った部屋とソックリ。品子は玉協の妻では……松崎は恐怖に震えた。数日後、松崎は品子とソックリの振袖姿のイネと出会う。イネは「玉脇の家内です」と言う。しかし、驚いたことに、イネは、松崎と出会う直前に息を引きとったという。松崎の下宿の女主人みおは、玉脇の過去について語った。玉脇はドイツ留学中、イレーネと結ばれ、彼女は日本に来てイネになりきろうとしたことなど。そして、イネは病気で入院、玉脇は品子を後添いにした。そこへ、品子から松崎へ手紙が来た。「金沢、夕月楼にてお待ち申し候。三度びお会いして、四度目の逢瀬は恋死なねばなりません……」金沢に向う松崎は列車の中で玉脇に出会った。彼は金沢へ亭主持ちの女と若い愛人の心中を見に行くと言う。金沢では不思議なことが相次ぐ。品子と死んだはずのイネが舟に乗っていたかと思うと、やっとめぐり会えた品子は、手紙を出した覚えはないと語る。玉脇は松崎に心中をそそのかした。この仕組まれた心中劇の主人公を松崎は演じることが出来ない。心中から逃れた松崎は、アナーキストの和田と知り合う。和田は松崎を秘密めいた人形の会に誘う。人形を裏返し、空洞を覗くと、そこには男と女の情交の世界が拡がっている。松崎が最後の人形を覗くと、そこには人妻と若い愛人が背中合わせに座っている。死後の世界だった。松崎は衝撃を受けた。金沢を逃げ出し、彷徨う松崎は子供芝居の小屋に辿り着いた。舞台で玉脇、イネ、品子の縺れた糸がほどかれようとした刹那、愛憎の念が、一瞬にしてその小屋を崩壊させる。松崎は、不安に狂ったように東京に帰ると、品子の手紙が待っていた。「うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頬みそめてき」“夢が現実を変えたんだ”とつぶやく松崎の運命は奈落に落ちていくのだった。
「陽炎座」の解説
たび重なる偶然から知り合った品子という謎の美女の誘いで現世ともあの世ともつかぬ世界で翻弄される劇作家の姿を描く。泉鏡花の同名の小説の映画化で、脚本は「ラブレター」の田中陽造、監督は「ツィゴイネルワイゼン」の鈴木清順、撮影も同作の永塚一栄がそれぞれ担当。
公開日・キャスト、その他基本情報
公開日 | 1981年8月21日 |
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キャスト |
監督:鈴木清順
原作:泉鏡花 出演:松田優作 大楠道代 加賀まりこ 楠田枝里子 大友柳太朗 東恵美子 麿赤児 沖山秀子 玉川伊佐男 佐野浅夫 伊藤弘子 佐藤B作 原田芳雄 中村嘉葎雄 |
配給 | 日本ヘラルド |
制作国 | 日本(1981) |
上映時間 | 139分 |
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ユーザーレビュー
総合評価:5点★★★★★、1件の投稿があります。
P.N.「オーウェン」さんからの投稿
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-12
"万華鏡を覗いたように華麗なイメージの散乱が生と死、現実と幻想のめくるめく謎の渦をなしている「陽炎座」"
鈴木清順監督の「陽炎座」の登場人物は、松田優作の主人公以外、ほとんど正体が定かではない。
この主人公の青年文士は、美しい人妻とたびたび偶然に出会って魅かれ、三度目には肌を交えるが、彼女の心をつかめない。
彼女の誘いの手紙で東京から金沢まで出かけても、彼女は姿を見せず、やっと会ってみると、手紙など書かないと言うのだった。彼女は主人公の前で、スケッチブックに〇△▢と書き連ねるかと思えば、爛漫たる桜の大樹のてっぺんに立っていたりするのだった。
その間、彼女の夫が随所に現われ、二人のことをなにもかも知るかのようでありつつ、本当のところはわからない。
そうかと思えば、死んだはずの女が何度も登場して、舟で川を流れたり、芝居小屋の中空を飛んだりする。
アナーキストらしき男や人形裏返し儀式の老人など、他にも多様な人々が出てくるが、行動の意味も言うことの真偽も定かではない。 主人公以外の諸々の人物は、正体どころか、実は生死さえ不明であるということなのだろうか。 そうなると、描かれることのすべてが疑わしく思えてくる。 わけのわからない人物が、荒唐無稽に出没するのにあわせて、建物はもちろん道や野原や川までが、作り物のセットのように見えはじめてくる。 大楠道代の人妻は、手紙など出していないと否定した後、主人公に言う。 「そういえば----夢の中で手紙を書きました。そっくりあのとおりに書きました。----でも夢の中です。きっと私の夢を覗いていた人がいるんでしょう。その人が手紙を出したんですわ、夢のままに」。 言うなれば主人公は、その美しい人妻に魅かれるままに、「夢の中」を「夢のままに」彷徨し続けるのだ。
恋のさすらいの中、やがて心中死ということが見え隠れする。 そして、裏返すと心中直前の男女の性愛の姿が見える人形は打ち壊され、男と女の関係劇を繰り広げた芝居小屋は崩壊し、主人公の眼前で恋しい女は水中に沈み去って、一組の男女の心中死体が池に浮かぶ。 男はあの夫であるが、女のほうはその妻とも、死んだはずの前妻とも、あるいは別の女とも見え、はっきりしない。 ラストにおいて、主人公は自己遊離の状態に陥って、あの人妻と心中直前の自分の姿を、少し離れたところに立って見つめている。 夢幻世界を彷徨することで、主人公は死をはらんだエロスを体験し、その結果、一種の眩暈の状態が起こるのであろうか。 この映画を観ている者についても、まったく同じことが言え、これはいわば万華鏡を覗いたように華麗なイメージの散乱する映画で、そのイメージは生と死、現実と幻想の混淆から成り立ち、めくるめく謎の渦をなしているのだ。 それゆえ、この映画を観ることは、死を覗き見るようにして、生の躍動を感じる眩暈体験にほかならないのだ。