『ギャベ』『カンダハール』で知られるイランの名匠、モフセン・マフマルバフ監督の最新作『独裁者と小さな孫』の公開を記念して、初日の12日に都内の劇場で想田和弘氏(映画監督)と森直人氏(映画評論家)による舞台挨拶イベントを実施。トークショーが行われた。
両者による主なやりとりは次の通り。
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■森氏:想田監督は、今回本作のパンフレットにも寄稿されていますが、「映画とは擬似体験」という書き出しから始められていますね。その心は? また、この作品の感想をお聞かせください。
■想田氏:映画というメディアは目と耳を使うわけですね。つまり、五感のうちの二つを使う。しかも、時間の感覚もありますよね。だから、今、現存するメディアの中では、一番我々の体験を再現しやすいメディアだと僕は考えています。だから、擬似体験の装置として、映画というのは一番直接的で、人の心を動かしやすいというか、直接的に自分が体験したかのようになるということですね。この映画を観ていると、普通は感情移入しないだろなっていう人に対して感情移入するという、非常に珍しい経験をさせてもらえる。
今回、民衆の一人でなく、独裁者に感情移入をさせるというのは、大きな選択だったと思います。普通は民衆を主人公にして描くほうが、やりやすいかもしれないですね。だけど、そうすると説教くさい映画になるかもしれないし、月並みな構図になるかもしれない。だけどここでがらりと反転させて、独裁者っていうのを主人公にして、その目線で描いてく。しかも、独裁者の視点で描くからといって、独裁者に感情移入するようには作られていない。ここがすごいとこなんです。むしろ、この人がやった数々の悪行が次々に明らかにされていって、旅の過程でモロに出てくる。あらゆる不幸、貧困、争い、この人が行った様々な行為の帰結として起きているということを、彼自身が気づかされてしまう。きつい経験だと思うんですよね。
■森氏:「擬似体験の装置である」とおっしっゃていましたが、ある種の、プロパガンダになり得るというか、メッセージをそのまま受け取ると、説教くさくなるんじゃないかと危惧されていましたけども、それは、体験するということと、何かを押し付けて受け取るってこととは全く逆の現象になるということですよね。
■想田氏:これを観てプロパガンダだと思う人はあまりいないと思うんですよ。これって本当にポイントだと思います。彼の場合は恐らく描写っていうことに徹しているんだと思いますね。何かメッセージを伝えるだとか、観てる人にこういうメッセージを受け取ってほしいとか、そういうことは目指してなくて、恐らく、世界を描写するってことですね。ただしそれは、彼の視点で描写するということ。ここの軽装性がさらなるポイントだと思うんです。
■森氏:監督の主観ってことですね。
■想田氏:完全に主観です。彼だからこそ、こういう風に独裁者の行為を眺め、描くことができるわけで、別の凡庸な監督が撮ったら、こんな風に奥行きが深い映画にはならないと思います。
■森氏:僕も面白いと思ったのは、ある種のメタメッセージみたいなものを大きく打ち出してる映画だと思ったんですね。それが、ラストシーンに出てくる青年。ある重要なセリフを口にするんです。監督が来日した際に「あれは誰ですか」とお聞きしたんですけど、「あれは私です」と答えられていました。それは実は想田監督も見抜いていた? あのシーンは力点があるところですよね。
■想田氏:あのラストシーンは非常に良くできていると思います。いろんな見方、いろんな考え方の人たちを効率良く登場させるんですよ。そして僕はこのラストシーンを観客に対する問いかけだと思いました。あなただったらどうしますか?っていう。これを選ぶのは私たちなんだ、ということですね。それが、民主主義ということだと多分マフマルバフは考えていると思いますし、それをこの映画の中で構造的に描いている。
■森氏:ドキュメンタリーもそうだと思うんですけど、物語をどこで終わらせるのか、作り手の思想の核心がモロに出ますよね。
■想田氏:どこで終わらせるのかというのは非常に重要です。最後のイメージを観客は家に持って帰るわけですからね。この映画は、もやもやするのが正解。もやもやさせたがってるんですよ、監督は。今、すっきりさわやかしていると、それは映画が失敗しているということでしょうね。
■森氏:ラストシーンはとてもフィクショナルでもあります。寓話のような言い方もできると思うんですけど、現実を切り取って再構成するドキュメンタリーを撮られている想田さんからすると、こういったすっきりとした構図に刺激されたり良いなと思ったりはしますか?
