P.N.「オーウェン」さんからの投稿
- 評価
- なし
- 投稿日
- 2024-06-12
※このクチコミはネタバレを含みます。 [クリックで本文表示]
サム・ペキンパー監督は、西部開拓者の名門の出身だそうだ。ということは、多分、独立自尊とか、勇気とか、自らの力で秩序をそっくり作り上げて、実力でそれを人々にも守らせるといった、伝統的なアメリカ精神の誇りというものを人一倍強烈に、その血の中にたぎらせている人間だということであろう。幸か不幸か、現代は、そういう精神が深い懐疑に包まれている時代だ。開拓者精神が無邪気に賛美された時代は、ジョン・フォード監督やハワード・ホークス監督の全盛期で終わったのだ。
サム・ペキンパー監督は、そういう誇りを誰よりも純粋に身に付けていながら、しかも、その誇りが時代遅れのものとして見捨てられかけている時代に生きている。
このことの苦悩が、サム・ペキンパー監督の作品を一貫するモチーフになっていると私は思っています。
時として、これは、より反動的な暴力賛美として噴き出すことがあるのです。
ダスティン・ホフマン主演の「わらの犬」のように、あるいは、スティーヴ・マックィーン主演の「ゲッタウェイ」のように。 しかし、反動的な暴力賛美といっても、タカ派的なそれのように厚かましく颯爽としたものではなく、ヒーローたちは深い悲しみに沈んでいる。 いずれも、開拓時代ならば男の中の男であり得た男たちが、そうでない時と場所で生きたために、あるいはズッコケ、あるいはニッコリとは笑えぬ破目に陥る物語であった。 「ガルシアの首」では、ウォーレン・オーツが演じている、メキシコのしがないバーのピアノ弾きも、もし開拓時代の西部で生きていたならば、いっぱしの男の中の男であり得たかもしれない男である。 しかし、今、彼は、汚辱にまみれた境遇にあり、その境遇から抜け出すために、自分の惚れている娼婦の愛人だった男の死体を墓から掘って、その首を盗んでくるという、まことにもって浅ましい、みっともない仕事を引き受けるのであった。
その仕事を引き受けたことで、すでに十分、彼の自尊心が傷付いていることは、ウォーレン・オーツのデリケートな表情でよく分かるし、そこに私は、西部男の純朴さをかなぐり捨て、ハリウッドの商業主義の汚濁の中を生きているペキンパー自身の分身が見えるように思う。 ウォーレン・オーツの演じる主人公ベニーは、愛している娼婦エリータを案内人にして墓探しの旅に出る。 ウォーレン・オーツもいいが、このエリータを演じるメキシコの女優イセラ・ベガが、社会の辛酸をなめつくしている女の分別豊かな色気を見せて、実に素晴らしい。 ベニーは彼女に結婚を申し込むのだが、彼の彼女に対する態度には、例えば、ジョン・フォード監督の「駅馬車」でジョン・キャラダインの紳士賭博師が、馬に乗り合わせた東部のレディに対して示した丁重さに一脈通じるような、西部男の理想化されたフェミニズムの匂いが漂っていると思う。 うだつのあがらない男の娼婦に対する手荒い態度が、基本になっているにもかかわらず、だ。
つまり、彼は、もし開拓時代の西部に生きていたら、レディを守って獅子奮迅の活躍をしたであろうようなタイプの、誇り高き荒くれ者なのである。 ところが今、彼は、この尊重する女の前に、金欲しさに死体探しをしている男というみっともない姿をさらしている。 その恥ずかしさをこらえながらの愛の告白と、彼の恥ずかしさを十分に理解している女の慎ましい思いやりのこもった受け容れ方と。 二人の感情のデリケートに交錯する墓地までの道行きの情感の細やかさこそは、この映画の圧巻だと思う。 二人が自動車で、かつてエリータの愛人だったガルシアという男の墓のある田舎へ行く途中、一夜、野宿をして、草むらでしんみりと夜食をとっていると、突然、二人組のオートバイ乗りのヒッピーがやって来て、ニヤニヤ近づいてきて、拳銃を出してエリータとやらせろと脅すのだった。 ベニーとしては男の度胸の見せどころだが、エリータはどうせ自分は娼婦なんだから私に任せておいてちょうだい、仕方ないわという調子で応ずるのだった。
