ガルシアの首 作品情報
がるしあのくび
メキシコの広大な牧場を支配し、この地方の絶大な権力者であるエル・イェフェ(エミリオ・フェルナンデス)は、愛娘のテレサを妊娠させたのがアルフレッド・ガルシアと知って怒り狂った。彼はガルシアの首に100万ドルの賞金をかけ、片腕のマックス(ヘルムート・ダンティン)をメキシコ・シティに飛ばせた。マックスは名うての殺し屋であるクイル(ギグ・ヤング)やサペンスリー(ロバート・ウェバー)を集めてバーやクラブの聞き込みを開始した。バーのしがないピアノ弾きベニー(ウォーレン・オーツ)は独特の嗅覚で、クイルとサペンスリーの背後に金の匂いをかぎつけていた。そして情婦のエリータ(イセラ・ベガ)からガルシアに関する情報を得た。エリータによれば、ガルシアは彼女と関係を持ち、再会を約しながら自動車事故で死亡したというのだ。その死体は故郷の生家の墓場に埋葬されているという。ベニーは人生にもう一華咲かせるためにガルシアの首に賭けることにした。ベニーはマックスを訪ね、1万ドルでガルシアの首を渡すことを約束し、いやがるエリータを口説いてガルシアの故郷に向かった。それは新婚旅行もどきの道中で、ベニーは待ちうけるだろうバラ色の生活を饒舌に語った。途中、野宿をしようとする二人にパコ(クリス・クリストファーソン)というヒッピー風の若い男二人組に襲われたがベニーは無造作に射殺した。しかし、その後を組織に雇われた男たちがつけていることに彼は気づかなかった。夕方、目的地の村に到着した二人は、深夜に墓堀を開始した。エリータはいやがったがベニーは掘り続けた。そのとき、背後から何者かに後頭部を殴られたベニーは気絶し、気づいたときは彼の横にエリータとガルシアの死体があった。しかし、ガルシアの死体には首がなかった。愛するエリータを喪った悲しみと何者かに対する憤怒にかられベニーはすぐ二人組のあとを追った。追いついたとき、ベニーの軍用コルトが火を吹いた。倒れている二人にベニーはありったけの弾を撃ち込んだ。ガルシアの首を奪ったベニーは既に金銭を超越したおさえがたい怒りにかられていた。途中、ガルシアの両親や親せきが首を取り戻しにやってきたが、クイルとサペンスリーがかけつけ、彼らを虐殺した。ベニーはその二人をも射殺すると、ニューメキシコのホテルに拠を構えるマックスを訪れ、命令を下したエル・イェフェの名を聞きだすとそこにいた全員を射殺してエル・イェフェの牧場に向かった。カバンの中にはドライアイスがつめられ、その中にはガルシアの首が納められてあった。ベニーが到着したとき、テレサはガルシアの子を産みおとし、その孫を抱くエル・イェフェは上機嫌だった。ベニーはテレサの撃ち殺してという叫びと共に拳銃の引き金をひいた。100万ドル入りのカバンを掴むとベニーは車に乗り込み、門を突破しようとしたが、数十人の部下が一斉に発砲した。(ユナイト映画配給1時間52分)
「ガルシアの首」の解説
首に100万ドルという巨額の金がかけられた男を追う一匹狼とシンジケートの戦いを描く。製作総指揮はヘルムート・ダンティーン、製作はマーティン・バウム、監督は「ビリー・ザ・キッド 21才の生涯」のサム・ペキンパー、脚本はゴードン・ドーソンとペキンパー、撮影はアレックス・フィリップス・ジュニア、編集はガース・クレーヴンが各々担当。出演はウォーレン・オーツ、イセラ・ベガ、ギグ・ヤング、ロバート・ウェバー、ヘルムート・ダンティーン、エミリオ・フェルナンデス、クリス・クリストファーソンなど。日本語版監修は高瀬鎮夫。デラックスカラー、ビスタサイズ。1974年作品。
公開日・キャスト、その他基本情報
公開日 | 1975年7月12日 |
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配給 | ユナイト映画 |
制作国 | アメリカ(1974) |
上映時間 | 112分 |
ユーザーレビュー
総合評価:4.5点★★★★☆、3件の投稿があります。
P.N.「オーウェン」さんからの投稿
- 評価
- ★★★★★
- 投稿日
- 2024-06-12
"サム・ペキンパー監督の資質に最も忠実な、最も純粋な作品 「ガルシアの首」"
自尊心というものは、人間にとって、実に始末におえない厄介なものであると思う。
一寸の虫にも五分の魂というぐらいだから、どんな人間にも自尊心はあり、自尊心こそは人間の精神の核になるものであると思う。
これなくしては人間は生きられない、と言っても過言ではないだろう。
現在のアメリカという国のことを考えると、私は日本人が敗戦というショック療法によって、ようやく癒し得た難問に、理性ひとつで立ち向かわなければならないという苦しい状態にある国という印象を抱いている。
かつて、アメリカは、世界で最も進んだ民主主義の国であるという自尊心に生きていた。
世界で最初に人民主権の革命を達成した国、ファシズムの猛威を打ち破って、その脅威から世界を救った国、自由と勤勉によって世界最大の富を築いた国。
その誇るべきアメリカ民主主義の土台にあるものこそは、開拓時代の西部に脈々と流れていた、独立自尊の精神であり、誰にも頼ることなく、自らの力で秩序を作り上げて、それを維持する剛直な草の根の民主主義である、と。
そういう精神の最も見事な映画的表現としては、ジョン・フォード監督の一連の名作を思い出すだけでいい。 ところが今、そういうものとしてのアメリカ民主主義の誇りは、大幅な修正を余儀なくされている。 はたしてアメリカは、本当に民主主義国家だったのか。 むしろ差別主義の国だったのではないか。 ファシズムから世界の人々を解放してくれたのはいいが、かわって自らが抑圧者となってしまったのではないのか。 ヴェトナム戦争の敗北とブラック・パワーの抬頭がショック療法となって、アメリカは反省せざるを得なくなり、世界で最も偉大で模範的な国という過大な自尊心を削ぎ落そうと努力するようにもなってきている。 だが、しかし、ヴェトナム戦争やブラック・パワーは、日本が味わった敗戦という経験に比べれば、ショック療法としては、どうしたって、まだ、不十分なものであると思う。 力づくで反省させられたというほどではなく、どうもこれまでのようには調子よくゆかなくなったから、自発的に考え方を変えてゆかざるを得ない、というところであろう。 それだけに、彼らの苦悩と内面的な葛藤は、大きいものがあるのだと思う。
我々が、外側からがっちりお膳立てされて行なった反省を、彼らは、ある程度までは外側から強いられたにしても、より主体的にやらなければならないからである。 そういう苦悶と葛藤を、映画において最も鮮やかにそのイメージに刻み込んでいるものに、サム・ペキンパー監督の一連の作品があると思う。 「ダンディ少佐」「ワイルドバンチ」「砂漠の流れ者」「ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦」など、これらの西部劇や準西部劇は、いずれも古き良きアメリカ精神の権化ともいうべき、剛直な西部男の誇りへの挽歌であり、その人間像が意味を失っていることへの哀切なエレジーなのだと思う。 特に、この「ガルシアの首」は、サム・ペキンパー監督のそれまでの作品の中でも、彼自身の資質に最も忠実な、最も純粋な作品だと言ってもいいのではないかと思う。