日時:1月16日(月)
場所:ザ・リッツ・カールトン東京2Fグランドボールルーム
登壇者:マーティン・スコセッシ監督、村上茂則
アカデミー賞にも輝く巨匠マーティン・スコセッシ監督が、戦後日本文学の金字塔と称される遠藤周作の「沈黙」を遂に映画化した。「沈黙」は世界20ヶ国以上で翻訳され今も読み継がれる名作。
スコセッシが原作と出会ってから28年、いくつもの困難を乗り越えての夢の一大プロジェクトには、主演のアンドリュー・ガーフィールドを筆頭にアダム・ドライバー、リーアム・ニーソン、日本からは窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮、笈田ヨシら各世代の実力派が名を連ねる。人間の強さ、弱さとは? 信じることとは? そして、生きることの意味とは? 混迷を極める現代において、永遠のテーマを深く、尊く描いた、マーティン・スコセッシの最高傑作にして本年度アカデミー賞最有力作品。超話題作の日本公開を目前に、マーティン・スコセッシ監督が再来日、作品の完成を報告した。単一作品でハリウッドの巨匠監督が二度の会見を開くのは極めて異例であり、原作発祥の地である日本への敬意と映画への並々ならぬ情熱が感じられる会見となった。また、会見には、先祖受け継がれてきた信仰と伝統を現在も守り続ける、隠れキリシタン帳方(ちょうかた)の村上茂則氏が登場した。
スコセッシ監督は、「積年の思いでようやく完成したこの作品を、日本の皆さんに受け入れてもらえて本当に嬉しく、夢がかなったという気持ちです」と挨拶。日本で初めて読んだのは日本だったことを告白し、「どう作るべきか、どう解釈するべきか、試行錯誤の旅だった。映画が完成したから終わりではなく、この映画とともに生きていく感覚だ」と語った。
ローマ法王との謁見を尋ねられると、「法王が観てくれたかどうかは確認できないが、聖職者に対する試写を行い、有意義な対話ができた。アジアの神父から、隠れキリシタンに行われた拷問は確かに暴力だが、普遍的かつ唯一の真実というキリスト教を持ち込んだことが暴力ではないか、という意見ももらった」と答えた。「宣教師の傲慢さを一つずつ崩して行った。だから単に信者を弾圧するのではなく、リーダーにプレッシャーを与えて上から崩して行くという手法を取ったのではないか。映画の中でもロドリゴが踏絵を踏めば、彼の傲慢が崩されます。そこで彼の誤ったキリスト教の考えが覆され、自分を一度空っぽにして自分は仕える人になり、ロドリゴは真のクリスチャンになりえた」と、心身ともに変わる主人公に言及した。
脚本が完成に迫ったのは、「2003年の『ギャング・オブ・ニューヨーク』の頃。私生活でも再婚、子供も生まれて可能性が広がった」と述べた。原作の出会いは、数多くの議論を呼び、社会現象化した1988年の『最後の誘惑』の頃。「エピスコパル教会のポール・ムーア大司教から「沈黙」を差し出された。『最後の誘惑』の後で、私は自分の信仰心を見失い、何か今一つ納得いかないという気持ちになっていた。「沈黙」は、もっと深く探究しなければならないのだと教えてくれた、自分にとっては大切な作品」だと、更に熱を込めた。
また、政治、経済、信教など、世界が様々な問題を抱える2017年に本作が公開される意味を問われ、「弱さや懐疑心を描いた作品だから、そういうテーマ(問題)を抱えた人に伝わればいい。また、否定ではなく受け入れる事を描いた作品でもあり、特にキチジローは『弱き者の生きる場はどこに?』と問いかけます。弱者を排除しない世界、人が人として生きる真価とは何かを考えることでもあります」と、本作の根底にあるテーマを説明。「社会において誰もがバットを振り回すような強き者である必要はなく、(弱者を排除することが)文明を維持していく手段ではないはず。社会からはじかれたのけ者を、人として知ろうとすること。それは個人から始まることです。」と力を込めた。「新約聖書で私が好きな要素なのですが、キリストは常に卑しい人々と共にいた。取り立て屋や売春婦などの”けがらわしい”とされる人々をキリストは受け入れていました。神聖になる要素を彼らの中に見出していたのです」と続け、
「今、最も危険にさらされているのは若い世代の人々です。勝者が歴史を勝ち取り世界を制覇するところしか見ていません。世界がそうやって動いて行くと思ってしまうのは本当に危険なこと。現代は物質的な世界になっているが、その世界においてこそ、人が何かを信じたいと思う心について考えるというのは大切なことです。西洋世界では、こういった事を真剣に考えない風潮で少し小ばかにするような空気があります。昔から西洋の世界でできた宗教的基盤を作り上げた基盤が、今革新を遂げているような気がします。大きな変革の最中にあるのだと思います」と、時代への警鐘を鳴らした。
会見の終わりに登場した村上茂則氏が、「自分の先祖が受けた苦難を目の当たりにして、涙が出ましたし思わず感情があらわになるような思い」だと伝えると、「日本の文化やキリシタンの皆さんの勇気を損なうことないよう描いたつもりです。忠実に敬意を持って、そして共感と慈悲心を持って描こうと、力の限りを尽くしました。モキチの磔の場面の撮影では、日本のスタッフもアメリカのスタッフも皆涙を流していました。本当に真剣に取り組んだ撮影でしたし、やらなければならない巡礼のような気持ちで挑みました」と、決意を新たにするように結んだ。