P.N.「オーウェン」さんからの投稿
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-05-17
ドンファンは存在し得ぬ理想の恋人を求めて、次々に女を換え、カサノバは女たちの間をさすらいつつ、常に現在抱いている女を至上の恋人として愛する、と言う。
歌舞伎を思わせる凝りに凝った装飾の内に塗り込められたこの絵巻は、殊更に古めかしい「遍歴の物語」もしくは海の女神につながる巨鯨モーナの「胎内巡り譚」の装いで表現された、陽気な、優雅な、あるいは哀愁漂う、愛の諸相の集大成だ。
そして、この華麗な様式美の世界から、俳優の個性や演技をほとんど不要として、背景に溶け込ませてしまうフェデリコ・フェリーニ監督の映画では意外なほどに、鮮やかに浮かび上がって来るのが、カサノバという一人の男の、限りなく善良無垢な、愛に満ちた魂なのだ。
カサノバは山師であり、気障なお洒落屋であるが、一方、男尊女卑が一般であったこの時代に、ひたすら心を傾けて女を愛し、礼讃する、稀に見る本来の女人崇拝者だ。
しかし、それ故にこそ彼は、女たちのひととき憩う夢であり、永久に通り過ぎられる空白の四つ辻でしかない。
詩人として名を残すことを願いつつ、色事師としてのみ名高くなった彼の、その色事の多くは、女から求められたものであり、たまさか彼が求める女は、いつも傍らをすり抜けていった。 老残の果ての夢に、人形と踊る凄絶な彼の姿に、ある種の感慨を抱き、また加虐者としてのひそかな歓びと、同時にこのいじらしくも純粋な魂に対するたまらない愛しさを感じてしまう。 女を求め続けて、自らの虚無にしか到り得ぬ男は、女の側から常に秘められた願望であり、彼自身の哀しみに関わりなく、ここに一つの永遠の理想的な男性像が完成されているのだ。 フェリーニ監督本人にとってこの作品は、思い入れであるより、余りに手慣れた趣味の遊びであるようだが、イタリア古謡の哀切な節に包まれたカサノバの心にしみる優しさは、フェリーニ監督自身の風貌をも偲ばせて、女心を甘やかな懐かしさへと誘うのだ。