命がけのダイエットや撮影裏話を披露 『沈黙-サイレンス-』塚本晋也トークイベント

  • 登壇日:2017年2月2日(木)
  • 登壇者:塚本晋也
  • 場所:ROUTE BOOKS(東京・上野)
命がけのダイエットや撮影裏話を披露 『沈黙-サイレンス-』塚本晋也トークイベント
提供:シネマクエスト

戦後日本文学の金字塔、遠藤周作の「沈黙」を映画化した『沈黙-サイレンス-』。大ヒットを続ける中、2月2日(木)、【みんなの読書会】主催の「沈黙」読書会とのコラボイベントに、かくれキリシタンの集落・トモギ村の敬虔な信者・モキチを演じた塚本晋也が登場。映画評論家・森直人氏とのトークショーが行われた。

第一部は、遠藤周作の「沈黙」を語りあう読書会が行われ、第二部となる映画『沈黙-サイレンス-』トークイベントに登場した塚本は、「沈黙」は読んだことがなく、オーディションがあると聞いて読んだのが最初と告白。「率直に言ってすごく面白い。内容は重いが、ぐいぐい引き込まれて最後まで一気に読んだ」と魅了された。「オーディションは8年前で、もともとはモキチではなくてその他大勢の小さな役だった。監督に会えたら一生、思い出話ができる」と臨んだ二度目のオーディションでモキチ役を手にしたことを明かした。

「スコセッシ監督は本当に良く映画をご覧になる方で、30年前の映画『鉄男』を観てくださっていた。監督が『鉄男』のポスターをニューヨークの美術館に寄付したという話も聞いています」と明かす。「『タクシードライバー』を観て、すっかりはまってしまった。何度観ても、観るたびに面白い作品です。高校生までは正義の心を持った正しい人間が主人公になるものだと思っていた。でもスコセッシ監督作品は違った。正義の心を持った善人と悪の心を持った悪人が戦って正義が勝利する…というハリウッドによくあるものではなく、人の心の中にある暗い部分を映画にしている。それ以来、スコセッシ教に入信してしまいました」と、映画の師と仰ぐマーティン・スコセッシへの愛を語った。

塚本晋也の監督作『野火』と『沈黙-サイレンス-』の共通点へと話が進む。「規模が違いますが、僕は『野火』の構想を30年持ち続けていました。スコセッシ監督も約30年かけてこの映画を作っています」と前振りし、「減量ということで言えば、『野火』も飢餓状態の役なのでかなり減量しました。かつて減量した時が55.5キロ。『野火』ではそれを越えて53キロまで減らしました。もうこれ以上は無理だろうと思っていたら、現場でアメリカの栄養士が指導してくれて、最終的には40キロ台まで痩せることができた。最後の水磔の場面であばら骨が見えてよかったです。それまではせっかく痩せたのに何だかダブダブの衣装ばかりで、がっかりしていましたから」と笑いを誘う。「減量で何も食べていないと、力が出なくなって動けなくなるんです。そうすると栄養士さんが糖分みたいなのをくれるんです。それを食べるといきなり爆発的に力が出る。撮影が終わって帰国してからは、しばらく甘いものばっかり食べていました」と、減量の苦労を振り返った。

「スコセッシ監督は幼いころに神父になりたかったそうですが、同時にとてもバイオレンスな環境で生きているギャップがあった。遠藤周作さんも、神様への信仰は特になかったのに、母親の影響でキリスト教に入信された。信仰を大事にしたいのに、大事にしきれない自分がいて、そういった意味ではスコセッシ監督の環境と似ていたのでは」と分析、「清濁併せ持つというのがスコセッシ監督の世界観ですが、遠藤周作さんの本も同様です。正義の人が主人公にはならない。それに遠藤周作さんご自身も『沈黙』や『海と毒薬』のような純文学と、軽い雰囲気の作品を描き分けています。スコセッシ監督だって『沈黙-サイレンス-』を作るまでの間に商業的な作品も含めて多くの作品を作っています」と、2人の創作活動を紹介した。

トモギ村のかくれキリシタンを演じたことに重ねて、「当時の生活は信じられないぐらい厳しいものだった。作った農作物は全て年貢になり、食べるものもない。そこから救い出してくれるとキリスト教がやってきた。そもそもはオランダから貿易のために来た人々が、商品と同時にキリスト教を伝来させ、政府の都合で持ちこまれたものだったはずなのに、政治が変わると急に否定されて背くと殺されてしまうほどのタブーになってしまった。このように上の人の都合で一般の人々が信じたものを捻じ曲げられるということは、いつの時代にも起きている気がします」と語る。

原作の描写について、「遠藤周作さんはとても映画がお好きだったようで、小説もカメラアイ的な、様々な視点から物語を描写している。もしかすると映画を描くつもりで、小説を書いていたのかなという気もしますね」と語る塚本。「長崎の遠藤周作文学館の近くにある石碑に、遠藤周作さんの言葉“人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです”が残されています。僕が『野火』で描きたかったのはまさにこれなのです。あまりうまくない映画では、人が死んだりする時に空や海が曇ったりする描写を付けたりします。でも実際、人間が悲しいと思ったときに空がぼやけたりすることは絶対にない。空も海も鮮やかで、花は美しく咲いている。自然がこんなに美しいのに、なぜ人間は戦争なんてしているのだろう、というやりきれない気持ちを映画に込めました」と思いを重ねた。

俳優としては、キチジローの役柄に惹きつけられたという。「小説を読んだ時、もう一生かかったとしてもキチジローを演じたいと強く思った。ロドリゴの鏡のような、素晴らしいキャラクターです。2人は対比されながら、共にキリストに近づいていく。信仰のために命を捨てたモキチはもちろん強い人間です。しかし、キチジローが弱いかというと決してそんなことはない。何があっても生き延びるしたたかな強さがある。実際、めちゃくちゃしつこいじゃないですか。僕も、弾圧されたら山奥に隠れて虫でも草でも何でも食べてどうにか生き残ります。『野火』の主人公も、フラフラとただ生き延びる人物でした。原作ではどうしようもない人間として描かれているキチジローですが、映画では、迷えるロドリゴを導く人物かのように描かれている面がある」とスコセッシ版キチジローの人物造詣にも言及した。

映画の作り手としてこの映画をどう思いましたか?と質問が飛ぶと、「他の監督の現場に入った時、自分ならこうすると考えたことは1度もありません。作り方は皆違うので、それを体験するのが現場に行く喜びだったりします。現場に入ったら、監督の部品となるだけ」と、俳優としてのスタンスを説明。「ただ、スコセッシファンとしては“一体どうやって撮影しているのか?”という気持ちはあったのですが、その謎は結局解けませんでした」と、巨匠の奥行きに深さに、改めて感服したようだ。

トークの締めくくりでは、「とにかく俳優の自由にさせてくれる、ダメ出しをせず自由なムードを作ってくれる。撮影のときはテントの中でモニターを見ている事が多く、テントの外にはものすごいボディガードが立っている。でもたまに出てきて“エクセレント!!”と喜んでくれて、俳優を安心させてくれる。ちなみに脚本にはモキチが聖歌を歌う場面はありませんでした。ただ、僕としてはどうしても音を入れたいという気持ちがありました。かつてキリシタンたちがオラショを晴れ晴れと歌っていた日々があったはずです。それを伝えたかった。だから自分で曲を選んで、監督にプレゼンしたんです」と、塚本が“歌う”ことを提案し、スコセッシ監督に採用されたと微笑んだ。

最終更新日
2017-02-09 01:00:02
提供
シネマクエスト

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