小間使の日記(1964) 作品情報
こまづかいのにっき
セレスチーヌ(ジャンヌ・モロー)はパリで侯爵夫人邸の小間使いをしていたが、都会が嫌になり田舎町のモンテイユウ家に奉公した。そこは家つき娘の夫人が実権を握り、夫(ミシェル・ピッコリ)は狩猟と女漁りの好きな田舎紳士、夫人の父親も婦人靴を異常に愛する癖があり、下男のジョゼフ(ジョルジュ・ジェレ)も変った性格の持ち主だった。セレスチーヌは老人の身の廻りの世話をすることになったが、早くもモンテイユウ氏が淫らな目を向けはじめ、老人も夜毎彼女に靴をはかせて楽しんでいた。隣家には退役大尉、モージェ氏が住んでいたが、両家の仲は大変悪い。ある日老人が急死、その日から近くに住む少女が行方不明になった。セレスチーヌは二つの出来事のために、パリへ帰ろうと決心した。駅で、警官らの話をなにげなく聞いた彼女は決心をかえてモンテイユウ家に引きかえした。犯行後六日目で死体が発見されたのだが、現場をジョセフが通っている。犯人は彼かもしれない、そう思ったのだ。彼女は証拠を握ろうと彼の部屋に忍びこみ、血のついたシャツを発見した。裁判所で話そうとしたが多忙な判事は会ってくれない。この上は彼自身に犯行を認めさせよう。そのためには彼と肉体的に結ばれれば、そう考えて彼のベッドに行った。婚約までして、彼女は自白させることに成功、ジョゼフは逮捕された。彼女に惹かれていたモージェは結婚を申しこんできた。大尉夫人としての生活は小間使いのセレスチーヌにとっては魅力。教会で式をあげた日、彼女はジョゼフが証拠不十分で釈放になったのを知った。何ヵ月か後、ジョゼフは別の女と結婚、セレスチーヌは大尉夫人として新しい生活を楽しんでいた。しかし、心の底ではこの単調な生活にも、失望を感じていた。
「小間使の日記(1964)」の解説
オクタヴ・ミルボーの原作をジャン・クロード・カリエールの協力を得て「ビリディアナ」のルイス・ブニュエルが脚色、自ら監督した人間ドラマ。撮影は、「フランス式十戒」のロジェ・フェルーが担当した。出演は「マタ・ハリ(1965)」のジャンヌ・モロー、「軽蔑」のミシェル・ピッコリ、「ダンケルク」のジョルジュ・ジェレ、「シベールの日曜日」のダニエル・イヴェルネル、「サレムの魔女」のフランソワーズ・リュガーニュ、ほかにジャン・オゼンヌなど。製作はセルジュ・シルベルマンとミシェル・サフラ。
公開日・キャスト、その他基本情報
キャスト |
監督:ルイス・ブニュエル
原作:オクタヴ・ミルボー 出演:ジャンヌ・モロー ミシェル・ピッコリ ジョルジュ・ジェレ フランソワーズ・リュガーニュ ダニエル・イヴェルネル ジャン・オゼンヌ Dominique Sauvage Dandieux |
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配給 | ATG |
制作国 | フランス イタリア(1964) |
上映時間 | 101分 |
ユーザーレビュー
総合評価:5点★★★★★、1件の投稿があります。
P.N.「オーウェン」さんからの投稿
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-05-14
ルイス・ブニュエル監督の「小間使の日記」は、最もブニュエル監督らしく、また最も彼の作品と異なっているように思える。
淡々としたストーリーのなかに、彼独特のエロティシズムと死の匂いがある。
フランスのノルマンディー地方の、あるブルジョワ家庭の小間使・セレスティーヌに扮する、フランスを代表する名女優ジャンヌ・モローは、決して好感の持てない女を、怪しげなエロティシズムを漂わせつつ演じている。
一地方のブルジョワ家庭を、小間使の目を通して描いているのだが、そこには様々なアブノーマルな世界が展開していく。
冷感症でセックスを拒んでいる女主人。
彼女は、小間使のセレスティーヌが、香水をつけているだけでも、いらついて注意する。
そういった、普通の小間使ではない、世慣れた女をジャンヌ・モローは好演しているといっていい。
夫人からセックスを拒まれている、ミシェル・ピッコリ扮する夫のモンティユは、精力を持て余し、それを狩りに出る事で癒している。
当然のように、セレスティーヌにも言い寄るのだが、相手にされない。
モンティユの舅のラブールは、靴フェティシストで、セレスティーヌに自分のコレクションの靴を履かせたりして興奮するといった有様だ。 とにかく、変な人がいっぱいなのだが、これがブニュエル監督の手にかかると、実に芸術的でエロティシズムを感じさせるのだ。 この作品で重要なのは、セレスティーヌともう一人の、ジョルジュ・ジェレ扮する下男のジョゼフだろう。 二人ははじめから憎み合っているのだが、それはどこか近親憎悪に近い。 確かに二人とも、ただ従順に主人に仕えていないところは、よく似ている。 この映画で、一つだけ、セレスティーヌが女の意地を見せるシーンがある。 ジョゼフが、村の少女を強姦して殺害した時だ。 彼女は、自分の肉体をジョゼフに与えてまでも、彼から殺人の証拠を摑もうとする。 森の中で殺害された少女の足に、蝸牛が這うシーンには寒気がする。 痛々しく、鮮烈なシーンとして忘れられない。 しかし、そこには一つの、少女へのブニュエル監督のメタファーも感じられた。 どこかで人間を愛せないでいる人たち、セレスティーヌと、ジョゼフはまさにそんな人間だった。