2011年の東日本大震災。未曾有の災害に襲われた非常時に、耳の聞こえない被災者はどのような状況に置かれていたのか。情報から取り残され不安や孤独に苛まれる被災者に寄り添い、10年間にわたって記録してきたドキュメンタリー映画『きこえなかったあの日』が2月27日から公開・配信される。この作品の監督を務めたのは、自身も生まれつき耳の聞こえない今村彩子監督だ。東日本大震災、熊本地震、西日本豪雨などの災害現場で、ろう者が置かれた状況を取材し続けてきた今村彩子監督にインタビューを行った。
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東日本大震災発生後11日で被災地に入られたそうですが、現地に入られる際、撮影プランのようなものはあったのでしょうか?
■今村彩子監督:被災地の情報が何もなかったので、何もわからず、ノープランのまま現地入りしました。それで宮城県聴覚障害者協会へ行って、支援対策本部のメンバーから菊地藤吉さん・信子さんご夫妻や加藤褜男さんを紹介してもらい、それで取材を始めました。
ご夫婦ともに耳が聞こえない菊地さんご夫妻とは、避難所で初めて会ったんですか?
■今村監督:避難所で初めてお会いしました。私も耳が聞こえないとわかったら、手話で色々と話してくれました。避難所には手話ができる人もいないし、聞こえない人のための配慮もない状態で、とても不安だったようです。
避難所に貼られている掲示物の内容なども正しく理解できなかったろう者の方も多かったそうですね。
■今村監督:内容がよくわからないと思っても、周囲の人も被災者で大変だったり、聞くのが恥ずかしくてそのままにしてしまう人が多いのかもしれません。私自身も、「こんなこともわからないの」と馬鹿にされるんじゃないかと、人に聞けないことがありました。私はわからないことがあったらネットで調べるようにしていますが、高齢の方など調べられない人もいるので……。
そういう意味でも、情報を掲示するだけでなく、手話通訳の方の存在が重要なんですね。
■今村監督:本当に重要です。役所での申請手続きなどは難しい言葉も多いですから、そこに手話通訳の人がいればその場で疑問を解消することができます。2013年10月に鳥取県で手話言語条例が制定されて以降、政府や地方自治体の記者会見などでも手話通訳が入るようになってきました。
作品内でも小泉正壽(宮城県聴覚障害者協会会長)さんらが宮城県の手話言語条例制定のために尽力する姿が描かれていましたね。
■今村監督:小泉さんからは、「社会を変えていきたい」という気持ちがすごく伝わってくるんです。小泉さんたちの活動が実って、宮城県では2021年4月に手話言語条例が施行される予定です。
2018年の西日本豪雨でも取材をされていますが、西日本豪雨では耳の聞こえない方々がボランティアに参加される様子を撮影されていましたね。ボランティアに参加された皆さんが本当にいい笑顔をされているのが印象的でした。
■今村監督:「困った人がいたら助けたい」という気持ちは、聞こえる人も聞こえない人も同じなんですよね。これまでは「耳がきこえないから迷惑をかけちゃうかも……」と遠慮していたんだと思うんです。でも西日本豪雨の際に、広島県ろうあ連盟が災害ボランティアセンターを立ち上げたことで、ろう者の方も遠慮せずボランティアに参加できるようになりました。
先日(2021年2月13日)も、福島を震源とする大きな地震がありましたが、東日本大震災の時と比べて、報道や社会の変化などは感じられましたか?
■今村監督:感じましたね。地震の時、私は名古屋の自宅で寝ていたんです。揺れにも気づきませんでした。その後、深夜2時半くらいに目が覚めてテレビをつけたら、ニュースに字幕がついていて、地震があったことをすぐ理解できました。東日本大震災の時は字幕がなかったので、津波の映像を見ても何が起きているのか理解できなかったですから。これは大きな変化だと思いますね。全日本ろうあ連盟をはじめとする皆さんの努力が、字幕や手話通訳といった形で実ってきていると思います。
今村監督は、アメリカに留学されて映像製作の勉強をされたということですが、耳の聞こえない方への対応や教育など、日米で違いはありましたか?
■今村監督:大きく違いました。アメリカに行ってカルチャーショックだったのが、ろうの先生が、耳の聞こえる生徒たちに対して授業を行なっていたことです。これまで日本では、ろうの先生には二人しか会ったことがありませんでした。その二人ともろう学校の先生です。でもアメリカでは、ろうの先生が手話やろう文化を聞こえる生徒たちに教えている。これは衝撃でした。
手話やろう文化がそれだけ社会に浸透しているということですよね。
■今村監督:留学中にルームメイトとうるさい場所を歩いていた時、「あなたはこのうるさい音が聞こえなくてラッキーね」と言われたことがありました。それって、耳がきこえないことを“障害”ではなく“特徴”ととらえているからこそ、他意なく出てきた言葉なんですよね。ろう文化がそれだけ受け入れられているのだと思いました。
なぜアメリカに留学しようと思われたんでしょうか?
■今村監督:小学生の時に、父が『E.T.』のビデオを借りてきてくれたんです。それまでは、家族がテレビを見ていても、自分だけ内容がわからずに疎外感を感じていたんです。ろう学校ではなく地域の学校に行っていたので、学校でも友だちの話がわからないこともあり、すごく寂しかったんですよね。でも、字幕のついた洋画を見て、初めて家族と一緒に映画を楽しむことができて、とても楽しくて……。映画からたくさん勇気や元気をもらいました。それで、映画が大好きになって、アメリカに憧れるようになったんです。当時、日本の大学には手話通訳派遣制度がなく、自己負担になるケースがほとんどでした。アメリカでは大学側に手話通訳・ノートテイクによる情報保障が義務づけられています。そのこともあり、留学への気持ちが強くなりました。自分が映画からもらった勇気や元気を他の人にも感じてほしくて、映画監督になろうとアメリカに留学を決めました。
『E.T.』がきっかけなんですね。これまで観てきた中で、一番好きな映画はなんですか?
■今村監督:やっぱり『E.T.』ですね。私にとって、大事な大事な映画です。
今はアメリカ手話をマスターしている今村監督だが、留学当初は自己紹介しかできなかったそう。このエピソードからも、今村監督のチャレンジングな姿勢や、目標を達成していくパワフルさがうかがえる。そんな彼女が「『E.T.』が大好き」と、指と指を合わせるE.T.のポーズをとりながら見せてくれた、屈託のない笑顔がとても印象的だった。これからもこの笑顔で被写体に寄り添い、未来を生きる子どもたちを勇気づけ、社会を変えるパワーを持つ映画を作ってくれることだろう。
【取材・文】松村知恵美