■想田氏:自作とは全然違うものとして観ているから、そういう風には思わないです。僕が劇映画を観るときは、なぜ監督はこういう人を登場させたんだろうとか、どうしてこういう構図にしたんだろうとか、作り手の視点では観ます。例えば、この映画で重要になってくるのが、孫の存在です。なぜ、独裁者一人で逃避行させるのではなく、孫を伴わさせたのか、理由があるはずなんですよ。それはなぜなのか、という発想で僕は観ますね。
僕は、この孫は秀逸な物語の装置として機能しているなと思います。なぜかというと、もし独裁者が一人で逃避行していたら、あんなに独裁者の心の内側ってわからないですよ。会話がほとんどないというか、ずっと黙って逃げているだけになるわけだから。
■森氏:森 ナレーションが入ったりね(笑)。
■想田氏:非常にダサいですよね、それ(笑)。だから、うまいなと思ったのは、孫と一緒に逃げさせることによって、孫が非常に素朴な疑問をぶつけるわけですよね。大人だったら聞かないような。だから、いろんな情報が開示されやすい。あとは、独裁者の心の内側っていうのがモロに出てくる、鎧を脱いだようなむき出しの心、柔らかい部分が出てくるんですよね。孫自身が、独裁者の柔らかい部分でもあるし、独裁者であろうと、孫とおじいちゃんじゃないですか。だから、彼の人間性というものが、どうしても出てくるようなセッティングになるんですよね。独裁者なんだけど、人間として描く、だからこそ我々は感情移入したりだとか、彼の目線になって疑似体験することができる。
■森氏:冒頭の「電気を消せ、点けろ」というシーンも、孫を喜ばせているおじいちゃんの姿と言えますよね。あそこから始まるっているというのは、非常に計算されたうまい出だしですよね。あのシーンだけでいろいろなことがわかっちゃう。
■想田氏:あの短いシーンで独裁者がどんな政治家なのかがすぐに分かりますよね。監督は、非常にエコノミカルにいろいろなことを詰め込むのが得意な人だなと思いますよね。
■森氏:ここまでマフマルバフ監督が、ある種、変異な形で寓話スタイルをとったというのも、意図的な選択かなという気がしますね。
■想田氏:架空の国にしたということが、僕は非常に秀逸な選択だったなと思いますね。『カンダハール』なんかを観ると、あれはアフガニスタンの話、あるいはタリバンの話という風に、我々は現実の世界状況と結びつけて観てしまうので、ある種ジャーナリズムな感じで観てしまうというか。実際のタリバンの支配地域と違うことがあれば、「あれは違うんだよ」というようなツッコミが入ったりだとか、フィクションなのにツッコミで議論がずれてしまうんですよね。だけど、これは架空の国にしている。どこで起きてもおかしくない話なんですよ。
もちろん、彼の脳裏にはフセインや、あるいはリビアのカダフィなどが、確実にいると思うし、実際に現実のものを想起はさせるんだけども、もっと自由があるというか、好きなように独裁者を描けると思うし、現実と違うじゃないか、というツッコミも入らない。だから自由があるということと、我々観客の視点からすると、引き付けて見える。僕が感じたのは、まさに、独裁者になりたがっているような……。誰とは言いませんけども(笑)。そういう人たちの末路みたいなものを重ね合わせて観ちゃったりだとか、普遍性が出るというか。
■森氏:もはや、ローカルな問題として閉じ込めてしまうような時代ではなくなったということで、言ってしまえば非常に確信的にテロリズムのような本質を捉えたということだと思いますね。
■想田氏:現実がフィクションを凌駕しつつある。だけど今、現実にそういうことが起きつつあって、寓話とは言っていられない状況になってきてますよね。
■森氏:寓話って現実に突き刺さるおとぎ話っていうような、風刺性ってあるものですからね。
■想田氏:監督には先見性も感じますよね。これを撮った時には、今のようなことは起きていないわけですから。多分、彼はアラブの春とか、ああいうものを念頭に置いて、民衆を描いたのだと思うんですけど、本質的な構造を捉えたがゆえに、別のところで起きている現象にも非常に重なってくる。ある意味プロフェットというか、預言者のようなものを感じて、背筋がぞっとしますよね。
■森氏:実際『カンダハール』の時も、9.11を予言したと言われてますよね。あとすごいなと思うのは、彼自身が実際の独裁政権の犠牲者であるんですよね。それによって命が脅かされたとか、何度も暗殺されそうになっただとか。今はロンドンに亡命していて。普通、そんな身の上の人だったら、もっと独裁者をとっちめるような映画を撮りたくなるんじゃないかなと思ったりするんですけどね。
実際、監督の青年時代は、彼は暴力的なことによって革命は起こるんだという、政治少年だったわけですね。でも今は考え方が変わって、世界を文化で変えるんだという発想になって、映画を撮っているという流れがあるんですよね。そこは想田さんも近いところがあるのでは?
■想田氏:そうですね、映画とか文化というのは、僕は栄養分だと思っているんですよ。直接的にはそんなに現実に左右しないのかもしれないけど、我々の精神を維持するというか、基本の部分を支えるもの、というのかな。土で言ったら栄養のある土からいい作物が育つわけじゃないですか。この土地が枯れてしまうと、いい作物というのは育たない。文化というのは恐らく、土の栄養素の部分。これがやせ細っていくと、ろくなことが起きないんですよね、だからいいものを育てようと思ったら、土の部分。マフマルバフ監督は活動家のようにも言われているけど、だけどこれを観るとやはり芸術家だな、と思いますね。