標高八、一二五メートル マナスルに立つ 作品情報
ひょうこうはっせんひゃくにじゅうごめーとるまなするにたつ
日本山岳会がマナスル遠征を決定したのは昭和二十七年四月十六日。爾来、成功までの五年間、血のにじむような幾多の苦難が重ねられた。即ち、二十八年早春、三田幸夫隊長以下十四名の第一次登山隊がはじめてマナスルに挑んだが、酸素の稀薄その他の悪条件が重なり、標高差三七五米をのこして敗退。翌二十九年、堀田弥一を隊長とする十四名の第二次登山隊はマナスル山麓のサマ集落でラマ教の狂信者に進路を妨げられ、攻撃目標をガネシュヒマールに変えねばならなかった。三十一年はじめ結成された槙有恒隊長以下十一名の第三次登山隊は技術の粋をつくした国産の装備をととのえて、三月二日、ネパールの首都カトマンズに到着。サーダーのガルツェン以下二〇名のシェルパ、四百人のポーターを加えた大部隊を編成、十一日、サマ集落に向って出発。道中最大の難所ブリガンダキ大渓谷、海抜二、五〇〇米のニヤック。ビー、ナムルーの集落を経て、三月二十五日、ロー集落で一行は初めてマナスルを仰ぐ。二十七日、サマ集落に着き、ベース・キャンプを設置し宿願のマナスル攻撃開始。四月七日、まず五、二〇〇米の地点に、第一キャンプを。次いでナイケ・コルに第二キャンプ、ナイケ・コルから垂直に近い黒岩をのぼり、アイス・フォールの上六、二〇〇米のところに第三キャンプ。更に六、六〇〇米の地点に第四キャンプを設立。五月三日、全隊一斉に登頂態勢をとり、翌四日、いよいよ頂上アタックの最後の拠点第五キャンプ設置をめざして設営隊出発、マナスル北壁の雪面を登り、午後三時七、一〇〇米の地点に三個のテントを張る。快晴の五月七日、大塚隊員とシェルパのペンバ・ズンダは頂上への登路探索に出かけ、七、八〇〇米の地点まで到達して帰還、翌八日快晴に恵まれ第一登頂隊員今西とサーダーのガルツェン出発。二人をたすける村木隊員ほか五名のシェルパからなる隊が随行。その日のうちに一行はプラトーに向い七、八〇〇米の地点に第六キャンプを建設。ここに一泊、五月九日、今西とガルツェンは頂上をめざす。午後〇時三十分、遂に成功、八、一二五米の絶頂に今西とガルツェンは、喜びにふるえながら、日本ネパール両国の国旗をうちふった。そして翌十日、第二登頂隊の加藤、日下田両隊員も再度登頂に成功。マナスル征服の輝かしい偉業をなしとげた。
「標高八、一二五メートル マナスルに立つ」の解説
標高八、一二五米、世界第八位のヒマラヤの処女峰マナスルは槙有恒を隊長とする第三次日本登山隊によって、ついにその絶頂がきわめられた。このマナスル登頂の輝かしい記録は、隊員の一人で第一次及び第二次登山隊にも参加、第二次登山の際「白き神々の座」を撮影した依田孝喜(毎日新聞写真部員)により三万呎のイーストマン・カラー・フィルムに収められた。本映画はこのフィルムから毎日映画社と映配が共同で製作(製作担当者は映配社長の塩次秀雄と毎日映画社社長の対馬好武)編集及び構成は映画監督のヴェテラン山本嘉次郎が当り、約八千呎の作品にまとめ上げた。
公開日・キャスト、その他基本情報
キャスト | 出演:槙有恒 小原勝郎 今西寿雄 辰沼広吉 千谷壮之助 加藤喜一郎 村木潤次郎 大塚博美 徳永篤司 松田雄一 日下田実 依田孝喜 ガルツェン(サーダー)ほか十九名 |
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配給 | 映配 |
制作国 | 日本(1956) |
上映時間 | 98分 |
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