そして、物陰に連れて行かれると、そこは商売柄なのか、エリータの態度に若干の媚びが出る。 すると、ベニーはもう一人をぶん殴って拳銃を奪い、エリータと寝ようとしている奴を射殺するが、エリータのヒッピーに対する媚態めいたところを見たのは、ベニーにとってやはり悲しいのだろう。 エリータの方もそれをみられたのは、やはり辛いのだろう。 その夜、ホテルの薄汚い部屋をとると、エリータはシャワー・ルームに入ったまま、しばらく出てこない。 ベニーがドアを開けてみると、エリータはシャワー・ルームの床にあぐらをかくようにして座ったまま、辛そうな表情に沈み込んでいる。 その脇に、彼女を励ますような表情で立ったベニーも、実に辛い。中年の二人の、人生の辛酸を知った思いやりと自責の念。 実に見事だ。 サム・ペキンパー監督は、暴力映画の名監督として知られ、この映画でも後半、私が最も好きな深作欣二監督に匹敵する、その暴力演出の凄みは十分に出ているが、その暴力描写を生かしているのは、前半の情味であると思う。
ベニーは、傷付いている自尊心を抑えに抑えて、死体盗みというみっともないことをやる。 ところが、自分はだまされていたのだった。 ガルシアの首を盗んでこいと彼に依頼した黒幕は、帰り道に殺し屋たちを待ち伏せさせておくのだった。 ベニーは、自分の恥部を全てさらけ出して愛を求めた女を殺されたうえに、死体の首は横取りされてしまったのだ。 ベニーは怒る。その怒りは、単なる金銭の恨みに発するものではない。 耐えに耐え、抑えに抑えた自尊心を踏みにじられたことに発する憤怒なのだ。 この取り戻した首と一緒に旅をするウォーレン・オーツの、次第に錯乱気味になってゆく懊悩の表情は、あたかも人形浄瑠璃のサワリの部分に見るような、力を振り絞ったのろい動作なのだ。 片手にガルシアの首の包みをさげ、片手にドライアイスの包みをさげて、悄然とメキシコ・シティの自分のアパートに帰ってきたベニーが、首の包みにドライアイスを詰めたうえで、どうにも憤怒に耐え兼ね、身悶えしながらベッドにのけぞる-------。 暴力描写以上に、この抑えに抑えた場面こそが、この映画のクライマックスであろう。
とはいえ、暴力描写の凄みがペキンパー映画のセールス・ポイントであることは否定できない。 ベニーは、二人のヒッピーを射殺したのを手始めに、エリータを殺して首を盗んだ二人組の殺し屋を殺し、さらに首を受け取りに来たアメリカ人のもう二人の殺し屋を殺す。 この殺し屋たちは、その直前に、首を取り戻しに来た村人たちを虐殺しているのだ。 ベニーはさらに、殺し屋どもの本拠に乗り込んで、親分はじめ皆殺しにし、首の注文主と分かった田舎の豪族の屋敷に乗り込んで、エミリオ・フェルナンデス扮する大地主を殺し、その部下たちから撃たれて、車ごと蜂の巣のようになって果てるのだった-------。 殺しの量や激しさだけなら、最近はこれに類する映画は少なくない。 この映画の見どころは、その殺しのシーンにみなぎる苦悶の情感なのだ。 その苦悶に、私は、過大な自尊心を強引に振り捨てざるを得ない立場に置かれたアメリカ人の苦悶が、重なって見えてくるのだ。
男らしさというものの価値の急速な下落に、耐えに耐えてきた男が、もはや西部劇のヒーローのような行動の仕方には、なんの意味もありはしないということを百も承知のうえで、その無意味さに敢えて殉ずる、といった悲壮さがそこで浮き彫りにされているのだと思う。